聖書のみことば
2021年10月
  10月3日 10月10日 10月17日 10月24日 10月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月17日主日礼拝音声

 悪霊と戦う主
2021年10月第3主日礼拝 10月17日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第3章20〜30節

<20節>イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。<21節>身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。<22節>エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。<23節>そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。<24節>国が内輪で争えば、その国は成り立たない。<25節>家が内輪で争えば、その家は成り立たない。<26節>同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。<27節>また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。<28節>はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。<29節>しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」<30節>イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

 ただいま、マルコによる福音書3章20節から30節までをご一緒にお聞きしました。22節に「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」とあります。主イエスが悪霊を追い出し癒しをなさっていることについて、その行いが「ベルゼブル、悪霊の頭の力による」という言いがかりは、主イエスにとっては不愉快な言葉であったに違いありません。主イエスが悪霊を追い出し癒しの業をなさったのは、主イエスが神の独り子であり神と等しい方であるという、権威の力によることでした。主イエスが神と等しい方であられるので、悪霊たちは主イエスの言葉に渋々でも従わざるを得なかったのでした。
 ところが、ここで主イエスを貶めようとする人々は、主イエスが悪霊を追放し癒しをなさることがおできなのは、他ならぬ悪霊自身の力によることだと言います。主イエスが神の独り子として、その権威のしるしとして癒しの業を行っても、それが悪霊の頭の力によることだと言われてしまえば、主イエスは神の独り子ではなく、悪霊の頭の一人だということになってしまいます。こういう言いがかりは、非常に深刻なものです。決して野放しにしておけません。主イエスの癒しの業が何を現しているのかということは是非ともはっきりさせておきたいのです。

 しかしそれにしても、主イエスに向けられたこの言いがかりの言葉は、よくよく考えてみますと、その言い分自体に矛盾しているところがあります。『あの男はベルゼブルに取りつかれている』、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていますが、「ベルゼブル」という名前は、マルコによる福音書ではここ一回限り、またマタイやルカによる福音書の中に何度か出てきます。そして、「ベルゼブルは悪霊の頭である」と紹介されます。ベルゼブルという名前は元を辿ると旧約聖書の列王記下1章2節3節に出てくるペリシテ人の神、バアルゼブブから来ています。バアルゼブブがベルゼブルと訛っているのですが、バアルゼブブはペリシテ人の間では「神」として崇拝され、決して悪霊としては扱われていません。もちろん、ペリシテ人の崇拝する神だからといっても、それは天地をお造りになったただお一人の神と同じではありません。バアルゼブブは、いわゆる偶像の一つにすぎないものです。それにしても、元々神と呼ばれていたものが、どういう経緯で悪霊と呼ばれるようになったのか、またなぜベルゼブルについて、新約聖書で突然悪霊の頭と言われているのか、分からないのです。矛盾しているのはその点です。

 またそれはそれとして、ではどうして主イエスが悪霊の頭と重ね合わされ、「悪霊の頭に取りつかれている」と言われるのでしょうか。主イエスが悪霊を追い出される場面は、マルコによる福音書でも他の福音書でも何回か出てきます。例えば、マルコによる福音書1章23節以下では、カファルナウムの回廊で主イエスが悪霊に取りつかれていた男の人を癒されたという出来事が述べられていました。そこでは「汚れた霊」と呼ばれていましたが、悪霊です。そしてこの悪霊は、結局は主イエスによって追放され、男の人は癒されるのですが、主イエスが悪霊を追い出される時に、追い出されていく悪霊たちは、主イエスのことを「正体は分かっている。神の聖者だ」と言い表しながら、主に手向かい出来ずに追い出されていきます。あるいは3章11節でも、汚れた霊が主イエスの前にひれ伏して「あなたは神の子だ」と言っています。悪霊は、ただ黙って追い出されていくのではないのです。主イエスに向かって「あなたは神の聖者だ。あなたは神の子だ」と言いながら追い出されていきます。さらに先の5章7節では、自らをレギオンだと名乗る大勢の悪霊たちが、主イエスに向かって「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから苦しめないでほしい」と言いながら、取り憑いた人から追い出されて、そばにいた豚の群れの中に移され、そして取り憑かれた豚たちが雪崩を打つようにしてガリラヤ湖に飛び込み、滅んでしまう出来事が起こります。悪霊たちはいずれも、主イエスに手向かいすることはできないのです。しかも、口々に主イエスのことを「神からの聖者、いと高き神の子」と言いながら、結局はそれまで自分が取り憑いて自由に操っていた人から追い出されてしまいます。

