聖書のみことば
2021年10月
  10月3日 10月10日 10月17日 10月24日 10月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

10月24日主日礼拝音声

 主イエスの身内
2021年10月第4主日礼拝 10月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第3章20〜35節

<20節>イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。<21節>身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。<22節>エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。<23節>そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。<24節>国が内輪で争えば、その国は成り立たない。<25節>家が内輪で争えば、その家は成り立たない。<26節>同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。<27節>また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。<28節>はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。<29節>しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」<30節>イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。<31節>イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。<32節>大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、<33節>イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、<34節>周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 <35節>神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 ただいま、マルコによる福音書3章20節から35節までをご一緒にお聞きいたしました。20節に「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」とあります。「主イエスが家に帰られた」と言われていますが、この家はおそらくカファルナウムにあったと考えられます。主イエスが巡回伝道からカファルナウムに戻って来られたのですが、主イエスにはご自身の家はありません。このように心やすく「家に帰ってきた」と言えるのは、カファルナウムにあった一番弟子ペトロの家をおいて他には考えられません。この家でかつて、高い熱を出して苦しんでいたペトロの姑の病気を、主イエスが癒されたことがありました。あまり広い家ではなかったようですが、その時以来、ペトロはもちろん、家族たちも大変主イエスに感謝して、敬意をもって主イエスを家に迎え入れるようになっていました。
 主イエスご自身は、ペトロの家に一時寄せてもらい休息を取ろうとお考えだったでしょう。けれども、事情は思った通りにはなりませんでした。主イエスがペトロの家に来ているらしいという噂がすぐに広がって、人々の耳に達します。「以前あのペトロの家で多くの病人を癒していた、優れた若いラビが、今再びペトロの家に逗留しているらしい」ということが知れ渡りますと、すぐに近所の人から始まって大勢の群衆がペトロの家にいる主イエスのもとを訪ねて来たのです。身の上相談だったり、癒していただきたい心身の病気を抱えていたり、話を聞いてもらうことで救いを求める、そういう人々がひっきりなしに主イエスのもとを訪れました。シモン・ペトロの家の狭い居間は、そういう人たちですぐに満員になり、次々に相談事が持ちかけられるために、主イエスも弟子たちも休息を取るどころではありません。群衆は主イエスを必要としていました。
 来る人たちは、当然のように話を聞いていただき主イエスの時間を分けてもらう権利を持っているかのように、そしてまた主イエスも、当然その話に付き合うことになっているかのように対応なさいました。主イエスは嫌な顔をなさったり、迷惑そうな素振りを見せたりはなさいません。私たちもまた、どんなことであれ主イエスに訴え、お話をしてよいのです。

 ペトロの家で、主イエスが大変忙しくなったという経緯をこの箇所は伝えていますが、それと並んで、あまり目立たないのでつい聞き流してしまいそうな事柄が、なお一つ述べられています。それは、主イエスに従っている弟子たちのことです。20節には、群衆が集まってきたために「一同は食事をする暇もないほどであった」と言われています。「一同」ですから、主イエスだけではなく、主イエスに従っていた弟子たちもそうだったということを表しています。
 いったいこの時点で、弟子たちは何かの役に立っていたのでしょうか。実際のところ、弟子たちはほとんど何の役にも立っていません。主イエスに代わって相談を受け的確なアドバイスを与えたり、あるいは主イエスに代わって誰かを癒してあげるというようなことがあったのなら、ある程度は役に立っていたかもしれません。しかしこの場面は、弟子たちのすぐ横には主イエスがおられるのですから、人々はわざわざ弟子になど相談せず、主イエスに相談したいに決まっています。ですから実際に働いていたのは主イエスお一人だけです。弟子たちはただその場に居ただけなのですが、しかし、自分たちの先生である主イエスが働いておられる以上は、その傍で自分たちだけ休み、パンを食べているというわけにはいきません。「一同は食事をする暇もないほどであった」というのは、そういう事態を言い表しています。

