2013年11月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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主が手を取られる | 11月第4主日礼拝 2013年11月24日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第9章25〜32節 | |
9章<25節>イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 <26節>すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。 <27節>しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。<28節>イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。<29節>イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。<30節>一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。<31節>それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。<32節>弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 |
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今日は25節からです。 25節「イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった…」と記されております。群衆が走り寄って来たのは、子どもが引きつけを起こしたのを見たからです。そこで、主イエスは「汚れた霊をお叱りに」なりました。 主イエスは「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」と悪霊に命じられました。ここで知ることがあります。主イエスは既に2つのことを明らかにしておられます。一つは「弟子たちの不信仰」であり、もう一つは「子の病は幼い頃からの病」であるということです。それはつまり、何も弟子だけがこの子を癒せなかったというわけではなかったということです。何をどうしても、この世の力ではこの子を助けることはできない、そういう病だったということです。 ここでもう一つ注目すべきことは、「わたしの命令だ」と、「わたし」が強調されていることです。「主イエスの偉大な力」ということが強調されているのです。主の言葉は、この世に類のない言葉であるということです。 「主イエスの権威」ということを、この箇所はどこまでも強調いたします。この後、普通なら「父親は喜び、感謝し讃美した」と続くのではないでしょうか。もちろん讃美したに違いありません。けれども、主への讃美の言葉を一切抜いて、主の大いなる権威ということをどこまでも語っております。もしここで、父親の讃美の声が記されていれば、私どもは、私どものなすべきこととしての神への讃美へと心向けることでしょう。しかしそうではなく、この書はあくまでも「主イエスの権威」へと、私どもの心を向けさせているのです。 26節「その子は死んだようになったので、多くの者が、『死んでしまった』と言った」とあります。この子どもを支配していた者は悪霊でした。その支配する者が去ってしまえば、その子は原動力を失ってしまうがゆえに「死んだようになった」のです。自分の力で立ったことがないからです。 ですから、単に悪霊を追放しただけでは駄目です。真実にその人に喜びを与える「新しい力」が与えられなければなりません。失った力に勝った力が必要なのです。 27節「しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった」と続きます。「主イエスが力をくださる」ということ、それが「立ち上がる」ことです。私どもの砕けたところで私どもに必要なのは、「神の力、主が手を取ってくださること」です。そこでこそ、私どもは喜びを回復し、新しい力を持つことができるのです。 ここに起こっていることは、「主イエスの力は、死した者を復活させる力である」ということを暗示しつつ、31節「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」という主イエスの言葉に繋がっております。 主イエスが手を取ってくださり、死んだ者を甦らせるほどの力を与えられて、子どもは立ち上がりました。けれども、ここでも子どもの喜びの声は記されず、28節「イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、『なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか』と尋ねた」と記されております。 ここで、なぜ弟子たちは「ひそかに」主に尋ねたのでしょうか。これは意味深長な言葉です。「ひそかに」言う時とは、どういう時でしょうか。どこかに後ろめたさがある時ではないでしょうか。 このような弟子たちに対して、しかし主イエスは叱ることをなさいません。29節「イエスは、『この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ』と言われた」と記されております。主は「祈りによる」と言われます。 「祈り」とは何か。祈りは「自らを神に明け渡す」ことです。考え違いしてはなりません。私どもは、神に願うことが祈りだと思っていないでしょうか。そうではなく、真実な神に対して私どもがなすべきことは、主の大いなる力が私どもにも臨みますようにと、自らを明け渡すことです。 祈りとは、一生懸命に祈るということではありません。「神に自らを明け渡す」ということは、そこで「神がこの私に働いてくださっている」ということです。「神が働いてくださる」、だからこそ、そこで初めて「成し得る」ことを知るのです。 人はどこかで自らの功績を求めます。弟子たちでさえ、主の圧倒する力を見ていながら、ひそかに自分たちの力を思っています。 けれども、そういう弟子たちに示されることは、「ただ神のみ、成し得る」ということです。神の力が働いてこそ、成るのです。祈りを通して、神へと私ども自身を開くことです。「自らを明け渡し、そこで神が働いてくださることを願う」、それが「祈り」であることを覚えたいと思います。 このようにして、主イエスの一行はガリラヤを通って行かれます。ここからマルコによる福音書は大きな転換を迎えますが、それは次回にお話ししたいと思います。 |
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