 そのように、主イエスが実際に悪霊を追い出し、癒しをなさり、苦しむ人々を助けておられるという事実は、主イエスに反発して敵対している人たちも認めないわけにはいきません。癒しというものを無かったことにはできません。問題は、癒しや悪霊を追い払うという出来事が、一体何に由来して起こっているのかということです。そこで起きている癒しは、本当に神の力、神の権威の力によって行われているのか、それとも悪霊の力を借りているのか、その点が問題です。
 そして、それが一体どちらなのだろうということは、最初の頃の教会の人たちにとっては、今日の私たちからは思いもよらないほど重大なことでした。「主イエスの癒しの出来事は一体何の力で生じているのか」、ここを考え違いしてしまうと、それによって自分たちを支えている信仰自体が立ちも倒れもする、それほどに重大なことでした。
 悪霊たちは追い出されて行く時に、主イエスのことを「あなたは神のもとから来られた聖者である。いと高き神の子である」と言いながら追い出されて行きますが、この言葉は、マルコによる福音書では極めて重要な言葉です。マルコによる福音書では、普通の人間は、たとえ弟子であっても主イエスのことを「神の子、神の聖者」となかなか言わないのです。
 以前にも申し上げましたが、マルコによる福音書の書き出しに何が書いてあるかというと「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」とあり、一番最初に「主イエスは神の子、神の独り子」ということがはっきりと述べられています。ところが読み進む中で、「神の子」ということを、人間はなかなか言い表せません。主イエスが不思議な癒しや奇跡をなさる力ある先生であり、言葉に力のある預言者だと思って、主イエスのことを自分の師、先生としてついて行こうと思う弟子たちはいるのです。けれども、そういう弟子たちも、なかなか主イエスのことを「神の子である」とは告白しません。主イエスは地上のご生涯の間、ずっと弟子たちと一緒におられ、弟子たちが「本当に、あのイエスさまが神の子なのです」と言い表すことができることを願いながら生活を共になさるのですが、結局弟子たちは誰一人、地上の主イエスのご生涯の中では、この大事なことを言い表しませんでした。
 人間が主イエスについて神の子だと言い表すのは、イエスが十字架上で息を引き取られた直後のところです。しかもそこで主イエスを神の子だと言ったのは、弟子たちではなく、十字架の見張りをしていた番兵、ローマの百人隊長でした。ローマの百人隊長が人間では初めて「まさしくこの人は神の子だった」と言い表したのでした。

 マルコによる福音書は、どうしてそのような書き方をしているのでしょうか。それは、弟子たちにとって「主イエスは神の子、神と等しいお方である」ということは、決して弟子たち自身が自分で悟りを開いて分かったことではないことを言い表すためです。
 大変不思議なことですが、「主イエスは神の子である」という言葉は、最初は、弟子ではない人、ローマの百人隊長の口から語られました。ですから弟子たちとすれば、「主イエスは神の子」という信仰告白の言葉は、自分でハッと気が付いたということではなく、最初は耳から聞かされる言葉として入ってきたのです。地上の人間が神の子であるはずがないと思えば、とても不思議な言葉です。けれども、よくよく思い返してみますと、確かに主イエスは神の独り子として、神の御心に敵うことを願いながら歩み、神の私たちへの思いを表してくださったお方でした。移り気で信頼もおけないような人間たちを、神がどれほど深く慈しみ愛してくださっているかということを、主イエスは身をもって私たちに知らせてくださいました。そしてその神の愛を信じるように招き導いてくださる方だということを、弟子たちは、「主イエスは神の子なのだ」と耳から聞かされ、そしてそれをよく考えながら「本当にそうだ」と自分も信じるようになって、そして最後には「神の子です」と口を揃えて告白するようになっていきました。
 主イエスは、地上のご生涯の中では、従う弟子たちからは理解されないまま、弟子たちの信仰告白の言葉も聞かないまま、お亡くなりになりました。けれども、その惨めな十字架の死から復活なさいました。そしてその復活によって、「神が真実に深く私たち人間を愛してくださっている」こと、「主イエスは神の子である」ということを、はっきりさせてくださいました。
 人間たちはなかなか気付かないのです。けれども、人間が主イエスを神の子だと言うよりも以前のところで、悪霊たちが口々に、まるで恐れ入ったかのように主イエスを「あなたは神の子だ。いと高き神の聖者だ」と言っていることも、実は弟子たちにとっては、主イエスが神の独り子なのだということを表す極めて有力な証拠であると考えられていました。もちろん弟子たちは、悪霊と主イエスとのやり取りを側で聞いていただけで、すぐに言われていることの意味を理解したわけではありません。けれども、主イエスが復活なさった後でよくよくそのことを考え、「主イエスが本当に神の独り子だったから、悪霊たちは恐れをなして、あのようなことを言っていたのだ」と気が付いたのでした。

