聖書のみことば
2021年10月
  10月3日 10月10日 10月17日 10月24日 10月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月31日主日礼拝音声

 御言の実り
2021年10月第5主日礼拝 10月31日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第4章1〜9節

<1節>イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。<2節>イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。<3節>「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。<4節>蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。<5節>ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。<6節>しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。<7節>ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。<8節>また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」<9節>そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

 ただいま、マルコによる福音書4章1節から9節までをご一緒にお聞きいたしました。1節に「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」とあります。主イエスが行かれた湖はガリラヤ湖です。「再び湖のほとりで教え始められた」と言われていますが、少し前の3章7節から9節を読みますと、湖のほとりに出かけられた主イエスを追いかけるようにして、おびただしい群衆が後に従ったという出来事が語られていますので、その時と同じように、今日のところでも主イエスは集まってきた大勢の人たちに向かって、「今や神の国が訪れて来ている。神さまの恵みを信じて生きる新しい生活が始まっている」と伝え、教えられたのでした。
 また今日の箇所には、「主イエスは舟の中に腰を下ろして湖の上からお語りになり、その言葉を聞く群衆は湖畔にいた」と述べられていますが、どうして主イエスが舟にお乗りになったのかという理由までは述べられていません。3章でも似たような状況で、9節には、「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」とあります。群衆が互いにひしめき合いながら、少しでも主イエスのそば近くに、手を伸ばせば主イエスに触れられるくらいの場所に席を取ろうとして殺到しますと、主イエスの背後にあるのはガリラヤ湖ですから、押されて湖に転落するようなことになりかねません。そういう事故を未然に防ぐために、主イエスは小舟にお乗りになり、群衆との間に距離を取ったのだと3章には語られていました。

 しかし、今日のところで主イエスが人々との間に距離を置かれたのには、もう一つ理由があったと思われます。主イエスは「神さまの御国のたとえ」を教えようとなさったのですが、それを聞く人たちが注意してよく聞き、考えるようにと、距離をわざとお取りになったのでした。仮に群集と直に触れることができるくらいの距離に主イエスがおられたらどうなるでしょうか。群衆の中にはもちろん、教えてくださるたとえ話をよく心に留めて思い巡らそうとする人はいるでしょう。けれどもその一方で、ただ主イエスに触れることで、自分が抱えている病が癒されたり悩んでいる事柄や問題が解決しさえすれば良いと考えて、ひたすら主イエスに触れようとだけする人も出てくるだろうと思います。
 けれども主イエスは、「再び湖のほとりで教え始められた」とあるように、「今は人々に神の事柄を宣べ伝えよう。教えよう」という思いを持っておられました。主イエス自身がお語りになっている言葉にも、そういう思いがよく表れています。3節の最初は、「よく聞きなさい」という言葉で始まります。そして、sすべてを語り終えた後、9節では「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃっています。そのように最初と最後に、人々に「よく聞くように」と勧めておられます。

 この日、主イエスは集まった群衆に「よく聞き、注意深く考える」ということをお求めになりました。そして、そのためにわざと群衆と距離をあけて湖の上に漕ぎ出されました。主イエスは、人々が直に主に触れることで満足して終わるのではなく、主イエスがお語りになるたとえ話の方に注意を向け、話を聞いてほしいと思われたのでした。
 主イエスがそのように集まった人たちにお求めになったのは、主イエスのたとえ話が聞いている人たちの身近な経験に根ざしている話で、ちょっと聞くと分かりやすい話にも感じられるけれど、しかしその話の奥行きは案外深く、主イエスがおっしゃろうとしている事柄をともすると聞き間違えたり受け取り損ねたりしてしまうということがあったためです。ですから、主イエスはこの話を聞く人たちが注意深く聞き、思い巡らすように促されたのでした。
 今日の箇所で主イエスがお語りになったたとえ話は、「種を蒔く人のたとえ」と言いならわされています。この話はもともと、主イエスは「種を蒔く人のたとえ」としてお語りになったのですが、いつのまにか聞いた人たちの間で、種が蒔かれた地面のたとえとして流布してきたという形跡が見られます。主イエスがなさったたとえ話は、うわべは非常に平易で誰にも分かりやすそうに聞こえるのですが、しかしそれに比べてそのたとえ話の中に込められている意味、主がたとえを通しておっしゃろうとなさった神の事柄の方は、注意してこれを受け取らなくてはならないようなところがありました。それで主イエスは、「よく耳を澄まして聞くように」と言われました。

