聖書のみことば
2013年6月
6月2日 6月9日 6月16日 6月23日 6月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 偽善者とはだれか
6月第2主日礼拝 2013年6月9日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第7章1~13節

7章<1節>ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。<2節>そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。<3節>――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、<4節>また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――<5節>そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」<6節>イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。<7節>人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』<8節>あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」<9節>更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。<10節>モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。<11節>それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、<12節>その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。<13節>こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 ここで「偽善者」とは「ファリサイ派の人々と律法学者たち」のことを言っているのですが、偽善者という言葉が出て来るのは6節で、今日はファリサイ派の人々や律法学者たちとはいかなる人々なのかということを、5節までの御言葉から聴きたいと思っております。

 1節「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」と記されております。なぜ彼らはエルサレムから来たのでしょうか。ファリサイ派の人々というのは徹底的に律法を実践した人たちでした。「律法」という神から与えられた命令を誠実に実践したのですから、それは人々からの尊敬を受けるのですし、そういう意味で、彼らは民の指導者でした。私どもは、ファリサイ派の人々と聞けば偽善者であると、ただ単純に思っていますが、ここで改めて、彼らのことを知らなければなりません。神の掟、律法を実践できるということは、実に尊敬すべきことだからです。

 律法を実践するという場合に起こってくることは何かと言いますと、それは律法を解釈するということです。例えば「安息日を覚えてこれを聖とせよ」という律法を守る場合、「聖とする」ということの内容を知らなければなりません。旧約聖書における「安息日」は、申命記と出エジプト記の記述によります。申命記からは、天地創造の際に神が6日働かれ7日目に休まれたことから、7日目には「創造主なる神を覚えて神を礼拝する日」、また出エジプト記では、エジプトにおける奴隷の民からの解放の出来事から「神の救いを覚えて神を礼拝する日」、それが安息日です。
 ユダヤ人は考えました。「聖とする」、つまり安息日を「神の日とする」とは、どういうことか。それは自分のための日としないこと、自分の益のための日としないこと、だから日常の労働をしない、労働を禁止すると考えたのです。生命を維持するための最低限のこと以外はしてはならないので、例えば病気になっても、急病でなければ治療は次の日まで待ちます。旅をしたり長い距離を歩いてもなりません。けれども、では長い距離とは何キロかとか、細かい規定が必要になるのです。そのように律法を厳密に守るためには、そこに解釈が必要ですから、大変なことです。それで、律法を解釈するためには律法の専門家を必要としました。律法学者たちは、律法の解釈を民に示す、教えるという意味で指導者でした。また、ファリサイ派の人々も律法を実践するわけですから、律法についての昔からの伝承、解釈に精通しており、ファリサイ派の人々は往々にして律法学者でもありました。どちらにしても、彼らはユダヤ人が宗教生活をする上での模範、導き手であったのです。

 その彼らが、エルサレムからガリラヤに来たと言うのです。当時、エルサレムには神殿がありました。イスラエルの宗教の中心は神殿でしたから、そこから来たということは、彼らがエルサレム当局の権威のもとに、権威ある者としてガリラヤへ赴き、民の宗教指導のためにやって来たということなのです。ユダヤ教の権威ある者として主イエスのもとに来て、主イエスの宗教活動について理解し、また指導すべきだと考えて来たのです。
 このことが示すことは、主イエスの活動がエルサレム当局からも注目されていたということです。主イエスの活動がユダヤ教から逸脱していないかどうかを探るために来たのです。
 そしてそこで、彼らは、2節「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」のでした。

 日本人にとっては、手を洗うことは清潔のために一般的な感覚です。当時のユダヤ人は、食器を使わず、直接手で食べ物を食べましたから、手を洗うことは当たり前のことだと思って読みますが、ここでは清潔のために手を洗うことが第一の問題なのではありません。3節4節には注が入っており「――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、…」と、彼らが宗教的な伝承を守っていたことが記されております。
 「念入りに手を洗う」ということは、指の一本一本を念入りに洗うことだと思ってしまいますが、そうではありません。注解書によりますと、この部分は「意味不明」とあります。原文では「拳で洗う」と書いてありますから、実際にどうやって洗ったのか、分からないのです。