 考えてみますと、これは2000年前のことというだけでなく、今日でも同じだろうと思います。キリストに属する人たちは、いつも、働いてくださる主イエス・キリストの傍でほとんど何の役にも立たないのですが、しかしそれにもかかわらず、主イエスと共にいるというだけで随分と犠牲を払わなくてはならないことがあるように思います。
 主イエスのもとにはひっきりなしに群衆が訪れてきます。群衆であれば、主イエスのもとに行ったことで癒されたり勇気づけられたり慰められたり、あるいは新しい視野を開かれたりして幸いを受け、そして、そこから家に帰れば自分の生活は確保されます。ところが、主イエスの弟子になり主イエスのもとに留まる人というのは、主イエスと共にいるということによって、自分の生活を侵食され侵害されるようなところが出てくるのです。
 そして、そういうことは今日でもあるだろうと思います。私たちは、日曜日の礼拝に行き御言葉の説き明かしを聞いて、それによって憂いが晴れたり慰めや勇気が与えられる、それだけならば、さほどの犠牲を払うということはないでしょう。けれども、実際の礼拝はただ話を聞くだけではありません。ここで賛美を捧げ、感謝し祈り、献身のしるしとして献金を捧げ、それぞれに自分自身の身をもって主を讃えながら、与えられている一巡りの時へと歩んで行くことになります。そして、そのようにして教会生活に深く関わっていけばいくほど、私たちは、自分の時間も宝も捧げるということになっていくのです。
 群衆が主イエスのもとを訪れ、主イエスからただ幸いを受けて帰って行くというのに比べて、主イエスの御許に留まり深く関わろうとする人は、人間的な見方で言うならば、主の御許に留まるために様々な不自由さや不利益を被るということが実際にあり得るのです。
 そして、それはどうしてかと考えてみますと、弟子たちが従っていく主イエス、私たちが「この方のもとに留まろう」とする主イエスというお方が、「十字架の主」でいらっしゃるからです。私たちの主が自分では損をしないようなお方なのではなくて、十字架に向かって行かれる主である以上は、その主について行こうとすることで、人間的に見るならば不利益が生じることは、ある意味では致し方ないとさえ言えるかもしれません。「主の十字架の贖いに与る」ということが確かであればあるだけ、私たちの実際の生活には様々な制約があり、破れが生じるということが起こるのです。
 けれども、そういう生活を送る時に、私たちが従おうとしている主イエス・キリストが、「私たちのために十字架に架かってくださり、私たちを罪の滅びから救い出してくださっている」という、最も大事なことは忘れないようにしたいと思います。私たちが地上の生活でいろいろな不利益や不自由や不都合を覚えることがあるとしても、それは十字架の主が確かに伴っていてくださるからこそ起こっていることを忘れずにいたいのです。
 主イエスの一行が食事をする暇もないほど忙しくしていたということは、裏返しに言うと、それほどまでに主イエスの救いを必要とする人が大勢いたということでもあります。今日でも同じではないでしょうか。救いを必要とする人が大勢いる中にあって、「私たちは主に伴われ、主のもとに置いていただいている」という、最も大切な幸いを現に与えられていることを覚えたいと思います。