 3節に「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」とあります。ですからこれは「種を蒔く人」のたとえです。もしこれが、「種が落ちる地面にはいろいろあるけれど、あなたがたは良い地面になりなさい」と勧めるたとえであれば、話の始まりは違う形になっていたでしょう。主イエスは、ご自身を「種を蒔く農夫」に重ね合わせ、そして主イエスがお語りになるたくさんの言葉を「いろいろな地面に落ちる種」にたとえておられます。
 ですから、このたとえ話を通して語られていることは、ご自身の経験に基づいて語っておられることと言ってよいと思います。「神さまの恵みと慈しみのご支配が、今あなたの上にも及んでいる。だから、あなたはそのことを信じて、今までの自分中心な生き方の向きを改めて、神さまの御心を尋ね求め、また御言葉に慰められ励まされ、勇気づけられながら生きるようになさい」と、主イエスが「神の御国の到来」を告げ知らせてくださった時に、その言葉がどのように人々に受け止められたか、あるいは受け止められなかったかということを、主イエスは、この種蒔きのたとえを通して教えられたのでした。

 ここで語られているたとえ話に基づいて言うならば、主イエスがお語りになった多くの言葉は、実を結ぶことがないまま潰えてしまったのでした。4節から7節、「ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」と、主イエスは、いろいろな理由で上手く育たず実を結ばなかった種の話をなさいました。これは、主イエスが心を込めて伝え教えてくださったのに、聞き入れてもらえなかった、そういう多くの御言葉を表しています。
 主イエスの御言葉は、聞いた人たちから本当に様々にあしらわれたのでした。せっかく主イエスが「神さまの恵み、慈しみ」を伝え、「信じて生きるように」と語って聞かせても、そもそも踏み固められた地面のように、その言葉を受け付けない人たちがいました。そういう人たちは主イエスに反発したり反論したりしながら、まもなく主イエスから聞かされたことすらすっかり忘れてしまったのでした。別の人たちは上辺だけ主イエスの言葉を喜んで聞くような素振りをしましたが、実際にはその人の深いところまで言葉を受け止めるということをしなかったので、その友好的な関係はその場限りで終わってしまい、結局そういう人たちも「神の愛を信じて生きる」ということにはならなかったのです。そしてさらには、自分にとって都合よく主イエスの言葉を受け止めて、大いに喜びながら、しかし主イエスが教えられたこと以外にも自分にとって都合よく思えるような言葉や話に心を寄せてしまい、遂にそちらの方が思いの多くを占めてしまい、結局主イエスに聞かされたことから離れていってしまう、そういう人たちもいたのでした。
 主イエスが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とおっしゃって勧めた言葉は、そのように、聞いた人たちによって様々なあしらいを受けていきました。

 今日の箇所の直前、3章21節には、主イエスの身内の人たち、主イエスの母や弟たちが、主イエスを取り押さえ故郷のナザレに連れ帰ろうとしたということが述べられていました。血の繋がっている肉親であり家族たちですから、主イエスご自身とすれば、他の人はともかく、この人たちには是非とも「神の恵みのご支配」を信じてもらいたいと思われたに違いないのです。ところが家族たちは容易には信じませんでした。主イエスにとって最も親しいはずの人たちですら、そうでした。主イエスの母マリア、そして主イエスの弟たちが主イエスを本当に信じるようになったのは、主イエスが十字架上に亡くなられ復活してから後のことだったと言われています。主イエスが地上のご生涯を過ごしておられる間、主イエスのお語りになった言葉は、最も親しいはずの身内の人たちにすら、なかなか届きませんでした。「種を蒔く人のたとえ」の初めの方に語られる三つの種は、主イエスが心を込めて福音を語りかけても、信じて欲しいと思う相手の心にはなかなか上手く届くことがなかったという、もどかしさを物語っているのです。主イエスがお語りになる福音は、なかなか受け止めてもらえませんでした。
 けれども、主イエスがこのようにたとえ話の形でご自身の苦闘の姿を率直に語ってくださることは、私たちにとっては慰めになることではないかと思います。主イエスご自身でさえ、親しい人たちや多くの人たちに福音を伝えようとして、上手くいかないことが度々あったのでした。

 そうであれば、私たちが親しい友人や愛する人たちに神の愛と慈しみを伝えようとして上手くいかないことがあるというのも、止むを得ないことではないでしょうか。使徒パウロもコリント教会に宛てた手紙の中で、主イエス・キリストの福音というものがユダヤ人にとってはつまずかせるものであり、異邦人にとっては愚かに聞こえることがあると語っています。主イエスが人々にもたらそうとなさった福音、「神の慈しみが常に私たちの上に置かれている。そのことを信じるように」と招く福音は、なかなか聞く人の心に上手く落ちて根づくことが難しい、そういうものなのです。
 「神さまが私たちを愛してくださっている。どんな時も私たちの味方でいてくださる」、ただそういうことであれば、「どうして信じられないのだろう」と不思議に思うかもしれません。しかし私たち人間は、実際に目で見たり手で触れたりできない事柄を信じるのは、本当に難しいのだとも思います。私たちは、神の言葉を聞く時には喜んで聞くのですが、実際の生活の中で様々に思うようにならないこと、不自由さや不愉快なことや、辛いこと苦しいこと悲しいことにたくさん出会いますと、そこでは自分を支配しているのは神の慈しみではなく、様々の痛ましいこと、嘆き、あるいは攻撃してくる力であり、そういうものの方が大きく思えてしまう、ですから、主イエスがお語りになった福音は、ただ言葉だけの事柄のように思われてしまい、なかなか人々には伝わって行かなかったのです。

