2013年6月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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触れた者は癒された | 6月第1主日礼拝 2013年6月2日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第6章53~56節 | |
6章<53節>こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。<54節>一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、<55節>その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。<56節>村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。 |
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53節「こうして」とは、前のところを受けての言葉です。湖上で逆風に遭った弟子たちの舟に、主イエスが近づき乗ってくださって、嵐を鎮めてくださり、舟は前に進みました。主イエスが舟に乗ってくださると風は凪ぎ、そして主イエスを幽霊だと恐れる弟子たちに、主は「安心しなさい」と言ってくださいました。主イエスは、嵐をも鎮めることのできる「力ある方」です。主イエスが共にいてくださることによって、天も地も静まるのです。そして、動揺する他なかった弟子たちも静けさを得て、前に進むことができました。 「平安」とはどこにあるのかを思います。「平安」は「神共にある」ところにあるのです。 「一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ」と記されております。「ゲネサレト」とはどこでしょうか。そこはカファルナウムの南側の肥沃な地方です。何でもないような記述ですが、よく読むと矛盾しております。45節では、主イエスは弟子たちを「向こう岸のベトサイダへ向かわせた」とあるからです。そこは対岸ですから東側なのです。しかし着いたのは南側です。ベトサイダには行ったのかと言えば、この先の7章8章で確かに行ったことが分かります。けれども読んでおりますと、途中で遠回りをして、異邦人の地であるティルスやデカポリスも通っているのです。 54・55節「一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた」とあります。舟が対岸へ行かず、南側に着いたからこそ、このことが起こっているのです。主イエスはガリラヤ湖畔で多くの人々を癒されました。そしてそこで人々を帰されましたが、まだその地方には主イエスを求める人々がいましたから、主イエスがおられると聞いて、押しかけて来たのです。主イエスがどれほどの存在感を持っておられたかが、この記述によって分かります。 「相手を知る」ということはどういうことでしょうか。相手を大いなる者として知っていなければあまり関わりませんし、嫌だと思っていれば関わらないでしょう。「人を知る」というとき、それは、その人を「存在として知る」ということが大事です。 存在は、自分で持てるものではありません。存在は、関係の中でしか持てないのです。他者に認められるということです。それは、神に相対するところでしか持てないものです。絶対の他者である神によってこそ、人は自らの存在を存在たらしめることができるのです。究極に、私どもはこの世のすべての関わりを失ったとしても、もし神を信じることができるならば、神を拝することができるならば、存在を得ることができます。祈りにおいて、神と対話することができるからです。どれだけ多くの人の中にいたとしても、そこに本当の触れ合いが無ければ、存在は虚しいのです。ですから、私どもは、私どもに関わってくださる神を見出さなければ、虚しいのです。 人々は、主イエスに偉大な力を、圧倒的な存在を見たからこそ、押し寄せております。「癒し」とは「神の慈しみをいただくこと」です。そこでこそ、人は癒されるのです。 56節「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」と記されております。「村でも町でも里でも」とは、「どこからでも、そこら中から」ということです。「広場」とは、人の集まる所です。 主イエスの「服のすそを触る」というところで思い出すのは、5章に記されていた「12年間、長血を患っていた女性」のことでしょう。女性は主の衣のすそに触り、そこで主イエスはご自分から力が流れたことを知られるのです。人混みで押し合って主に触れたのではありません。せめて主の衣のすそにでも触りたいというその女性の思い、主イエスを切実に求めて触れた、だから主は感じられたのです。そしてその女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。病が癒されること以上に、主を求めた者に対して、主は救いの宣言を与えてくださるのです。主イエスの力をいただきたい、だから人々は主に触れたいのです。 ここで「衣のすそに触る」ということには、私ども日本人には分からない深い意味があります。民数記によれば、神からモーセに示されたことは「衣のすその4隅には青い房を付けよ」ということでした。それは、すそに付けられた青い房を見るたびに神の命令を思い起こし、守り、神に相応しい正しい民となるためです。衣のすそには青い房が付いているのです。人々は、すその青い房を見るたびに、神の御言葉、命令を思い起こすのです。 私どもは、様々な重荷を負うて生きる者です。その現実に動揺する者です。そのような私どもが自分を取り戻す場はどこにあるのでしょうか。それは、主の御言葉を思い起こすところにあります。人々を本当に癒すものは何だったでしょうか。それは、主の御言葉なのです。 御言葉を想起すること、それは私どもにとっての恵みです。ですから、御言葉をたくさん覚えていることは幸いなのです。けれども、なかなか覚えることはできません。だからこそ、たくさん聴くしかないのです。 この礼拝の場も、まさしく主の御言葉を想起する場であります。週毎の礼拝を守り、御言葉をいただく日常、これこそが「存在ある者」として生きるために、私どもに与えられている恵みであることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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