 ところで、主イエスを求めて大勢の人たちが集まっていたその時に、人々に混じるようにして主イエスの身内の人たちもやって来たと述べられています。21節に「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」とあります。「身内の人たち」と言われていますが、原文では「彼の近くにいる人たち」と書いてあるだけです。ですから、「近所に住んでいる人たち」とも読むことができます。けれども、この言葉が「身内の人たち」、つまり主イエスの肉親・家族という意味で近しい人たちだと訳されている理由は、この後の31節の言葉と繋ぎ合わせて考えると分かります。31節に「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」とありますから、これは肉親、家族の者たちだと分かるのです。
 それで、聖書学者たちは、20節21節の言葉は元々31節に繋がっていたのではないかと考えます。そう言われてみますと、マタイによる福音書やルカによる福音書で今日の箇所と同じ出来事を伝える箇所では、主イエスの母や兄弟たちが主イエスに会いに来たことは語るのですが、今日の21節に記されている、「身内の人たちが主イエスを取り押さえに来た」という言葉は省略されてしまっています。ですから、マタイやルカ福音書の記事では、なぜ突然ここで家族の人たちが現れたのかという理由がはっきり分からなくなっています。
 例えば、マタイによる福音書12章46節には「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた」とあります。ここだけを読みますと、この日家族の人たちがなぜわざわざナザレからカファルナウムにまで来て、主イエスに話しに来たのか、その理由はあまりはっきりしません。「話したいことがある」というのは、もしかすると久しく主イエスに会っていないので、懐かしくなり、ふらっとやって来て話をしたい、そういうこととも読み取れそうです。
 しかし実際には、この時、家族が来たのはそんな長閑かな話ではありませんでした。今日の箇所に述べられているように、「あの男は気が変になっている」と、主イエスについての芳しくない噂が流れていたからだと分かります。
 それにしても、なぜ主イエスの母や弟たちは、主イエスについての悪い噂を聞いた時に、それを鵜呑みにしたのでしょうか。その理由については、それが本当の話ではないだけに、聖書学者の間でいろいろと取り沙汰をされています。
 例えばある学者は、「今日の箇所には父親のヨセフが出てこないが、それはどうしてかと言うと、ヨセフは早く亡くなりこの時にはもういなかったからだ。父親が亡くなれば、当然一家を率いてまとめていく責任は長男であるイエスの肩にかかってくることになるはずである。ところがイエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けると家を飛び出し、一家の主としての責任を少しも果たそうとしない。それどころか家族にとって不愉快で理解しがたいような話が聞こえてくる。噂によると、イエスはラビについて学んだこともなかったのに、説教者として各地を彷徨い歩きながら神について教えていて、しかも行く先々でファリサイ派の律法学者たちと衝突をしているという。これは身内にとってはショックなことで、まさしく『イエスは気が変になった』としか思えない。それで家族は一家の名誉を守るために、イエスを野放しにしておけないと思い、取り押さえに来たのだろう」と説明します。しかしまた別の学者は、「家族たちは、イエスが周りの事情をそっちのけにして自分がやっていることだけに夢中になり見境がつかなくなっていると思っている。家族は、そういうイエスの振る舞いを旧約聖書に出てくる預言者たちのようだと感じた。旧約聖書には、自分の仕事にすっかり熱中してそれだけに関わり合っている預言者の姿も伝えられている。イエスの家族は、イエスが仕事に熱中するあまり食事も取らずにいるということを伝え聞いて、体を心配して、皆でイエスを自分たちの家に連れて帰ろうとしたのだろう」と説明しています。イエスについて、非難がましい思いを持っているのか、それとも体を気遣っているかで、ずいぶん印象が違います。けれども共通していることは、家族たちが主イエスについて戸惑いを感じているということです。
 そして、これは別に言うならば、この時、家族たちは主イエスのことをまだ救い主だとは思っていなかったということにもなるのです。主イエスの母マリアや、ヤコブを筆頭とする弟たちが主イエスを信じるようになるのは、まだずっと後のことです。主イエスが十字架にお架かりになり復活の出来事が起こる、それより前には、身内の人たちは誰一人として主イエスを救い主だとは信じていませんでした。

 そして、そういう事情があって、この時、場面は31節に続いていくことになるのです。31節に「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」とあります。カファルナウムのペトロの家の主イエスがおられる居間には、主イエスを慕って相談に乗ってもらったり話を聞いてもらったり、あるいは癒しをしてほしいという人もいて、大勢そこに座り込んでいました。仮に、そんなに大勢の人がいるところで主イエスの身柄を取り押さえたとしても、とても主イエスを家から連れ出せるとは思えません。その場にいる人たちによって引き止められてしまうに違いありませんから、それでペトロの家までやって来た身内の人たちは、とにもかくにも、主イエスに家の外に出て来てもらおうとしました。家の外に出て来てもらえば、あとは皆で主イエスを捕らえ、連れ帰ることができるだろうと考えたのでした。

 一方主イエスは、玄関先まで家族がやって来て外で会いたがっているという話を人づてに聞きますが、その時すでに、家族たちがどのように考えているかということを見透かしておられたようです。主イエスは、家族たちの不信仰について、大変厳しい言葉を投げかけました。33節に「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答えた」とあり、まず主イエスは肉親である人たちとの関わりを一旦そこでお切りになります。そして、改めて周りを見回しておっしゃるのです。34節35節「周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」。
 ここで主イエスのおっしゃった二つの言葉によって、はっきりした決定が下されることになります。すなわち肉親として血筋の上で主イエスに繋がっている人たちの無理解よりも、神から委ねられている人たちの方を、主イエスは優先するのだと宣言しておられるのです。
 もちろん、主イエスにとって肉親である人たちが他の人たちと同じであるはずはないのです。主イエスにしてみれば、神がイエスに与えておられる務めのことを真っ先に理解してほしいと思う、そういう人たちが肉親です。ところがこの肉親は、主イエスの役割も務めも理解しないのです。却って、主イエスが働いておられる様子を「気が変になっている」と聞かされて、自分たちもそうだと思い、主イエスを取り押さえに来ています。

