聖書のみことば
2018年7月
7月1日 7月8日 7月15日 7月22日 7月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月29日主日礼拝音声

 小さな信仰
2018年7月第5主日礼拝 7月29日 
 
山元克之牧師/青山学院高等部宗教主任(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第14章22〜33節

<22節>それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。<23節>群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。<24節>ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。<25節>夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。<26節>弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。<27節>イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」<28節>すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」<29節>イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。<30節>しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。<31節>イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。<32節>そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。<33節>舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

 14年ぶりに、愛宕町教会の礼拝でご奉仕させていただくことになりました。緊張と喜びと、ある種の恐怖を持ってやって参りました。この感情は、14年前、夏期伝道実習にやって来た時の感情とよく似ています。先輩神学生からの伝承で、大変厳しい実習の場だと聞いていましたので、人間的な恐怖を覚えてやって来た当時を思い出します。
 けれども、私にとって愛宕町教会での夏期伝道実習は、牧師の原点とも言えるような経験となりました。真摯に御言葉に向き合う教会の方々、そのような教会形成をしておられる北紀吉牧師のお姿の一つ一つが、今の伝道者としての私の生活の中に確かに生きています。ですから、今回来甲しての恐怖というのは、思い出も思い入れもある愛宕町教会で神さまの御用をさせていただく恐怖です。取るに足らない、もっと言えば誰と比べても小さな信仰しかない私が、ここでご奉仕をさせていただくことを思ったときに、感謝と同時に恐怖が生まれました。ご一緒に御言葉に聞けますことを感謝しつつ、共に礼拝に与りたいと願います。

 今日の御言葉の最後、33節に「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」とあります。弟子たちは主イエスを「神の子です」と告白したと言われています。信仰の告白に至ったということが、今日の御言葉の結論です。どのような経緯があったのかということを見て行きたいと思います。
 その前に、少し先の15章の御言葉に触れておきたいのです。15章21節以下に、「カナンの女の信仰」という記事が記されています。その最後のところで主イエスは、カナンの女に対して、28節「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われました。「あなたの信仰は立派だ」と主イエスは言われました。立派な信仰を持っていない私からすると、到底比べることのできない女性の姿が15章には描かれているのですが、注目すべきことは、カナンの女の信仰が「立派だ」と言われていることです。この主イエスの言葉を直訳すると「あなたの信仰は大きい」となります。カナンの女は「信仰が大きい」と言われたのです。それに対して、今日の御言葉では、主イエスはペトロに、31節「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。「信仰の薄い者よ」を直訳しますと「信仰の小さい者よ」と訳せます。つまり、マタイによる福音書の筆者は、明らかに、近い箇所で、信仰の大きい者と小さい者を描いているのです。今日の箇所のすぐ後で「信仰が立派だ」と褒められる主イエスが、今日の箇所ではペトロの信仰を「薄い」と言われます。信仰の大小が記されているのです。この福音書の筆者マタイが、カナンの女の信仰とペトロの信仰の大きさを対比しているということが分かります。
 実は、二人とも同じことを主イエスに求めています。それは「助けてください」という言葉です。「助けてください」という言葉で主イエスに助けを求めている点では、二人は変わりません。では何によって主イエスに信仰の大小を指摘されたのでしょうか。それを解く鍵が、14章31節の「疑う」という言葉です。ペトロの様子を見て主イエスは、「疑った」と表現しておられます。
 「疑う」というのは、二つのことに別れた状態ということです。カナンの女は、他には何にも目を向けず、真っ直ぐに主イエスを見つめていました。一つのことに集中していた、その女の姿を主イエスは「あなたの信仰は立派だ、大きい」と言われたのです。しかしペトロは、29節にありますように、主イエスだけを見て主イエスの方に歩みだすのですが、数歩、歩んだところで、強い風が吹いていることに気付いたために「怖くなった」のです。
 そもそもこの日は、逆風によって舟が進まなかったと説明されていました。ですから、ずっと風は吹いていたのです。ペトロもその風に困っていました。けれども、主イエスだと分かった瞬間に怖さが吹き飛び、主イエスの方に向かって歩み出す、主イエスのみを見上げて進み出す、その時には、風が吹いている恐怖を感じなかったのです。ところが、ふとしたことでペトロは強風が吹いていたことを思い出して、その瞬間、信仰よりも恐怖の方が大きくなってしまいました。ペトロは、主イエスの方に向けていた目を、風という恐怖の方に向けてしまったのです。主イエスと恐怖、つまりペトロは二つのことに目を向けた、「疑う」とはそういうことです。カナンの女とペトロの決定的な違いがここにあります。「疑う」時には、必ず、二つ以上のことに思いが分かれるのです。人を疑う場合も同じです。どこかに信じている気持ちがあるから、怪しむ、疑う気持ちが生まれるのです。
 ペトロは確かに信じていました。だからこそ、このように無謀なチャレンジをしたのです。「湖を歩いてみよう」とするのは無謀な挑戦ですが、ペトロは主イエスを信じていたからこそ、歩み出せました。強風さえ怖いと感じませんでした。けれども、疑ったのです。強風故に、主イエスを見つめる力が弱くなりました。そしてその瞬間、「沈みかけた」と聖書は語ります。

