聖書のみことば
2018年7月
7月1日 7月8日 7月15日 7月22日 7月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

7月22日主日礼拝音声

 隅の親石
2018年7月第4主日礼拝 7月22日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第21章33〜46節

21章<33節>「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。<34節>さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。<35節>だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。<36節>また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。<37節>そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。<38節>農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』<39節>そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。<40節>さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」<41節>彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」<42節>イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』<43節>だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 <44節>この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」<45節>祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、<46節>イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

 ただ今、マタイによる福音書21章33節から46節までをご一緒にお聞きしました。33節に「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」とあります。「もう一つのたとえを聞きなさい」と言って主イエスが譬え話をしておられるのですが、実は今日のこの譬え話は、主イエスがなさった譬え話の中では大変珍しい形を持っていると、よく言われます。私たちはあまり文学的なことなど考えずに聖書の御言葉を聞きますが、文学者に言わせると、これは譬えは譬でも、寓話という形の譬えなのです。

 主イエスは、普段は、話の主題を考えさせ、そしておっしゃりたいことを考えさせる、そういう譬え話をなさいました。けれども、今日の話は寓話で、寓話というのは主題を考えさせるのではなく、置き換えのような話です。
 寓話の名手として、イソップという人がいます。イソップ童話集などを子供の頃に読んだ方も多いでしょう。そのイソップの寓話の中に「アリとキリギリス」のお話があります。今日のように暑い夏の日に、アリは一生懸命働いて荷物を運んでいます。ところがその傍でキリギリスは、毎日音楽を奏でて楽しく暮らしています。季節は移り、秋風が吹いて寒くなってくると、キリギリスは食べ物も無くなってきて心細くなり、アリのところへ行って、夏の間にアリが蓄えた食べ物を分けてもらおうとするのですが、アリはキリギリスが夏の間遊び暮らしていたことについてお説教をする、そういう話です。このお話はもちろん虫の話なのですが、実際に語られていることの中身は、毎日楽しく遊び暮らして何の蓄えもせず一生を棒に振ってしまう、そういう人間の愚かさを戒めるという話です。働ける時には少しでもコツコツと働いて蓄えておきなさいという教訓が、アリとキリギリスのお話の中にはあるのです。ですから、登場するアリもキリギリスも、実際の人間の、具体的な誰かなのです。その人の名前を当てはめてしまうと角が立ちますから、アリとキリギリスとして話されているのですが、実際には、話す方も聞く方も、実際の誰かの話をしているのだなと受け取る、それが寓話です。話の主題がどうかということではなく、架空の登場人物になぞらえて語っている、けれどもそれは実際に起こっていることが語られている、それが寓話なのです。寓話で語られると、虫なら虫の話として聞く場合もありますし、聞いている最中に、「これは自分への当てこすりだ」などと気づくと心穏やかではいられなくなるのです。

 そのような寓話を、主イエスが語られることは滅多にありません。多分、ここが唯一ですので、珍しいと思います。主イエスは今日の話を通して、これから起こることを予告しておられます。少し前から聞いていますが、主イエスの前に敵対する人たちがやって来て、「お前は何の権威でこんなことをしているのか」と問いましたけれど、これはそれに答えるような形の寓話にもなっています。
 今日のこの譬え話の中では、何が何を表しているのでしょうか。「ぶどう園の主人がぶどう園を作った」とありますが、「主人」は天地万物の造り主である神のことを表しています。その神からぶどう園を借り受けて、ぶどう園で収穫を上げようとする「農夫たち」は、祭司長たちやファリサイ派の人たち、律法学者や民の長老たちという、当時のユダヤ社会の指導層、あるいは彼らに導かれたイスラエルの人たち全体を表していると言われます。そういう農夫たちのところに主人が僕たちを送るのですが、「僕たち」とは、神がイスラエルの民に何度も送って御言葉を聞かせた預言者たちのことであり、そして、一番最後に送られて命を取られてしまった「跡取り息子」は誰かと言うと、主イエスを表すのです。ですから、この譬え話は実際の人たちに置き換えて読むことができます。そして、「今からこんなことが起こるのだよ」と、主イエスが人々に当てこすって話しておられる話なのです。
 ぶどう園の主人、つまり神は丹精を込めてぶどう園を作りました。この「ぶどう園」の受け止め方は難しく、二つの受け止め方があると思います。一つは、神がイスラエルの民のために与えてくださったイスラエルの国のことだと受け止めます。もう一つは、神がこの世界をお造りになったのだから、これは世界全体を表しているという受け止め方です。何れにしても、イスラエルの国あるいはもっと広く世界のどこであっても、そこを生活の場として与えられている人間一人一人が生きていけるように整えてくださった場所、それが「ぶどう園」です。主人は、「この中であなたたちは生きるのだよ」と言って、ぶどう園をそこで暮らす人たち、農夫たちに預けて、出かけたのです。そして、農夫は働き、収穫の季節になったので、「収穫を主人に納めるように」と僕が送られてくるのです。

