聖書のみことば
2021年10月
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

10月10日主日礼拝音声

 十二弟子の選び
2021年10月第2主日礼拝 10月10日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第3章13〜19節

<13節>イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。<14節>そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、<15節>悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。<16節>こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。<17節>ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。<18節>アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、<19節>それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

 ただいま、マルコによる福音書3章13節から19節までをご一緒にお聞きしました。主イエスが12人の弟子たちをお選びになり、使徒と名付けられたという出来事が述べられています。私たちはこのことを何度も聞いて、「主イエスの十二弟子、使徒」と言われると、よく分かっているつもりでいるのですが、しかし本当にこの出来事を知っているのでしょうか。聖書から少し丁寧に聞かされたいと思うのです。

 始まりの13節に「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」とあります。「主イエスが山に登られた」と、まず言われています。「弟子を選ぶ」ことと「山に登る」ということは、あまり関わりがなさそうにも思えて、この最初の言葉を聞き流してしまいそうになります。「弟子たちが選ばれる」ということと、「主イエスが山に登った」ということの間には何か関わりがあったのでしょうか。
 そもそも主イエスが山に登られたのは、なぜだったのでしょうか。今日のところには主イエスが山に登られたという事実だけがあっさりと述べられていますが、しかし、この同じ時のことを記しているルカによる福音書6章12節13節には「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」と語られています。ルカによる福音書の記事によると、主イエスが山に登られた理由は、「神に祈りを捧げるため」と言われています。しかもその祈りは「神に祈って夜を明かされた」とあるように、徹夜の祈りでした。主イエスは一晩中をかけて一体何を祈られたのでしょうか。「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」とありますから、主イエスはご自身のもとに弟子たちをお招きになるにあたって徹夜の祈りをなさったのでした。この晩、主イエスが夜を徹して祈られた祈りの大変重要な事柄は、「一体誰を弟子に招こうか。招いた弟子たちの中からどの12人を選ぼうか」、そのようなことであったと思われます。
 マルコによる福音書では、非常にあっさりと「主イエスは山に登られ、これと思う人々を呼び寄せられた」とあるので分かりませんが、これは、ただ思いついた人とか出会ったことのある知り合いを呼んだということではなく、夜通し主イエスが神に祈り、神から「この人」と示された一人一人を呼び集められたということなのです。
 しかも、この日主イエスのもとに呼び集められた人たちというのは、12人だけではありませんでした。もっと大勢、50人か100人か分かりませんが、主イエスはかなり多くの人を弟子として呼び集められ、そしてその中からさらに12人を選んで使徒となさっておられます。ルカによる福音書にはっきりと書かれていますし、それを念頭においてマルコによる福音書を改めて読み返しますと、確かに13節には、イエスがこれと思う人々を呼び寄せられると「彼らはそばに集まって来た」と語られています。そしてその上で、その中から「12人を任命した」と言われています。この日、弟子として招かれた人たちは12人だけではありませんでした。さらに多くの人々が主イエスによって覚えられ、「これと思う人」として呼び集められ、弟子の群れに加えられていきました。