 いかがでしょうか。私たちの誰もが、ペトロのこの姿に自分の信仰生活を重ねることが出来ます。ペトロと書いてありますが、まるで自分の名前がここに書いてあるような気がする。私たちはそれぞれ、信仰ゆえにあらゆる恐れを締め出して歩む一方で、信仰生活を送る中、まさに逆風と呼べるような困難にぶつかることがあります。本当は、弟子たちがそうであったように、この世を歩むということは常に強風にさらされている状態なのだと思います。それを乗り越えるために、人は、自ら努力することが求められ、力を蓄えることが求められ、何とか乗り切る術を身につけなければならないと言われ続ける。
 けれども、信仰を与えられた者は、そうは考えません。常に強風の吹く歩みであっても、ペトロのようにただ一人のお方を見て歩むことで恐怖に打ち勝つことができる、そのことを私たちは信じています。信仰を杖に、あらゆる困難を乗り越えられると信じて、この世の逆風を歩もうとします。それが信仰を与えられた者の生き方です。しかしそれでも、ペトロのように、ふとした瞬間に強風が吹いていることを思い出して、私たちに恐怖が訪れるのです。信仰によってあらゆる恐怖を締め出していてもです。自分の生活のこと、家族のこと、もしかすると教会の将来のこともそうかもしれません。神様を信じて歩んでいる、けれども、片方の目に恐怖がちらついて、疑う気持ちが生まれてくる。そういう私たちに語られる主イエスの言葉が、「信仰の薄い者よ」という言葉なのです。あなたの信仰は小さいと、主イエスは言われる。カナンの女の大きな信仰の陰に隠れるしかない私たちの信仰です。私たちは、カナンの女よりペトロの方に、より共感を覚えるのではないでしょうか。カナンの女のようになりたいと思いつつ、しかし、ペトロのような弟子がいたことに安堵を覚えるのではないでしょうか。

 「信仰の薄い者よ、信仰の小さい者よ」と主イエスは言われます。ただしかし、この言葉は、決して裁きの言葉ではありませんでした。主イエスは、「あなたの信仰は小さい、だから沈んでしまいなさい」とはおっしゃいませんでした。信仰の大きなカナンの女にも救いが訪れたように、信仰小さきペトロにも、主イエスは手を伸ばし、カナンの女と等しくペトロを捕らえ、助けられました。
 ここでまず、大切なことを確認しておきたいと思います。それは、当たり前のことかもしれませんが、信仰の大きい小さいが救いに関係するのではないということです。私たちは何かにつけ人と競い、大きいこと多いことが素晴らしいと思います。もちろん、カナンの女の信仰は素晴らしく立派でした。しかし、聖書は、カナンの女のようにならないと私たちは救われないと言っているかというと、そうではありません。「信仰の小さき者よ」と言われた主イエスは、そのペトロを救われたのです。しかも、主イエスが手を差し伸べて、です。
 近くにいた弟子たちは、ペトロを助けようとしたでしょうか。聖書には記述がありません。弟子たちではなく、主イエスが自ら手を差し伸べて、ペトロを助けました。私たちは、様々な強風という困難の中で、信仰が小さいゆえに疑い、沈みそうになっているペトロと同じです。その私たちに、主イエスが手を差し伸べてくださる。周囲の人たち、家族や友人ではありません。沈みそうになっているペトロを助けたのは、近くにいた弟子たちではありませんでした。誰一人、ペトロを助けようと湖に飛び込んだ者はいませんでした。ただただ沈みそうになっているペトロを眺めているしかできなかった弟子たちです。もちろん、私たちには家族や友人、仲間は大切です。けれども、私たちの救いは家族や友人によるのではありません。私たちの人生に家族や友人は大切ですが、しかし、信じる対象ではないのです。たったお一人の主、唯一私たちのために命を捨てて死んでくださった主イエスだけが、滅びゆく私たちの手を握りしめてくださるお方なのです。ペトロの力が尽きてしまい、手にもう力が入らなかったとしても、家族や友人や仲間がペトロを見捨てたとしても、主イエスは確かにその手を握ってくださる。私たちの手を握ってくださるのです。