 ところで、今日のところでは、律法学者たちは「イエスが悪霊を追い出したり癒しをなさるのは、悪霊の頭、サタンの力を借りてしているのだ」と言っています。もしそうだとすると、弟子たちが悪霊たちの言葉から主イエスを神の子と信じたとすれば、それはとてもあやふやなことになってしまいます。ですから、主イエスもこの時には、律法学者たちの言葉を決して野放しにできないとお考えになり、主イエスご自身から「悪霊を追い出しているのは、悪霊の頭の力によるのではない」ということをはっきりおっしゃいました。23節から26節に「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。『どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう』」とあります。
 主イエスは、もしご自身のなさっている癒しが律法学者たちの言うように、悪霊の頭、サタンの力によることだとすれば、それはサタン同士が内輪揉めして争っているようなことになると言われました。そしてそういう言い方で、律法学者たちの主張が自己矛盾を起こしていると指摘をなさいました。そしてその際に、二つの譬えをお使いになりました。「国が内輪で争えば、その国は成り立たない」、次に「家が内輪で争えば、その家は成り立たない」。国という大変大きな共同体から始めて、家という小さな共同体に至るまで、それは同じだということです。ここで言われている「家」は、当時の一つの氏族のことです。どんなに小さな氏族であれ、どんなに小さな親族であれ、自分たちで助け合って生きているわけですから、もし内輪で仲間割れすれば成り立っていけなくなると、主イエスは言われました。そしてそれと同じように、サタンも仲間内で対立すれば、仲違いして立っていけなくなるに違いないと言われたのでした。ここで主イエスがおっしゃっていることは、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出すことは、簡単ではない」ということです。悪霊と悪霊、サタンとサタンをぶつからせることはできないことだと、主イエスは言われました。
 そしてこの譬えに続けて、もう一つ諺を引用しながら言われました。27節「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」。ここにも「家」という言葉が出てきますが、この家は、家屋・建物のことを表しています。つまり、どこかの家に押し入って略奪しようとするなら、まずその家の中の一番強い者を縛ってからでなければ、その家の家財道具を盗み出すことなどできないと言われます。ここで「強い者」と言われているのは、悪霊のことです。そして「家財道具」に譬えられているのは、「悪霊に取りつかれている人」のことです。もし主イエスがベルゼブルに取り憑かれているのなら、主イエスの方が悪霊に翻弄されて言いなりになってしまうわけで、「悪霊の一人ですから」と折り合いをつけ、「家財道具を盗ませてください」と言って盗むことなどできないはずだと、主イエスはおっしゃるのです。
 そういう言い方で、主イエスは、ご自身がなさっている癒しが悪霊によることだと難癖をつけている律法学者たちの言い分が正しくないとおっしゃいます。そして、主イエスによる癒しの業、悪霊を追放する業が行われる時には、そこにまさしく聖なる神のご支配が始まっているのだと宣言をなさいました。

 また、この時さらに主イエスは、加えて念押しするように言われました。28節29節に「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」とあります。特にこの最後の言葉は、非常に重たい言葉です。多くの人がこの言葉を恐れ、振り回されてしまう、そういう言葉です。私たちもまた、この言葉を聞くと「自分はどうなのだろう」と、ふと思わずにはいられないのではないでしょうか。自分も「決して赦されることのない罪」というものを知らず知らずのうちに犯しているのではないかと、ひどく不安になるのです。
 主イエスのこの言葉の鋭さ重たさのゆえに、福音書を著したマルコは、おそらく何らかの説明をしなければならないと考え、もう一言加えています。それが30節です。「イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである」。つまり、神の聖なる霊の力によって癒しをなさる主イエスについて、「あれはベルゼブルに取りつかれている。悪霊の力で悪霊を追い出している」と言う人たちは、「聖なる霊の働きを、汚れたものの働きであると疑うのだから、そのゆがんだ理解の上に最も深いところで赦されていく可能性を自ら棒に振っていることになる」とマルコは説明しています。