 ですから、今日の記事は、私たちにとっては、「自分は一体何者なのか」ということを知らせてくれる記事なのではないかと思います。
 今日ここにいる私たちも例外なく、主イエスによって祈りのうちに覚えられ、一人一人が名を呼ばれ教会の群れに加わるようにと招かれ召し出されて、ここに集まっています。もしかすると、そのことを私たちは日頃あまり深く受け止めていない、あるいは忘れていることが多いのではないかと思います。けれども、長く教会生活を過ごしておられる方にも、初めて教会に足を踏み入れた時、新来会者だった時があったはずです。繰り返して礼拝を捧げる生活を送っているうちに、いつのまにか礼拝を捧げることが当たり前になってしまい、今では礼拝に行くのがまるで自分の意志であるかのように思い込んでしまう、そういうことが私たちにはあり得るのです。
 私たちも招かれたのであり、多くの祈りのうちに覚えられて教会の枝とされています。誰からも招かれたことはない、祈られたこともない、ただ自分の意思と決心だけでキリスト者になった、そんな人はどこにもいません。私たちが初めて教会を訪れた日、教会に先に集っていた人たちの誰一人として、新しく礼拝に来てくれた人のことを喜ばず、祈りのうちにも覚えてくれなかったとしたら、そんな冷たい仕打ちをする教会には、恐らく私たちはとても通い続けることはできなかったに違いないのです。私たちが礼拝に参加することを心から喜んでくれる兄妹姉妹がいて、その信仰の先輩たちが祈りをもって、私たちのことを神の保護の御手の下に委ねてくださった、そういうことがあったからこそ、私たちは今日も共々にこの礼拝を捧げる群れの一員になることができているのです。
 そして、そういう教会の営みの一番始まりには、一人一人のことを覚えながら徹夜で祈ってくださり、「弟子として従ってくるように」と招いてくださった主イエスがいらっしゃるのでした。主イエスが「この人」と思って祈り招いてくださったからこそ、主イエスに招かれた弟子たちもまた、主がなさったのと同じように隣人のために祈り、そして、その人が救われますようにと神に願い求めつつ「この人こそ」と思って言葉を掛け、主イエスに従う生活に加わるように呼びかけました。最初は主イエスが、そして次には弟子たちが、祈りながら「この人」と思う人に言葉を掛け、招かれた人たちが教会に連なり、そしてその人たちがまたさらに次の人たちに祈りをもって呼びかける、そういう営みが2000年の間綿々と受け継がれてきているのです。私たちもそういう中で礼拝に集い、信仰を言い表してキリスト者とされていることを覚えたいと思います。
 主イエスは、誰それ構わず声をかけられたのではありません。「これと思う人」を呼び集められました。私たちが今日ここに集まっているのは、主イエスの完全な自由な御心に基づいています。私たちがここにいるのは、決してたまたまではありません。もしかすると、自分はどうしてキリスト者になったのか、あるいはどうして求道者として教会に来ているのか、たまたまそういう出会いがあったからだと思う方がいらっしゃるかもしれませんが、そうではないのです。主イエスが「この人だ」と思って招いてくださったからこそ、私たちはここにいるのです。

 さて、主イエスはそのように、大勢の人を「わたしの弟子、わたしの群れに連なる者」として呼び寄せてくださった中から、さらに12人をお選びになりました。どうして12人なのでしょうか。12という数は、旧約聖書の時代の「イスラエルの十二部族」を表している数字です。旧約聖書では、神が地上のすべての種族をご自身の祝福に与らせようとして、祝福の基となる人、アブラハムをお立てになりました。そして、アブラハムからやがてイスラエルの12部族が生まれてくるのです。
主イエスの弟子の集まりである教会は、旧約聖書に記されている古いイスラエルに代わる民として招かれています。教会は、「神が全ての人をご自身の祝福に与らせようとしておられる」、そのことのために十二部族の役割を与えられています。教会もそのことを知って12人という人数に非常にこだわっている、そのことを聖書から読み取ることができます。例えば、イスカリオテのユダが主イエスを裏切り、弟子の群れから脱落し遂には死んでしまうのですが、その直後、使徒言行録1章では、欠けてしまった一人の使徒をどうしようかと教会内で相談されています。そして、最初の頃から主イエスの弟子として従っていた人の中で相応しい者を選ぼうとして、マティアという人が選ばれました。たとえわずかな間でも使徒の空席がないようにするという教会の配慮が表されている出来事ですが、それはまさに、ただ一人の欠けであっても、十二部族のうちの一部族が失われてしまっているということに繋がるからです。
 後の時代の教会だけではなく、主イエスも「12人を任命する」ということを、とても大事にお考えでした。それは今日の箇所からも読み取ることができます。14節に「十二人を任命し、使徒と名付けられた」とまず言われますが、その後の16節でも念を押すように「こうして十二人を任命された」と言われています。こう考えますと、十二弟子、使徒たちは、その一人一人がその人自体として重んじられているというよりも、12人が皆揃っているということで「古いイスラエルに代わる新しいイスラエル」という役割が重視されているのだということが分かります。すなわち、古いイスラエルがもともと神から与えられていた役割を、新しいイスラエルである教会が、古いイスラエルに代わって果たしていくのです。
 では、古いイスラエルに与えられていた使命、新しいイスラエルに引き継がれていった役割とは一体何なのでしょうか。それは、「すべての人が、神の民であるイスラエルの人々によって祝福を受けるようになる」ことを現す役割です。かつて神は、最初の民アブラハムに「わたしはあなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように、地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とおっしゃり、「あなたはわたしが示す地に歩んで行きなさい。わたしはあなたをきっと大きな国民にするから」と約束をしてくださいました。教会が12人の使徒をいただく新しいイスラエルであるということは、教会が「この世に生きているすべての人に対しての神の祝福を伝える」という役目を託されているということです。「神さまの祝福が確かにこの世界の上にある。すべての人に、その祝福は与えられる」ということを、すべての人の前で現す、そういう群れとして教会は招かれ集められているのです。「神がこの世界の上に、どんな時もどんな状況にあるとしても、慈しみと愛を置いてくださっている」ことを、教会の群れはひたすら信じ、そしてその慈しみをこの世に向かって語り続けていくのです。