 当時、湖は「死の淵」と考えられました。湖の底は、死が支配する世界だと考えられました。そこにペトロが沈んでいくとはどういうことでしょうか。死にゆくペトロを主イエスは救われたということです。死を前にして、人間は本当に無力です。どれだけ家族や牧師が語りかけても、手や体をさすっても、命の終わりを人間が変えることはできません。
 私たちがどれだけ家族や友人を大事に思っていても、死にゆく人に何もできないように、この日、誰もペトロを助けることはできませんでした。ただお一人を除いては。ただ主イエスだけが手を握りしめてくださいます。私たちの手のひらから全ての力がなくなって、主イエスの手を握る力がもう残っていなかったとしても、主イエスは必ず、あなたの手を、私たちの手を、その死の淵で握ってくださるのです。「死の陰をゆくときも、わたしは災いを恐れない」と、詩人が歌いました。まさにペトロの身に起きたことが、このことを示しています。誰も助けることのできない状況の中で、たった一人、私たちの手を握ってくださる方がおられる。その方は、死を経験された方です。十字架を担って死んだ方です。本当に小さな信仰しかない者を救うために、主イエスは十字架にかかり、死の淵、いや死の底まで下って私たちの手を握り、救ってくださるのです。小さな信仰しかない私たちです。その私たちも、主イエスの救いから漏れてはいない、このことをペトロの出来事は語っています。

 信仰小さきゆえに、幾度となく挫折を繰り返す私たちです。順風満帆な信仰生活を送る方がどれほど少ないことか。誰もが荒れ狂うこの世の荒波の中で、信仰生活を送ります。
 ある神学者が、本日の御言葉について「疑いの中にある信仰の弱い弟子たちの挫折を救うイエスの助け、それが決定的に重要である」と言いました。私たちは信仰が大きいか小さいかということに振り回されますが、ここで大事なことはそういうことではない。決定的に大事なことは何か。「信仰が小さくても、その者を救う方がいる」、そのことが大事だと言っています。私たちは、カナンの女の信仰に学び、そうなりたいと思います。もちろん、それも大事なことでしょう。けれども、それよりもはるかに大事なことは、信仰が小さいがゆえに、恐れ、恐怖を抱き、あたふたする、その私たちの手を離さない主イエスがおられるということです。
 ペトロ以外の11人の弟子たちのことを思います。彼らはなぜ、仲間であるペトロに何も働きかけなかったのでしょうか。聖書には記されていません。ある弟子は、強風で立ち往生していますから、それどころではなかったかもしれません。つまり、自分のことで精一杯になってペトロのことまで考えられなかったのかもしれません。あるいは、沈みゆく者を助ける術がなかったとも言えるでしょう。またあるいは、無謀な挑戦をしたペトロの自己責任だと考えた弟子たちもいたかもしれません。
 ここ数年、自己責任という言葉を耳にするようになりました。自分でしたことの責任は自分で取るという考え方です。無謀な挑戦をしたペトロです。今の時代、このような挑戦をして沈みゆくような人を見かけたら、馬鹿にしたり、それこそ自己責任と捉える人もいることと思います。しかし聖書は、私たちの自己責任を問うことはありません。私たちは、自らの責任で自らを救うことを求められていません。私たちは、自らの責任を自ら負うことではなく、自らの責任を主イエスが負ってくださったことを教えられています。私たちの抱えた罪の負債を支払ってくださったのは主イエス・キリスト、しかも十字架の死でありました。自己責任を問われるのではありません。ペトロも、沈みゆくことを、「お前の責任だ」と問われたのではありませんでした。小さい信仰ゆえの彼の失敗を、主イエスは受け止め、主イエスがその責任を担い、彼を救われました。私たちの責任を主イエスが負ってくださいます。小さい信仰ゆえの失敗を、恐れを、主イエスは担ってくださるのです。

 そして、それだけではありません。この出来事を通して決定的に大切なことは、小さな信仰しかないペトロが、また他の弟子たちが、主イエスを「神の子」と告白したことです。小さな信仰しかないと言われたペトロが、また、ペトロを助けることができなかった弟子たちが、この出来事の後、主イエスを見て「神の子だ」と告白するのです。主イエスはペトロのつまずきを通して、信仰を育まれたのです。彼の無謀な挑戦ゆえの失敗、いや疑ったがゆえの失敗を用いて、彼の信仰を育まれました。信仰の教育をされたのです。