 34節に「さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った」とあります。ユダヤの国からの収穫なのか、世界全体からの収穫なのかの判断が難しいので、取り敢えずそのまま聞きますが、とにかく神がご自分の民に収穫をお求めになるという話になっています。神が私たちのために世界を作り、そこで生きて良いと言ってこの世界を預けてくださっているのですが、私たちはそこで毎日楽しく喜んで生きているだけではなく、「収穫を納めるように」と言われているとすると、その収穫とは何かということになります。
 神が私たち人間にお求めになる収穫とは何なのかということを思いながら、もう一度このマタイによる福音書を初めから読み返してみますと、3章8節でバプテスマのヨハネがファリサイ派やサドカイ派の人たちに語っている言葉が目に止まります。「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。ここでヨハネが言っていることは、当時のイスラエルの人たちが、「自分たちはアブラハムの子孫、血筋だから、神の民なのだ。だから神が守ってくださる」と思っていたのに対して、ヨハネは「そうではない。血筋や家柄で神との繋がりが保証されているのではない。悔い改めに相応しい実を結んでいるかどうかが大事なのだ」と言い迫っているのが、この言葉です。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言って、「実を求める、収穫を求める」のです。
 そう考えますと、今日は21章を読んでいますが、数週間前に聞いた箇所で、朝早く主イエスがエリコからエルサレムに向かう途上で「いちじくの木」をご覧になって、そのいちじくの木に実がないために枯れてしまったという話がありました。同じようなことです。洗礼者ヨハネは、ユダヤの人たちの中に、「悔い改めて、『わたしは神さまに結びつけられ、支えられて生きています』というところから生まれてくる収穫、つまり実りがあるかどうかが大事である」と話しましたが、主イエスも、このいちじくの木の出来事によって「神に支えられて木が育っているのに、その恵みに応えようとしなければ枯れてしまうのだ」と語られました。
 神の御言葉は、ただの話として私たちの頭の上を通って行くだけではなくて、私たちがそれを受け止め、自分の中に留めたならば、私たちを根本から新しくして、私たちが生かされているこの地上の生活の中で実を結ぶことができるようになる、そういう実りをもたらす力ある言葉なのです。「悔い改めにふさわしい実を結べ」とヨハネは言いましたが、「悔い改める」というのは、「ごめんなさい」と言って反省のポーズをすることでもないし、神の前で立派さを見せることでもありません。そうではなく、「御言葉に支えられて生きていくようになる」ということです。神の御言葉に支えられるのでなければ、私たちは結局、一時は青々と盛んに見えても、最後には衰え枯れて滅んでいくより他なくなってしまうのです。いちじくの木のことがそれを表しています。神は、私たちが神に支えられて生きて、その人生の中で収穫が生まれるということを願われるのです。神は、「蒔かない所から刈り取る」というようなお方ではありません。神は御言葉を私たちに聞かせてくださって、私たちが支えられて生きることを通して豊かに喜んで、その人らしく生きることを望んでくださっているのです。

