聖書のみことば
2021年10月
  10月3日 10月10日 10月17日 10月24日 10月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

10月3日主日礼拝音声

 言いふらさないように
2021年10月第1主日礼拝 10月3日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第3章7〜12節

<7節>イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、<8節>エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。<9節>そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。<10節>イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。<11節>汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。<12節>イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

 ただいま、マルコによる福音書3章7節から12節までをご一緒にお聞きしました。7節8節に「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た」とあります。「主イエスが弟子たちを伴って湖の方へ立ち去られた」と言われています。なぜ湖の方に行かれたのでしょうか。前回主イエスが湖のほとりにおいでになった時には、そこで漁をしていたシモン・ペトロとアンデレ、ヤコブやヨハネ、あるいは収税所で仕事をしていていたアルファイの子レビを弟子に招いておられましたから、今回も同じ目的があったかもしれません。
 しかし、別の理由があったのかもしれません。この直前の6節にはファリサイ派とヘロデ派の人々の間で主イエスを亡き者にしようとする密談が交わされていたと語られています。もちろん密談ですから主イエスに聞こえるところで相談していたはずはないのですが、主イエスは人間が心の中に何を思い図っているかを全てご存知の方です。このまま町に留まっていると不穏な動きに巻き込まれてしまうために、それを避けようとして町を出て湖の方へ行かれたと考えることもできます。
けれどもそうだとすると、主イエスはこの時、ご自身の命を惜しまれたということなのでしょうか。この答えはそうであるともそうでないとも言えます。主イエスは最終的には父なる神の御心に従って神のご計画のままに十字架の上に向かって行かれます。主イエスの十字架の死は、敵の追跡をかわして散々逃げ回った挙句とうとう捕まり、嫌々ながら殺されたということではありません。むしろ、主イエスに付き従う弟子たちが恐れを覚え、驚き怪しむほどに、最終的に主イエスは、先頭に立ち、エルサレムを目指して進んで行かれました。主イエスは「エルサレムで十字架に架かる」という神のご計画を行うために、ご自身の全生涯を辿って行かれました。ですから、そういう意味でも主イエスは、この時も神のご計画に従うためにその身を捧げておられるわけで、命を惜しんでいるわけではないのです。
 しかしだからといって、主イエスはご自身の命を粗末に扱ったりはなさいませんでした。むしろ「神のご計画に従うために、今なすべきことを行わなければならない」、そのことに心を向けて歩んで行かれました。今はまだ十字架に架かるべき時ではありません。十字架に架かるよりも先に、なすべきことがたくさんあるのです。朝に晩に祈りを捧げて御心を尋ね求めながら弟子たちと共に過ごし、弟子たちを育てることも、今ここで主イエスがなすべき大切な御業でした。それで主イエスは、騒ぎになることを避けて湖の方に退いて行かれたのでした。7節に「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」と言われています。「弟子たちと共に、弟子たちを伴って」ということが大切な点です。主イエスは、今は弟子たちと共に歩み、弟子たちを育てるために、敢えて厳しい状況を避けようとなさいました。

 ところで、そのように主イエスが弟子たちを伴って一時危険から身を退けられた時に、そこには大勢の群衆も押し寄せて来たと述べられています。7節後半に「ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った」とあり、また8節には「(また、ユダヤ、)エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た」と言われています。
 主イエスが多くの人々から慕われ必要とされているこの様子を見て、ある人たちは「主イエスの伝道が大成功を収めている」と受け取ったり、あるいはこういう光景を「主イエスに訪れたガリラヤの春の場面である」とする説明も昔からよくされてきました。
 けれども実際のことを考えますと、そんなに長閑な状態ではないのです。主イエスのなさっていることを見聞きしてやって来た人々は、なぜ来たのか。主イエスの弟子になりたいと思って来たというよりは、むしろ、一人一人その人なりに、主イエスに叶えていただきたい事情があり、それで互いにひしめきあうようにしながらイエスのもとに押し迫って来たのでした。
 実際に、群衆がそれぞれ要求すること、願い事を前に押し立てて主イエスに迫って来ましたので、主イエスはその圧力のために湖のほとりに立っていることが出来ず、弟子たちに小舟を用意してもらい、それに乗り込んで、湖の水を隔てとして群衆と一定の距離を保ちながら向き合わなければなりませんでした。9節に「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」とあります。この群集は、7節8節で「主イエスに従った」とか「主イエスのそばに集まってきた」と言われている人々です。けれども彼らは、自分が主イエスの弟子となる、従っていくというのではなくて、逆に、主イエスからそれぞれ自分にとって都合の良いものや事柄を引き出したい、そういう思いを強く持っていました。10節に「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった」とあります。これはとても「ガリラヤの春」などと言えるような情景ではありません。まことに異様な光景がここに現れています。大勢の人たちが我先にと主イエスの許に殺到し、自分の悩みや痛みを感じる事柄について、いわば特効薬を手に入れたいと思って手を前に伸ばすようなことになっているのです。
 「病気に悩む人たちが皆」と言われていますが、「病気」と訳されている文字は、元々は「無知」という文字です。「病気に悩む」と言っても、それは身体の病気とか心の病に限らず、「無知に悩んでいる人」、つまり辛かったり、痛みを覚えている人たちまでもが、「病気に悩む人」の中に含まれています。
 そしてまた、「イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった」と言われていますが、「押し寄せる」という言葉も別に訳すなら、「襲いかかる、飛びかかる」と訳せる言葉です。「病気に悩む人たちが皆、押し寄せた」というのは、自分の欠けているものを埋めようとして、あるいは自分の痛みや傷を癒そうとして主イエスに押し迫り、直接触れようとしたということです。主イエスに触れることで一体何を願ったのか、それは日本風な言い方をするならば、何らかのご利益を求めたのです。主イエスから自分にとって都合の良い何かの言葉や何かの行いを引き出そうとして、押し迫りました。ですから主イエスは、小舟に乗って湖の上に避難しなければなりませんでした。