 私が夏期伝道実習をさせていただいたのは2004年で、14年前です。14年という歳月の中ではいろいろなことが変わります。午後にはその伝道報告をさせていただくのですが、14年の間に、私には二人の子供が授けられました。小学2 年生と1歳半の男の子です。親は大変だと感じながら生活しています。親として気をつけていること、それは、小さな怪我を恐れずに育てるということです。本当に二人ともよく怪我をします。一歳半でもでんぐり返しをしてハラハラしますが、見守りながら放っておきます。小学生の子は人との衝突で、心に傷を負って帰ってくることもあります。しかしそういう失敗、怪我、傷は、成長の段階ではとても大切であると感じています。もちろん、先回りして転ばないようにすることもありますが、それだけでは人は育たないと思います。
 言いたいことは何かというと、主イエスのなさった弟子への教育というものは、そういうものだったということです。つまずかないように、挫折しないように、怖いことが起きないようにするということもできます。今、私は高校の教員ですが、教育を考えるとき、様々な考え方があると思います。失敗をさせないことも教育かもしれません。それも一つでしょう。しかし、失敗から何を学ぶのか、失敗からどう立ち上がるのかと教えることもまた、教育だと感じています。
 今日、弟子たちがこのような経験をしたのは、22節にありますように、主イエスから「強いられて、舟に乗せられた」からでした。強いて向こう岸にいかせられた、だから、弟子たちは立ち往生しました。挫折しました。主イエスは、安全に、安心に弟子たちを教育なさったのではないのです。神の子である主イエスです。弟子たちが強風の中で困難を覚えることを承知で送り出されました。いえむしろ、挫折するように、つまずきを与えるように、無理やり強いて送り出したと、聖書は言うのです。そして実際、弟子たちはそこで困ってしまいました。
 特にペトロは湖に沈みそうになっています。「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」とペトロは言いました。「そんなことはしない方が良い」という人もいるでしょう。しかし、主イエスはそうはおっしゃいませんでした。「来なさい」とおっしゃいました。主イエスは、ペトロが沈むかもしれない、いや沈むことも十分承知で、信仰を持って進める無謀な挑戦を応援されたのです。

 日本の教会の将来を心配する声をしばしば耳にします。特に、青少年の世代が教会にいないという声を聞きます。私自身、キリスト教学校で仕えながら、最も力を入れて祈っていることは、高校生が教会に結びつき、主の枝となってほしいということです。そのためには、教会も挑戦しなければならないと思っています。信仰を持っての挑戦です。高校生の話を聞いていて、教会にはいろいろな形の挑戦があると感じています。そして、そういう信仰的な挑戦を、主イエスは応援してくださるお方だということを、ペトロの湖上の歩行の出来事は語っていると言えます。無謀だからやめておけ、無理だからやめなさいと、主イエスはおっしゃらないのです。信仰を持ってのチャレンジを、主イエスは喜んで助けてくださいます。私の知っている愛宕町教会の歩みが、まさにそうです。新たな挑戦をずっと続けて来られました。土地を拡げ、1000年後の教会のために木を植える。その背後には主イエスの応援があったと思うのです。もちろん、ペトロのように、挑戦することには失敗が伴うかもしれません。それでも信仰的な挑戦を主イエスは応援してくださるのです。そして大切なことは、その挑戦で、たとえ失敗したとしても、そこからまた主イエスの働きがあるということです。ペトロの挑戦が失敗したところに、主イエスのお働きがありました。

 私たちも、信仰生活をする中で、つまづき、失敗し、挫折を味わうことがあります。そのところに、主イエスからの教育があるのだと聖書は語るのです。これもある神学者の言葉ですが、「つまづくことに恐れることはない。むしろ恐れるべきは、湖の上を歩かせてくださいという信仰を失うことである」と言っています。彼が言いたかったことは何か。信仰的な挑戦を止めてはいけないということです。私たちはすぐに、失敗をするか、つまづくか、そのことばかりが気になりますが、この神学者が言うのは、そういうことを恐れることはないということです。恐れるべきは「湖の上を歩かせてください」という信仰を失くすことです。
 私たちは人間ですから、信仰においても仕事においても、生活においても失敗するものです。それを恐れるがゆえに、挑戦することも止めてしまうものです。しかしペトロはそうではなかった。小さい信仰と言われたペトロも、信仰的チャレンジをするのです。私たちには、そういった信仰が与えられています。周りの人からみると、一見無謀に見える挑戦を、主イエスは助けてくださるのです。そして、仮にその挑戦で失敗をしたとしても、その場で私たちの手を握って離さない方がおられる。「湖の上を歩かせてください」、そういう信仰を忘れたくないと思うのです。

