![]() |
2013年5月 |
|||||
5月5日 | 5月12日 | 5月19日 | 5月26日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
■「聖書のみことば一覧表」はこちら | 音声でお聞きになりたい方は こちらまでご連絡ください |
霊よ、四方から吹き来たれ | ペンテコステ主日礼拝 2013年5月19日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
|
聖書/エゼキエル書 第37章1~14節 | |
37章<1節>主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。<2節>主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。<3節>そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」<4節>そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。<5節>これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。<6節> |
|
今朝は、エゼキエルの預言に聴きたいと思います。 この聖書の箇所を理解するためには、まず、エゼキエルの生きた時代の背景を知らなければなりません。エゼキエルとはどのような人物なのか。エゼキエル書1章〜3章にかけて、エゼキエルの預言者としての成り立ちが記されております。 11節「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』」とあるように、「枯れた骨」は、希望を失い「生ける屍」となっている「イスラエル」を指すのです。捕囚の民となって、異境の地で甚だしく枯れた骨となったイスラエルに、しかしそれゆえに「語れ」と、神はエゼキエルに言ってくださいます。 12節「わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く」と記されております。イスラエルの捕囚の経験は、「墓、死の支配にある」ということを示しているのです。ですから「枯れた骨」は「死せる者に等しい者」であることを表しております。 人が自らの思いに破れているとき、そのような人に対して、人の言葉や思いをもって励ますことが出来るでしょうか。それは難しいのです。恐らく祭司であったエゼキエルは、ヨヤキム王捕囚の5年間に、民の指導者として語り、人々を励ましてきたはずです。捕囚のただ中で、絶望の民に何かしらの働きかけをしてきたはずですから、人のどんな励ましの言葉も虚しいということをエゼキエルは知っていたと思うのです。そのエゼキエルに対して、神は問われる。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と問うてくださるのです。 私どもは様々な混乱や無力さの中で、人のどんな言葉も虚しいことを知っております。人の言葉は人の思いであるがゆえに虚しく、励ましのつもりの言葉が却って人を落ち込ませることさえあるのです。ただ「人の思いを超えた力だけが、人を立ち上がらせることができる」のです。ですから私どもは、そこに神が働いてくださることを「祈る」のです。 神の問いに対するエゼキエルの答えはどうだったでしょうか。その答えは大変豊かなものでした。3節「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。この言葉の中にあることは「わたしは努力しました。でも無駄でした」という思いです。自分の力は尽くし切り、後はもう「神にすがるよりない」ところで発する言葉です。もう既に散々関わっているエゼキエルです。人の思いの一切、人の働きかけは、時には重荷になったり、逆に投げやりになったりもするのです。虚しいのです。ですから、ただ「神に委ねる」他ないのです。 そしてここで、エゼキエルは単に「あなたのみがご存じです」と言っているのではなく、「主なる神よ」と言っていることは、大変大きい意味のあることです。 私は最近、「神こそ主である」という感覚が、教会の中で薄れてきているのではないかなと感じております。それは社会全体が「主人」という表現を使わなくなってきたことに要因があると思います。夫婦の関係において「主人」とか「主婦」と使わなくなりました。それは、その家庭において、夫が主(あるじ)であったり、家庭内の事柄において妻が主(主婦)であるという感覚ですが、自然に使っていた主(あるじ)の感覚を失ったために「神を主とする」という実感が薄れていると思うのです。この感覚の喪失は、神と人間との関係を言い表す大事な言葉を失っていることだと危惧しております。 「神よ、あなたこそ、わたしの主」、それは「神の御心が中心である」ことを言い表しているのです。私どもの主人は神、その神が全ての中心にあって、私どもの営みがあるのです。ですから「神が主体」です。私どもは「神に仕える者、神の栄光を表す者」に過ぎないことを覚えなければなりません。 人が自分の栄光にこだわることは醜いことです。自分にこだわり、神から遠ざかるのです。自分の栄光は、どこまでもどん欲で、曇った輝きです。 「あなたのみがご存じです」、まさしく神のみがご存知です。ただ神のみ、人に希望を与えてくださる方です。「神のみご存じ」それは、「神が全知全能であられる」ということです。「枯れた骨が生き返る。それは、あなたのみ、あなたのみご存じです」とエゼキエルは答えているのです。 ここで、「神にはできる」とは言われておりません。「できるか、できないか」ではないのです。そうではなくて、「神がなさるか、なさらないか」であることを知らなければなりません。「枯れた骨を生き返らせるか、生き返らせないか」、それをなさるのは神です。神は、人に相応しく応えてくださるのです。なすもなさないも神の行為なのです。 4節「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と記されております。神は「神の言葉を聞け」と命じておられます。すべてが白紙であり、何も聞けなくなった者たちに「聞け」と言ってくださるのです。 9節「霊に預言せよ、霊よ、四方から吹き来れ」と言われます。10節「わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」と記されております。捕囚の民イスラエルは、神の霊によって、再び神の民イスラエルとして立ち上がるというのです。それは、屍にも等しいイスラエルが再び立ち上がり、「新しい神の民として、新しく形づくられる」ということです。 ここに記されていることは、私どもとどう関係しているでしょうか。 今、私どもは、神が聖霊をくださり、主日の礼拝ごとに新たに神の子として立てられ、そして、その恵みを証しする者とされていることを覚えたいと思います。 主イエス・キリストの十字架によって、私どもは、罪赦され、贖なわれて「神のもの」とされております、キリストによって、罪なる者から、新しい神の民へと再創造されているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
このページのトップへ | 愛宕町教会トップページへ |