 これらの記述が言っていることは何でしょうか。4節に「また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」とあります。市場には異邦人も来ますし、信仰者以外の人も来ます。ですから、市場でそれらの人々に触れた場合、汚れが移るとユダヤ人は考えました。人混みでは実際に触れたかどうかは分かりませんが、分からないから良いとは思わず、分からないうちに汚れていては困るので、清めると考えるのです。そのようにして、彼らは、食事の時には宗教上の慣例をきっちり守って食べていました。食べて良い物と悪い物もありました。食物規定の汚れについては大変厳しかったのです。ですから、手を洗うということは、宗教上の儀式を伴った行為であり、また、個人の問題ではなく、宗教上の共同体の問題でもありました。
 それで、彼らは、主イエスの弟子たちが昔からの伝承、宗教上の慣例を守っていない様子を見て、主に問うたのです。

 この3 節4節の注の部分の記述は大変面白く、「そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―」と、ここで敢えて言う必要のないことまでも記されております。これは皮肉を言っているのです。彼らの清めが行き過ぎていることを言いたいのです。
 けれども、私どもはここで考えなければなりません。「清さ」ということは、日本人にとってもないがしろにできない事柄だからです。
 日本人は「清潔、清いこと」を重んじます。その潔癖感ゆえに不自由になるということです。潔癖感が強ければ強いほど、それは病的になります。潔癖性というのは、私どもの心を蝕むものなのです。ですから、清さということも考えなければなりません。
 潔癖性で表れることは何でしょうか。人は「こだわり」の中で生きているということを知らなければなりません。「こだわり」とは、何かに捕われているということです。人は潔癖であるとき、自己の心は病み、捕われの中にあるということです。
 私どもは不自由な者なのです。宗教改革において与えられた新しい価値観は「自由」ということでした。しかし、人はさまざまに捕われて生きているというのが現実です。他者に捕われるだけではありません。自分自身に捕われているのです。
ですから、自由という価値観はとても大事です。自らを解き放つ、それが自由です。しかし現代社会は、自由という新しい価値観を、わがままを通すという形での自由と勘違いして来ました。皮肉られても笑えない現実が、私どものうちにもあるのです。

 日本人はしかし、こだわり、捕われを逆手に取って独自の宗教観としました。昔の日本は、共同体の束縛の中で生きたゆえに、かえって、こだわりを美しいとし、それによって自己を解放するという宗教観を生み出したのです。捕われを拒むのではなく、捕われに徹する。それは「運命」という価値観に通じます。運命と思って諦め、それを美化する。そこで、束縛の中で自由に生きるということが起こったのです。

 このことで分かることは、宗教は人を束縛するものではないということです。束縛から人を解き放つもの、それが信仰なのです。信仰が無ければ、人に自由はありません。人には心に束縛がある、ゆえに、束縛・捕われから解き放つ力、それが信仰生活であることを覚えたいと思います。
 この日本人の宗教観は、共同体の中で共有できた価値観でしたが、今の日本社会ではそうはいきません。社会に金本主義が入り込み、運命に徹し美化することは難しいのです。また、徹するという行為は大変哲学的ですから、万人に可能なことではありません。何かに徹していたとしても誰も誉めてくれませんから、自分で自分を誉める以外ない。孤高の中で徹することが出来る人は稀なのです。ですから、この価値観によっては、万人の救いは起こりません。

 この箇所で、主イエスの弟子たちは何かに徹しているのでしょうか。いえ、弟子たちには何も分かっていないのです。宗教的な伝承も習慣も分かっておりません。自分が主イエスの弟子として自覚的に主に従い、主にあって自由であると確信しているわけでもないのです。
 ただ、主イエスがそのような弟子たちと「共にあってくださる」、だから弟子たちは自由なのです。さまざまな捕われがあっても「主イエスが共にいてくださることによって解き放たれる」のです。弟子たちの中には不平不満を言う人もいたことでしょう。しかし、主の弟子は「主にあって自由」なのだということを聖書は語っているのです。

 私どもはどうでしょうか。自由に生きているでしょうか。「ねばならない、こうあるべき」と思い、「でも、できない」と悔やむ日常です。けれども、そういう日常であるにも拘らず、自分を責める必要はなく、主イエスが共にあってくださることによって自由なのです。

 5節「そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』」と記されております。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、伝承にこだわっていて、それこそが信仰生活だと思い、主イエスに問いました。
 しかし、主イエスはその問いに対して「自分を束縛して生きることが信仰ではない」と言われました。「一切の束縛から解き放たれて生きることが信仰生活である」と言ってくださるのです。

 私どもは、いろいろと捕われているから信仰生活ができないのです。こだわりや束縛は、それが起こった時点時点で、自分を占めてしまう、それがすべてになってしまいます。しかしそこで、そういう自分でしかないと自分を相対化できるとき、私どもは自由になることができるのです。

 神を見ることなく、自分を相対化することはできません。ただ主を信じること、「主が共にあってくださることによって自由になる」のだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

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