 私たちが祈りながら、どなたかに主イエスの福音を伝えようとする時に、簡単にそれが伝わらないということがあるとしても、がっかりする必要はないのではないでしょうか。たとえすぐには伝わらない、簡単には伝わっていかないとしても、その時に「種は確かに蒔かれている」のです。種を蒔いたら百発百中というわけにはいかず、ほとんど芽吹くことが少ないのかもしれませんが、それでも種を蒔き続けること、そしてまた覚える人たちのために執りなしを祈り続けるということがとても大切なのだろうと思うのです。
 そして実際に、主イエスご自身もそういう生活をお過ごしになりました。主イエスはここで、上手く実を結ばなかった多くの種の話をなさっていますが、しかしそれは、上手くいかなかったことを悔やんだり嘆いたりするためではありません。

 今日のたとえ話で主イエスがおっしゃろうとする事柄の中心、このたとえ話の重点がどこにあるかというと、それは、一番最後に語られる「幸いな種」の話にあります。もしこの最後の種の話がされないとしたら、この話自体はすっかり意味を失うことになると思います。それくらいの重点が、この最後の種の話に込められています。8節に「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」とあります。
主イエスは、なかなか実を結べなかった多くの種の話をなさいました。しかしそれで怯んだり、へこたれたりはなさいません。むしろ明るい顔をなさって、「なお豊かに実を結ぶことになる種がある」ということをおっしゃいます。主イエスご自身は、「豊かに実を結ぶ種が必ずある」ということを信じて、御言葉の種蒔きをなさり続けられるのです。
 そして、そのように豊かに実を結ぶ種がやがてきっと現れるということは、ただ主イエスがそう思い込んでいたというだけではなく、それ以上に、これはまさに真実です。どうしてかというと、主イエスが蒔いておられた種というのは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というメッセージだったからです。
 「神の国が近づいた」というのは、別に言うと「神さまの恵みのご支配、神さまの慈しみがいつもあなたと共にある」ということです。そしてそれは、主イエスがそこに来てくださり、共に歩んでくださることによって実現していくのです。

 私たちが毎週教会で礼拝に参加する中で、聖書から聞かされ、そして私たちがそのことで賛美する内容というのは、「神の独り子である主イエスが私たちのために、この世に来てくださった。そして私たち一人一人のために十字架に架かり、甦られた。甦られた主イエスは、今も私たちと一緒に歩んでくださる。あの十字架によって私たちは罪を赦され、新しい者とされて、今日ここから、もう一度歩み出していく」、そういう福音です。
 「主イエスが十字架に架かってくださったのは、あなたの罪のためだった」とか、「死んだイエスが復活した」とか、あるいは「主イエスの死によってあなたの罪が赦されている」という話は、正直なことを言えば、あまりよく分からないという方がいらっしゃるでしょう。
 けれども、私たちにはすぐに意味が分からないとしても、私たちに分からないからと言って、主イエスの十字架の出来事、復活が消えて無くなってしまうわけではないのです。たとえ私たちに今は全てが分からないとしても、主イエスの十字架と復活は確かに行われている事実です。そして、そうであればこそ、主イエスの福音を告げる言葉というのは、最初は茨の中や道端、あるいは石地に落ちるということがあるとしても、最後には必ず良い土地に落ちて、大きく育ち実りを豊かにつけ、そしてまたその人を内側から支えてくれるような大木にまで成長していくことになるのです。

 主イエスは、ご自身が地上においでになったからには、「将来、きっと真の幸いが訪れる」ことを信じて、明るい顔で、「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」と教えてくださいました。
 そもそも、今日私たちが教会に来ているということ自体、既に私たちの中にも御言葉の種が蒔かれ始めているということのしるしです。もし私たちに何の種も蒔かれなかったならば、誰もこの場所に来ることはなかったに違いないからです。
 御言葉の種は、私たちに今、実際に、この場所で蒔かれています。そして私たちの中の良い土地で豊かに実を結び、そしてそれが私たちを養い、支え、私たちが与えられている命の道を、この人生を、真に喜んで歩んでいくようにと導いてくれるのです。

 教会の群れには、御言葉の種を蒔かれ、喜びながら地上の生涯を辿っていった多くの先達たちがいます。そして今日、私たち自身もその同じ種を蒔かれ、「主イエスに伴われ、神の慈しみを知る者として生きていくように」と招かれ、持ち運ばれていることを知る者とされたいと願います。
 私たちに今日も伴ってくださる主を讃え、その主を与えてくださった神の御業を讃えて、ここから一巡りの時へと遣わされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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