 このように、家の外にいる人たちは主イエスがなさっている務めを全く理解しないのですが、では家の中にいて主イエスの周りに座っている人たちはどうなのでしょうか。こちらの人たちは、主イエスが救い主として働いておられると分かっているのでしょうか。どうもそうでもないようです。理解の度合いとすれば、五十歩百歩といったところかもしれません。
 けれども、この人たちはとにもかくにも、主イエスの周りに、今座っているのです。それはどうしてかというと、神がこの人たちを主イエスに与えて下さっているからです。そしてこの人たちは、今はまだ十分には分からないとしても、主イエスから御言葉を聞かされて、やがて信じていくように招かれている、そういう人たちなのです。
 「招きに応じて主イエスの周りに座っている人たちの群れ」、それから「家の外にいて主イエスの働きに全く理解を示さないで、主を取り押さえようとしている人たちの群れ」、二つの群れがここに生まれていますが、これはやがて、「主の晩餐に与っていく人たちの群れ」と、「主イエスを捕らえ十字架に磔にして亡き者にしようとする人たちの群れ」に繋がっていくという対比があります。そしてそういう中で、もしどこまでも主のもとに留まろうとするならば、そういう人たちは、そのことのために不利益を受け、破れを負うということも覚悟しなくてはならなくなります。
 まさに、ここに生じ始めている困難な状況は、主イエスがここから十字架に向かって行かれるということが始まっていることを示しています。けれども、こういう困難な出来事を通して、神の御業は地上に行われていくのです。この先を歩まれ、主イエスは十字架にお架かりになります。主の十字架を通して、私たち人間の心の中には「暗い思いがある」ということが明らかになり、そして全てをご存知である神は、それを主イエスの十字架によって滅ぼしてくださるのです。私たち人間の中にある暗い思いにもかかわらず、そういう人間を主イエスのもとに招いてくださり、御言葉を聞かせ御業に連らせる中で信仰を与え、神ご自身の保護と導きのもとに置こうとしてくださるのです。そして、主イエスは今、そういう人たちを見回しながら「あなたはわたしの家族なのだ」とおっしゃっているのです。

 そのようにして、私たちもまた、キリストの十字架と復活に与る者として教会に招かれ、御言葉を聞かされながら、主イエス・キリストの家族としての交わりに加わるようにと導かれています。
 今日の週報にもありますが、私たちは、明日明後日と御許に召された一人の姉妹の葬りを行おうとしています。葬りの時というのは、人間的な思いで死者に思いを馳せて悼む、それだけの時ではありません。私たちは神の家族です。「地上にある時も世を去る時も、十字架と復活の主イエスがいてくださる。一人ひとりの名前を呼んで主イエスに結びつけ、一つの家族としてくださり、神さまの慈しみと恵みが一人ひとりの上に示されていることを確認しながら、皆で生きていく」、そういう家族なのです。ですから、キリスト者の葬りの時、私たちは、ただ死んでしまったことを嘆いたり悼むのではありません。「死のこの時にも、神の慈しみと恵みが確かに私たちすべての者の上に置かれている。今地上を歩んでいる者だけではなく、この世の生活を終えた者の上にも神さまが確かに命の約束を与え、一つの交わりの中に置いてくださっている」ことを覚える時、それが主イエスに連なる者たちの葬りの時です。

 主イエスが今日のところで「わたし母、わたしの兄弟、わたしの姉妹」とおっしゃっている交わりは、地上の、今目に見えている人間同士の繋がりを超えるようなところがある交わりです。私たちは主イエス・キリストに結ばれている、その強い結びつきの中に招かれ、そして今日共々に命を生きる約束を与えられている、そのことを覚えたいと思います。
 「主にある交わりに生かされている。その中に招かれ立たされている」ことを覚えながら、今日ここからもう一度、与えられている歩みへ赴いて行く者とされたいと願います。

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