 主イエスは弟子たちを、強いて、向こう岸に渡らせました。その時、主イエスは祈っておられたと、聖書は伝えています。何を祈っていたのか。それは分かりません。ただ、推測でしかないですけれども、主イエスは無理やり弟子たちを送り出したわけですから、全く弟子たちのことを考えていなかったとは言えないでしょう。無理やり弟子たちを送り出し、主イエスは山に登って何を祈っておられたのか。これから襲い来る強風に耐えられるようにと、主イエスは祈っておられたのではないでしょうか。主イエスは祈りの中で、確かに、弟子たちのことを覚えて祈っておられた。弟子たちの目には、主イエスは見えなくなっていたけれども、主イエスの祈りの中には弟子たちが確かにいたのです。私たちが困難な状況の中にあって悪戦苦闘している時、主イエスは私たちのことを思って祈っていてくださると、聖書は語っているのです。私たちの信仰の目が、もう主イエスを捕らえられなかったとしても、しかし主イエスは私たちを捕らえていてくださる。不安の風に煽られ、恐怖の波に飲まれそうな時でも、主イエスは確かに私たちを覚えていてくださる。そのことは、沈みゆくペトロの出来事にも記されています。「助けてください」と言ったペトロに対して、主イエスは「すぐに手を伸ばした」と、聖書は言います。ペトロが手を伸ばして捕まえたのではないのです。「すぐに手を伸ばして捕まえて」くださったのです。「すぐに」ということは、ペトロの目は風の方を向いていたけれども、主イエスはペトロをずっと見ておられたということです。ペトロが沈んでしまわないようにずっと見ておられた。私たちが困難な状況の中にあって悪戦苦闘しているときに、私たちの目が主イエスを見なかったとしても、主イエスはずっと見ていてくださる。すぐに私たちを捕らえてくださるために。
 親が子の挑戦を側で見ているように、主イエスは、ある種無謀な挑戦をする弟子のすぐ側で見ておられます。私たちの信仰的挑戦のすぐ側で、主イエスは私たちを確かに見ていてくださるのです。そして、そのつまづき、失敗、挫折を通して、私たちをまた教育してくださるお方なのです。

 神を信じていたら、一切の悪事は起こらない、そういうことはありません。いやむしろ、聖書は語ります。強いて舟に乗せる、そういう神であると言います。ここには強制があります。弟子たちの意思や、好みや希望に反して、無理やり舟に乗せる主イエスのご意思があります。私たちの生活の中にも、そのような自分の意思とは全く関係のない別の方の意思が働いて、自分の望んでいないことが起こることがあります。そして、その中で私たちは、あたふたし恐怖を覚え、小さい信仰ゆえに恐れを抱く。なぜこのような苦しみを与えるのか、なぜそのような困難が与えられるのか分からないことが、私たちにはいつも付きまといます。しかし、ペトロがそうであったように、その嵐の湖を超えて、初めて、ペトロが、弟子たちが、「本当にあなたは神の子です」と告白するように、私たちも、そういう経験を通して信仰的教育がなされるのです。
 私たちの意思や好みや希望通りに事が進むなら、そこでは、小さな人間の小さな計画の小さな結果しか生まれません。神に強いられて、自分の思いとは全く違う道を歩む中で、その歩みの中にこそ、また信仰的挑戦の中にこそ、神の教育、恵みがあります。
 嵐の中で、戸惑うことしかできない私たちです。小さな信仰の私たちです。疑いばかりの信仰生活です。それでも、いやそれだからこそ、その中で、十字架の死を負ってくださった主イエスが私たちの手を握り、私たちを覚えて祈り、見つめ、育んでくださっている大きな恵みを覚えたいと思うのです。「その信仰が、あなたにはある」、いや「信仰なき者に、神は、与えたもうた」のです。小さな信仰を卑下することはありません。小さな信仰しかない、それで十分だと聖書は言います。むしろ、神からいただいた信仰が、確かに、今、私たちの中に育まれていることを、互いに喜びたいと思います。
 嵐の只中に、風の音を切り裂いて、主イエスキリストの声が響きます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。だからこそ、私たちは舟をこぎだすことができます。

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