 さて、そのような群衆に対して、主イエスは湖の上にいて一定の距離は保ちますけれど、まさにその場所で主イエスは、押し寄せて来る人たちの病や痛み苦しみに向き合い、それを癒して行かれます。主イエスは、苦しむ人あるいは飼う者がいない羊のように弱り果てている人たちのことを、決して見過ごしにはなさいません。主イエスに押し迫ってくる人々の求めに応じて、その願いどおりにしてあげるということではありませんが、しかしここに集まって来ている一人一人を悩ませている汚れた霊を、その人の中から順々に追い出してくださったということが11節以下に述べられています。「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた」。
 病の無知に悩まされている人たちの異様な様子にすぐ続けて、急に何の前置きもなく「汚れた霊」の話に移っているので、11節12節は少し面食らう言葉かもしれません。けれどもここに起こっていることは、マルコによる福音書1章24節のカファルナウムの会堂で起こったこととよく似ています。1章23節以下には「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」とあります。カファルナウムの会堂でも汚れた霊が叫んでいて、主イエスの正体をある程度言い当てていました。「正体は分かっている。神の聖者だ」、汚れた霊はそのように主イエスの正体を喝破することで、少しでも主イエスに対して優位に立とうとしました。「わたしはお前の正体を分かっている」と言って、主イエスを怯ませようとしました。
 ところが主イエスは、汚れた霊、悪霊が、本当には主イエスのことを分かっていないということをご存知で、逆に叱りつけられました。不正確なことを言っている口を黙らせて汚れた霊を追い出す、そのことで「霊に取り憑かれている人」を救ってくださいました。
 カファルナウムでは一つの物語のように出来事が記されていますが、今日のところも同じです。主イエスが一人一人の病気や無知の苦しみ痛みをご覧になり、癒やそうとなさる時に、そこに住み着いている汚れた霊が主イエスに反論しようとしているのです。「イエスよ、わたしは知っている。あなたは神の子だ」、これは言葉の上では正しいのですが、正しいことを言っておけば自分は追い出されないだろうとたかを括って、言っているのです。
 ところが、主イエスはそんな言葉でごまかされません。主イエスは口に出る言葉ではなく、人間の心の内をご覧になるからです。悪霊がどのようにその人に取り憑いているか、そしてどのように上辺だけそれらしい言葉を語らせているかということをご覧になります。そして、確かに言葉の上では「あなたは神の子だ」と正しく言っているけれど、本心には恐れを隠していて、決して自分が追い出されないようにしてほしいと思っている、そのことを知って厳しく戒められるのです。それが12節「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた」と述べられていることです。