 この30節の言葉を聞くと、なぜ主イエスが今日の箇所で、むきになって律法学者たちの言いがかりに反論なさったのかということも分かるような気がします。聖なるものとそうでないものの区別をいい加減に扱ってしまうと、その結果、聖なるものへの信頼を損なってしまうのであり、それはその人自身にとって、自分が生かされているという事実の拠り所を失うことにつながりかねないのです。どうしてかというと、私たちは、自分自身で存在しているわけではないからです。私たちは誰一人、自分で生まれようと思って生まれてきたわけではありません。私たちは命を与えられ、その与えられた命を神から与えられたものとして生きています。そして神のご計画のもとに持ち運ばれて、定められた時を地上で過ごしていきます。
  私たちが、私たち一人一人の存在をここに置いてくださった聖なる神との関わりを見失うときに、私たちは自分が「神の愛のもとに生かされている」という手応えがなくなって、なぜ人生を生きていくのか、その意味が分からなくなってしまうのです。
 多くの人たちは、神から愛されているという手応えなどなくても生きていけると思っているようで、「人生は、自分がやりたいことをやっていくのだ。自分にとって嬉しいことがたくさん起こるそういう場所で、それを追い求めて生きるのが人間であり、誰でもそういう衝動や欲求を持っているのだから、それに素直に生きたらよい」と簡単に考えます。けれどもそれは、若く元気がある時は良いのですが、しかし段々歳を重ねて社会的にも肉体的にも衰え、いろいろなことができなくなっていく時には、本当に生きていく意味が見失われてしまうことにもなりかねないのです。あるいは今の時代であれば、疫病のために、若く元気があっても思うようにならないことがたくさんある、そういう中で、ただ不自由だというだけではなくて、「自分はなぜ生きているのだろうか。こんな時代には生きていたくない」、そういう危機感を抱えている人も大勢いるに違いないのです。
 けれどもそれは、元々の考え違いがあるのです。人生は、自分で存在しているものではないのです。私たちは生まれさせられ、この命を支えられ、神の愛のもとに生かされている、それが本当に大切な点です。命の源である神は、私たちが「なぜ生きるのか」が分からなくなってしまわないために、「あなたはわたしの愛する者なのだ」ということをはっきりさせようとして、ご自身の独り子である主イエスをこの世に送ってくださいました。

 主イエスが人を癒されるということは、まさにそこで聖なる神の御支配が始まっていることのしるしです。そして、そのことは2000年前の主イエスの周りでだけ起こっていた不思議なことというのではなくて、今日もなお教会の中に受け継がれ、私たちの周りで起こり得ること、私たちもそれを時折経験させられながら生きていくようなことなのです。礼拝の中で御言葉が説き明かされることによって、私たちは「神が本当にわたしを愛してくださっている」ことを素直に受け入れることができ、信じることができた時には、今自分が抱えている出口のないように思える問題の中で、確かに状況はすぐに好転するわけではないけれど、しかし何かここに糸口があるのではないかと思うようになる、ほっとさせられる、そういうことが起こるのではないでしょうか。

 そして、それはなぜ起こるのかと言えば、主イエス・キリストが聖なる霊をもって、私たちの間を訪れてくださり、癒し慰め、励まし支えてくださるからです。ですから私たちは、「私たちの中に働く聖なる霊の力がある」ことを否定してしまってはなりません。そしてそういうことに結び合わせて、29節の「しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」という言葉を、ただ不安を感じる言葉としてではなく、本当に大切な言葉として覚えたいと思うのです。「神が私たちに触れてくださる。御手を伸ばして私たちを支えてくださる。そういうことがある。聖霊の力がわたしのうちに働くことがあり得るのだ」ということを信じないならば、聖霊を冒涜してしまうならば、私たちは神の支えのもとに生きることができなくなってしまいます。その時には、自分の思い通りに人生を生きたいと願いながらも思い通りに生きられないという不満や悲しみばかりを抱え、自分の人生などつまらないと思って生きてしまうことになります。それが「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と警告されていることなのです。

 聖なる主が教会の頭として、今も私たちの間に共にいてくださることを信じる者とされるように、共に祈りを捧げたいと願います。

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