聖書のみことば
2013年11月
  11月3日 11月10日 11月17日 11月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 信仰のない時代
11月第1主日礼拝 2013年11月3日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第9章14〜23節

9章<14節>一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。<15節>群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。<16節>イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、<17節>群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。<18節>霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」<19節>イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」<20節>人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。<21節>イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。<22節>霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」<23節>イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

 今日の聖書の箇所は、途中で終わっているような感じがするかも知れません。ここは複雑なところで、内容的に2つのテーマがあるのです。一つは「権威」であり、もう一つは「信仰」ということです。区切りが難しいところですが、今日は「権威」ということについてお話ししたいと思います。

 まず、「一同」とありますが、それは主イエスと3人の弟子で、山から下りて来て、ふもとに残していた他の9人の弟子たちのところに行ったのです。そこで、14節「彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」とあります。何が起こっていたのでしょうか。弟子たちが律法学者たちと論争していたと言うのです。何を議論していたかは、16節で主イエスが問うてくださったことによって話が展開して分かります。

 しかしその前に、まずは15節の御言葉に聴かなければなりません。15節に「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した」と記されております。14節を読みますと、大勢の群衆に取り囲まれての論争ですから、議論は白熱していたはずですが、15節にありますように、主イエスが来られて主を見つけると、人々の視線は主イエスに向けられております。そして「非常に驚いた」とあります。人々は一体、主イエスの何に驚いたというのでしょうか。よっぽど汚れたような、目立つ格好だったのでしょうか。そうではありません。

 実は、主イエスを見て人々が驚いたという既述は、マルコによる福音書の他の箇所にも出て参ります。1章21、22節「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。人々が驚いた理由は何か。それは「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」とありますように、主イエスの教えに権威を感じて畏れたということです。
 ですから、今日のこの箇所でも、人々は主イエスに権威を感じ、主の力をひしひしと感じて、主イエスのもとに引き寄せられて「駆け寄って来て挨拶した」のです。主イエスは人々から「権威ある者」として、その存在を認められております。「驚いた」とは「畏れおののいた」ということです。恐怖を感じたのではなく、畏敬の念を感じたということです。

 それゆえに、主イエスのもとに駆け寄って挨拶したのです。ここには記されておりませんが、気になることは、人が畏れおののいたときに、どのような挨拶をしたかということです。それは、力ある方、神の恵みを感謝しての祈りの言葉ではなかったかと思います。挨拶とは、その社会で価値ある事柄が挨拶の言葉となります。例えば日本は元々農業社会であることの価値観から、朝早く起き仕事をすることが尊ばれて、「お早うございます」と挨拶いたします。ですからここで、主イエスに権威を感じて挨拶する、それは地上を超えた方、神なる方への挨拶、神への讃美、あなたにこそ平安と恵みがありますとの言葉ではなかったかと思うのです。
 私どもキリスト者もまた、神が第一であるとするならば、何よりも神を尊しとする挨拶をするべきであろうと思います。使徒パウロは、その書簡において必ず神の恵みと平安を祈る挨拶の言葉を記しております。まさしくそれはキリスト者の挨拶であり、そのような挨拶をすることは麗しいことです。
 私も最近は、他教会へ招かれて説教する際に、その教会の上に神の祝福と恵みと平安とを、愛宕町教会一同から、そして招かれた者として祈りますと挨拶するようになりました。それが招かれた牧師としてのなすべきことであろうと思っております。

 マルコ1章に、人々が主イエスを見て非常に驚いたのは、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」とあります。聖書において律法学者は、一つの権威ある者として登場いたします。聖書を教え人々を導く者、教えることを通して人々を導く力を与えられた者として、権威ある者です。けれども、それを凌駕する権威を主イエスに見て、人々は「非常に驚いた」と言われております。それはどういうことでしょうか。それは、地上を超えた力、地上の一切の権威に勝った権威を、主イエスに感じたということです。
 主イエスは、この世の権威を否定されるのではありません。この世に権威があることを認めておられますが、しかし、この世の権威が決定的な力を持つとはされないのです。主イエスの権威がこの世の権威を圧倒しているのです。主の権威は神の力を現す権威なのですから、この世の権威は主イエスの前には無に等しいのだということを、私どもは覚えておかなければならないかと思います。

 ですからここで、「この世の権威に勝る権威とは何か」ということを考えておかなければならないかと思います。「最終的な権威」、それは「終わりの日の裁きの権能」です。それは「罪を裁き、罪を終わらせ、そして赦すという権能」ですから、終わりの日の「最後の審判」は完全なものです。最終的な権威であるかは、その権威が完全で最終的な結論をもたらす権威かどうかです。神の権威は、終わりの日の完全な裁きと赦しをなす力ですから、それがこの世を超えた権威、最終的な権威ということなのです。