 ところで、教会の役割についてそのように聞かされますと、少し気になることが出てきます。それは、ここで選ばれた12人の使徒たちは、果たしてその役目を果たすのに適任な人たちだっただろうかということです。12人の名前のリストが記されています。一番最初に出てくるのはペトロと呼ばれるシモンです。ペトロは主イエスがつけたあだ名で「岩」という意味です。ペトロはまさしく、岩のように頑固なところがありました。主イエスに向かって、十字架の前の晩に「ほかの弟子が全員裏切るとしても、このわたしだけは決して裏切りません」と言い募ってしまうような、癖のある人物でした。「絶対わたしは裏切らない」と言いながら実際には裏切ってしまい、後に大泣きすることになりました。真面目で一生懸命な、一途なところがあるのですが、しかしその一途さを徹底できない脆さも抱えている、それがペトロです。その次に名前が出てくるのは、ヤコブとヨハネという二人の兄弟です。この二人には、主イエスが「ボアネルゲス」とあだ名を付けたと言われています。ボアネルゲスは「雷の子ら」と説明されています。この二人も気性に荒いところがあるのです。主イエスに従って旅をしていた時に、主イエスを喜んで迎えようとしない村があったのですが、二人の兄弟は神に祈り「この村の上に天から火を降らせて、焼き滅ぼしてしまいましょう」と提案して、主イエスにひどく叱られたことがありました。神の祝福を宣べ伝える役として、ペトロやヤコブ、ヨハネは、相応しい人たちでしょうか。
 4番目に名前が出てくるアンデレ以下は最初の3人ほどには、その人となりが知られているわけではありませんが、例えば、マタイは徴税人でした。またアルファイの子ヤコブ、この人はアルファイの子レビだったか、あるいは兄弟だったかもしれませんが、アルファイの子と呼ばれているところから徴税人に関わりがあることは確かです。徴税人が主イエスの弟子であるということはどういうことでしょうか。徴税人は、元々はユダヤ人から集めた税金の上前を跳ね生活している人たちですから、一般のユダヤ人からは憎まれ軽蔑され嫌われていました。そういう人たちが、果たして誰かに神の祝福を取り次ぐなどということができるのでしょうか。徴税人だった人が「あなたの上に神さまが愛をもって臨んでおられます」と告げたところで、聞いた人たちがそれを素直に喜んで聞いてくれるでしょうか。
 あるいはまた、この弟子のリストの中には、正義のためと言って大勢の人を暗殺することで知られていた熱心党という過激派に属していた人も加えられています。「神の怒りがそこに現れている。思い知るがよい」と言って人を殺すことを肯定する、そういうグループに属していた人が、急に神の祝福を語ることができるのでしょうか。人を殺すような生活をしてきた人が、突然「神さまがあなたを愛しておられます」と語り、それを聞く人は果たして、素直に耳を傾けて聞いてくれるでしょうか。
 そして、何よりも不適任に思えるのは、一番最後に名前が出てくる人物、イスカリオテのユダです。「このユダがイエスを裏切ったのである」と、念を押すように言われています。この言葉が、主イエスが十二弟子をお選びになった時点で既に言われているとは、驚くようなことです。ユダは主イエスに従いましたが、従ったのは上辺だけであって、後には主イエスを敵の手に売り渡してしまいました。つまり、そういうユダが選ばれたのだと言われているのです。ユダは途中で心変わりしたということではありません。主イエスは、ユダをお選びになった時点で、「この人はわたしを裏切るだろう」と分かっていて選んでおられるのです。
 このように、目に付く弟子たちのことを考えるだけでも、神の祝福をこの世の人たちに宣べ伝えるために、果たしてこれが相応しい人選と言えるのだろうかと思ってしまいます。これはミスキャストではなかったのか、そう思わざるを得ません。主イエスは他にも大勢の弟子たちを呼び集められたのに、その中には適任な人はいなかったのでしょうか。
 けれども、主イエスが12人をお選びになったのは、山に登って徹夜の祈りをなさった末のことです。そうであるならば、私たち人間の思いからすると、たとえこの人選が不可解であるとしても、やはりこの12人というのは、まさに神の祝福を世に告げるのに相応しい人たちだったのでしょう。