 さてしかし、ここで汚れた霊たちが語っている「あなたは神の子だ」という言葉は、言葉自体は、誠に正しいことを言っています。ある程度正体を言い当てているというものではなく、本当に主イエスはそういうお方だということをはっきり言い当てている言葉です。
 マルコによる福音書1章1節には、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあります。主イエスはまさしく「神の子、神の独り子」です。マルコによる福音書は最初から、「主イエスは神の子である」と前置きをして語り始めています。
 ところがこの福音書を読み進めて行きますと、今日の箇所では汚れた霊が主イエスに向かって「あなたは神の子だ」と言っていますが、この箇所以外、全く誰も人間は、シモン・ペトロをはじめとする弟子たちであっても、「主イエスは神の子、神の独り子である」と言い表さないのです。つまりこの福音書は不思議ですが、一番最初に「主イエスは神の子である」と書き出していますが、「主イエスが神の子である」ということには誰も気づかない、そういう話がずっと記されているのです。主イエスのことを誰も見抜かない、いわば主イエスの正体が隠されたまま、別に言えば、弟子たちからさえ主イエスは正体を理解されないまま、話がずっと終わりのところまで進んでいくことになります。
 そして最後になってようやく、「主イエスは神の子だ」と語られます。それはどういう場面かと言うと、主イエスが十字架にあげられ磔にされて息を引き取られる場面で、そのところで初めて、十字架の見張りをしていた百人隊長が主イエスの本当の正体を言い表すのです。15章39節に「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」とあります。「主イエスは本当に神の子、神の独り子でいらっしゃる。神の子として父なる神さまの御心を全てご存知で、完全にその神さまの御心に従う方である」と人間の口が言い表すのは、主イエスが十字架の上で、地上での御業をすべて成し遂げ命が失われていく、そのところででした。
 すなわち、主イエスが人間のために自ら身代わりとなって罪を負い、十字架にお架かりになる、そして十字架の上で苦しみと死によって償いを全て果たして、人間の罪を清算してくださる、そのことが起こった場面で初めて「あなたは本当に神さまの独り子です」という信仰告白の言葉が出てくるのです。

 主イエスは私たち人間の罪を背負って十字架に架かり、人間の神に対する罪の負い目を全部精算してくださいました。そういう神の独り子が私たちのためにいてくださるのです。「わたしは主イエスの十字架のゆえに、神さまに対する負い目を全て精算していただいて、新しく生きることができるようにされている。そういう神さまの御業を、神の子である主イエスが行ってくださった」、この感謝と喜びとを持って、私たちは主イエスのことを「神の子です」とお呼び申し上げるのです。
 教会に自動車で来られる方の中に、魚の形をしたワッペンを貼り付けている方もおられると思います。車を運転していて、前の車に魚のワッペンがあると「クリスチャンなんだな」と思います。「魚」はギリシャ語では「イクスース」ですが、「イエス・キリスト、神の子、救い主」という言葉の頭文字を繋ぐと「イクスース」となります。それで、初代教会の頃から、魚のマークはキリスト者たちの信仰を表す一つの目に見える造形になっていました。ですから魚自体に意味があるわけではありません。「イエス・キリストという方がわたしのために十字架に架かり、わたしと神さまとの間に一本の橋を繋いでくださった。神の独り子である方が救い主として、わたしのために来てくださった」、そのことを魚は表しています。

 「主イエスがわたしのために十字架に架かってくださった。そして神の前に、わたしの罪を精算してくださった」、これは歴史の中で確かに起こった事実です。これは私たちの側の主イエスに対する心持ちとか、神に対する敬虔さとかいうものに左右されて減ったり無くなったりする、そういうものではありません。私たちはこの事実の前で、「本当にあなたは神の子です。わたしのために、あなたが御業をなさってくださいました」という感謝を持って、主イエスのことを「神の子」とお呼び申し上げるのです。
 そしてまた、私たちは、「私たちがこの地上を生きている時も、地上の生活を終え死の中に入って行く時も、主イエスが私たちのための執り成し手となってくださって、神さまと私たちとの間柄を確かなものとしてくださっている」ことを、本当に感謝して、主イエスを「神の子です」とお呼び申し上げるのです。
 ですから、言葉の上だけで「あなたは神の子だ」と言いふらさないことが良いのです。その言葉を語る時には、「わたしは、あの主イエスの十字架によって罪を全部精算していただいて、執り成されている。イエスさま、あなたは本当に神さまの御子として、神さまの御心を全部ご存知で、わたしのために御業を行ってくださいました。ありがとうございます」という感謝と喜びを持って告白します。それが「あなたは神の子です」という言葉なのです。

 もしかすると、私たちの側では、主イエスの十字架の出来事を忘れてしまうことがあるかもしれません。あるいはそれを聞いても長い間全然気にせず、自分と関わりがないと思って生きてしまう時があるかもしれません。しかし私たちの信仰が、私たちの思いが、私たちを救うのではありません。
 私たちはどんな時にも、「主イエスがわたしのために十字架に架かって執り成しをしてくださっている」ことに立ち返る者でありたいと願います。
 そして本当にそれが確かだと思う時には、「主イエスの十字架がわたしの救いとして確かにそこにある」ことを心から感謝して、「主イエスはわたしの救い主です。真に神さまとわたしをつないでくださる神さまの子、わたしの主です」と言い表す、そのような者とされたいと願います。

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