 この世の権威は不完全であり、ゆえに最終的なものではありません。それは、この世の裁判を考えてみても分かります。法律の条文が改定されれば、裁きのあり方が違ってくるのです。かつては裁かれた罪が今は許されるということも、また逆のことも起こるのです。地上の権威は暫定的であり限界がある、時代や社会の変化によって変わる、この世と共に移ろう、ゆえに最終決定にはならないのです。状況によりその場その場での判断で決断を下すことはあっても、それが最終の出来事にはならないのです。
 そして何よりも問題であることは、この世の権威はこの世に属するのですから、その限界の中で、この世の裁きは過ちを持つということです。いや、過ちを持つどころか、十分に担うことはできないということです。今日的に言えば、3.11の原発事故についても、誰が裁かれるべきか。国か、経済界か。裁かれるべきが裁かれない、裁きを担えないという現実があります。この世にある限り、この世は自らを完全に裁くことはできません。考えてみて、自分で自分を裁けるでしょうか。自己を否定することは難しいのです。自ら良しとした行為に対する裁き、それは至難の業です。それほどに、人は裁きを担えないのです。経済中心であれば、その者にとってはそれが神であり善であり、そこで何らかの問題を生じたとしても、自らを裁いてやり直すということは不可能でしょう。この世の裁きはこの世に限定された裁きであり、真実で最終的な裁きにはならないことを覚えなければなりません。

 ゆえに、完全で真実な裁きは「外から」なされなければなりません。この世に捕われることなく、公平に、そして正義をもって裁かれるためには、この世の外からこの世が裁かれるしかありません。自ら裁ききれないのに、ただ自らを非難していても駄目なのです。本当に「自ら裁きの前に立つ」ということは、「外なる神の前に立つ」こと以外にありません。外なる神の前にひざまずくことにしか、真実な裁きはない。そして、そこでこそ完全な裁きがなされ、そこでこそ罪が終わるのです。
 この世は裁ききれない、ゆえに、この世の裁きはいつまでも終わりません。人は、決して許せないのです。裁きによって終わらせなければならないことであっても、終わらせることができないのです。
 主イエスの権威はこの世の権威を超える権威として、この世の罪を明らかにし、完全に裁き、ゆえに完全に赦し、その罪を終わりとしてくださる権威です。だからこそ、主イエスの権威は人々を「圧倒する権威」なのです。主の権威の前に、この世の権威が無力であることは明らかです。

 けれども、主イエスの圧倒する権威の前に霞んでしまうこの世の権威はどうするかと言いますと、主に反逆します。例えそれが小さな権威であったとしても、持っている権威を否定されるならば、反発するのです。それが律法学者や大祭司の権威として示されていることです。この世の権威は自らの持つ小さな権威のゆえに、主イエスの権威を拒む、そうであるがゆえに、主イエスは苦難を受け、十字架へと向かわれ、その罪を担われるのだということを覚えなければならないかと思います。

 この世にない圧倒する権威の前に、人々は驚いております。今を生きる私どもは聖書を通して既に聞いていることですから分かりますが、ここにある人々には分かりませんので、このように驚いて主に駆け寄っているのです。

 私どもは、神の裁きのうちにあります。そして、だからこそ救いの恵みに与っているのだということを覚えたいと思います。「主イエス・キリストは終わりの日に審判者として臨まれる」、それが私どもの信仰です。そして、主を信じる者は、主イエスの十字架の贖いによって罪赦された者「贖われた者として神の子とされる」のであり、その最終決定は「洗礼を受けることによって保証として与えられる」、それが私どもの信仰です。
 実は、私どもの裁き、そして救いについての最終判断は、既に下されております。主の十字架によって、罪の裁きは既に終わっているのです。ゆえに「主を信じる者は、既に赦された者として定められているのだ」ということの幸いを覚えたいと思います。「罪の赦しの権能」それが「主イエス・キリストの権能」です。そしてそれこそが、教会が主より託されている権能なのです。