 主イエスは、12人をお選びになって「使徒」と名付けられました。「使徒」という名前は驚くような名前です。昔イスラエルの王が兵隊を外国に送り出す際に、王の全権を委ねて交渉に当たらせた軍の司令官であり、また王の全権大使であるような人が「使徒」と呼ばれていました。ですから、「使徒」と名付けられたということは、まさに、主イエスが神の代理として「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とおっしゃったのと同じように、弟子たちもまた「ここに神さまの慈しみの支配が訪れている。あなたはそのことを信じて、神さまに信頼して生きる新しい歩みをしなさい」と、主イエスに代わる全権大使として語る、そういう役目を与えられているということであり、それが「使徒」という名前に込められている意味なのです。

 頼りなさそうに見える12人の使徒たちに、そんな重い務めが果たせるのでしょうか。けれども、まさにこういうことが、地上の教会が世界の歴史の中で行ってきた業なのだろうと思います。教会に集められているキリスト者、それは牧師も信徒もそうですが、決して天使のような人間ではありません。一人一人が、その人を眺めてみると本当に多くの破れを負っていたり、あるいは傷を持っていたり、悲しみや痛みを覚えている、弱さを抱えている人たちです。けれども、そういう人たちが用いられて教会の歴史が織りなされ、その中で確かに神の慈しみがこの世界の上に語られ、告げ知らされて来ているのです。
 もし私たちが、何かの慰めを教会の礼拝の中で覚えるようなことがある、あるいは本当にホッとさせられるような経験をすることがあるとすれば、それはまさしく、不束な人間の言葉や行いを用いて主イエスが働いてくださっていることのしるしです。まさに人間を通して主イエスが働かれます。全権大使は、大使が雄弁だから主人より前に出るのではありません。全権大使は、遣わしてくださった方がいて、その人の意向を伝えるために立てられていくのです。
 14節には、主イエスが十二弟子をお選びになった時に「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させるため」と言われています。弟子たちは、主イエスの傍で生活する中で学ばされて、次第に使徒として育てられていきます。十二弟子は、使徒になれば主イエスから離れて、どんどんとどこへでも自分たちで行き、自分の思いで話をするのではありません。まずは主イエスの側近くに置かれる、そして主イエスの語る言葉、なさることを一緒に経験させられていくその中で、本当に自分が何に支えられ、何に立てられていくのかということを知らされ、主イエスを通して神が現す愛を、使徒たち自身もまた現すように変えられていくのです。

 今日ここにいる私たちも、そういう中に置かれているということを思います。礼拝を捧げるたび、私たちは主イエスの側近くに引き寄せていただいて、主イエスが私たちの上に置いてくださっている真実な愛の御業によって癒され、清められ、新しくされていきます。
 そのようにして、私たち一人ひとりも神の慈しみと祝福を現す者として立てられていることを覚え、感謝をして、ここから歩む者とされたいと願います。

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