 16節、イエスが「何を議論しているのか」と問うてくださっております。それに対して、本当ならば弟子たちが答えるところでしょうが、17節「群衆の中のある者が答えた。…」と言われております。「ある者」とは、引きつけを起こした子どもの父親です。この病は当時、悪霊の仕業とされておりました。18節「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」とありますので、弟子たちは、主の問いに答えにくかったのでしょう。
 また、弟子たちが悪霊を追い出せなかったことも、さもありなんと思います。なぜならば、この父親は主イエスのところに子どもを連れて来たつもりですが、主は留守だったからです。それで9人の弟子たちに頼み、弟子もその願いに応えようとしたのでしょう。
 弟子たちは父親の切実な願いにその痛みを感じたでしょうし、またもう一つ言えることは、彼らには悪霊を追い出したという経験がありました。マルコによる福音書6章を読みますと、主イエスが12人の弟子を派遣されたことが記されております。そこでは、12人の弟子たちは、主イエスから悪霊に対する権能を頂いた者として派遣されております。彼らには経験がありました。ですから彼らは、今度もできると思ったのです。そしてやってみたけれども、できなかったのです。

 なぜできなかったのでしょうか。6章では、主イエスがおられて、主の御力を弟子たちに授けてくださって、その力をもって悪霊を追い出しました。しかしここでは、主イエスは弟子たちに「癒せ」とおっしゃってはおられません。主の権能は与えられていないのです。主イエスは不在でした。
 6章で弟子たちが癒しの権能をいただいて遣わされたのは、主イエスの代理として遣わされたということです。しかしここでは、主がお遣わしになったのではありません。主イエスは不在でした。主が不在であれば、人には何もできないのだということを知らなければなりません。主イエスがおられてこそ、主の力が働くのです。主不在のところで弟子たちのなす業は虚しいと言わざるを得ません。

 「できる」ということは力を現しますし、「出来ない」ことは無力なのです。律法学者も弟子たちも、主イエスの権威の相手にはなっておりません。
 最終的な権威、それはどこにあるのでしょうか。それは、人の力を結集するところにあるのではありません。ただキリストの在すところ、キリストの力をいただいているところにのみあるのです。
 そのことを思いますときに、キリストを不在にして、この世の善を考えて教会が何かの業をしようとしても無力であり、何もなし得ないことを思わされます。そのような教会は教会ではありません。この世にとって良いこと利益のあることは、なにも教会がしなくてもよいのです。もちろん、教会が初めとなってなされた業も多くあります。けれども、この世に益することは、この世がすることです。良き業というものは、キリスト不在でもできることなのです。ですから、そのことを教会がする必要はありません。

 弟子たちは、身に沁みて知りました。けれども、このことに対して、主イエスの言葉は厳しいものでした。19節「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれます。「この世が求めているから、やりましょう」と言ったときに、主イエスのこの言葉が響きます。この世に迎合してこの世を担おうとするならば、まさしくそこには信仰がないということです。ここで「信仰のない時代」と言われる「信仰」とは何か。それはこの後のテーマになりますので、次回といたしますが、少しだけお話しいたします。
 「信仰のない時代」とは、どういうことなのでしょうか。信仰とは自分のものではないということを、主イエスは示しておられるのです。信仰は、自分の信念や信心ではないことを示しているのです。信念や信心であれば、その強い思いによって、自分でできるということになります。弟子たちも、自分でできると思ったのです。しかしできなかった。ですから、彼らの思いは信仰ではありません。
 実は「信仰のない時代もないし、信仰のない人もいない」ことを知らなければなりません。人は皆、信仰を持っているのです。その人が生きて行く上で拠り所とする価値観、それが信仰です。そういう意味で、誰でも持っているのです。一つの社会であれば、一つの共通する価値観、信仰を持っているのです。
 けれどもそれらは、この世に属する信仰です。それは神の出来事ではありません。神に頼らず、神を必要としないからです。神に頼らない異なる信仰を持っている、そしてそれに依り頼んでいる時代、それが「信仰のない時代」なのです。
信仰は、自分の思いによって作り出すものではありません。「信仰は外から与えられるもの、神から与えられるもの」です。それがキリスト教の信仰なのです。

 私どもは今、神を信じる信仰以外によって立とうとする、まさに信仰のない時代に生きていることを覚えなければなりません。虚しい信仰がどのようなものであったかは、技術に頼り、勝手に確かだと思い込んだ原子力の安全神話などが、まさしくそうでしょう。技術過信という信仰です。人は、自ら様々な信仰を作り出します。そして、自らで神から遠ざかっているのです。それが、信仰のない時代なのです。それは滅びでしかありません。

 そのことを、主イエスは嘆き、痛んでくださっております。そのように痛んでくださるからこそ、滅びでしかない者のために、主は十字架の贖いを成してくださるのです。迫害を受け、苦しみの道を歩み、十字架についてまで、主は救いの道を開いてくださいました。

 ですから、私どもの救いもまた、外からのものであることを覚えなければなりません。救いが外からのものである以上、信仰も外からのものである、それが聖書の言い表す信仰であることを覚えたいと思います。

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