 今日の寓話に戻りますが、農夫たちが主人に収穫を差し出すようにと僕たちが送られてくるのですが、この僕たちが何をしているかというと、「神さまが御言葉をもってあなたを支えてくださっているのですよ。あなたの人生に実りをもたらしてくださるのだから、そういう神に支えられている在りようをあなた方も歩むべきだ」という勧めをするのです。ところが、農夫たちは、僕が言っていること、つまり「神に支えられているのだから、お返しするのだよ」ということが分からないのです。農夫たちは、神が日々を豊かに支えてくださっているということが分からなくて、それどころか、自分たちが作り出したものを神が奪おうとしていると思ってしまうのです。ですから、ここに言われていますように、僕つまり預言者を袋叩きにして殺すということが起こるのです。
 そして、神は、預言者を送って神のなさりようを伝えようとしても受け入れてもらえないので、とうとう一人息子を送ろうとなさいました。ご自身の跡取りで、たった一人の息子を送って、「どんなに農園の主人である神が農夫たちを深く顧みて支えているのか」ということを、この一人息子から親しく語らせようとするのです。ところが農夫たちは、この跡取り息子の言葉を聞いても、合点するどころか全く違うことを考えました。神が自分たちにこんなに豊かな農園を与えてくださっていることを認めようとしないで、これは自分たちの働きの結果だと思っていますから、跡取り息子さえ亡き者にしてしまえば、全てが自分たちのものになると考えて、跡取り息子を殺してしまうのです。主イエスがこの日お語りになった寓話は、そういう農夫たちの姿なのです。
 それは、神が日ごとに「豊かに生きられるように」と御言葉をかけてくださっているのに、そのことを認めようとしないで、自分の人生は自分の力、努力だけで成り立っていくものだと考えて、「自分の人生の中の豊かな収穫は全部自分のものなのだから、誰にも渡す必要はない」と考えている、そういう人間の姿なのです。

 主イエスは、そういう譬え話をなさった後で、その話を聞いていた人たちにお尋ねになりました。40節です。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」。それに対しての答えは41節です。「彼らは言った。『その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない』」。
 この返事を聞くと分かるのですが、主イエスからこの譬え話を聞かされた人たち、つまり祭司長たちやファリサイ派の人たちですが、彼らは寓話を聞かされているとは気づいていないのです。ただの作り話を聞かされていると思っています。もし、この寓話に自分たち自身が登場していると気づいたならば、こんな返事はできないでしょう。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」、神に背を向けている農夫とは、こう答えている人たち自身なのです。
 そして、このことは祭司長たちや律法学者たちだけが理解しなかったのではなく、今日ここでこの譬え話を聞いている私たち自身はどうなのかと問われることです。私たち自身も、もしかしたらこの寓話を受け止め損ねているということがあるかもしれません。

 今日の譬え話を、私たちは普段どのように受け止めているでしょうか。ある程度教会に通っている方なら、この譬え話は、「農夫たちは主イエスに敵対する人たちで、神の独り子である主イエスを殺してしまった」という寓話だと分かるのです。そして、そうだとすると、39節の言葉は「十字架」のことを言っていることになります。39節「そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」。
 私たちは普段、主イエスの十字架についてどのように考えているでしょうか。「主イエスの十字架によって、わたしは救われたのだ」と教会で教えられており、そう聞いています。けれども、ここでこの譬え話を聞いている人は、次に40節で「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と尋ねられています。そして答えは41節、「彼らは言った。『その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない』」と言っています。ここでは、主イエスが十字架に架けられ、それによって救いが起こるのではないのです。むしろ、主イエスを十字架に架けてしまった人の責任が大変厳しい形で問われて、その人たちは殺されて行くに違いない、そのように語られています。「十字架によって赦された」と思っている私たちが、十字架の出来事の責任を厳しく問われ、神と共に生きる生活の場であるぶどう園が取り上げられ、ほかの人の手に渡ってしまうなどとは、あまり考えないでしょう。ですから、今日のこの寓話は、私たちがもし間違えて聞いてしまえば、私たちが自分で自分に対して「放り出され殺されてしまうに違いない」と言ってしまうような話なのです。

 この話を聞いた人たちは「ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と返事をしました。「季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たち」というのは、どういう人たちでしょうか。これは、「ぶどう園」が、「神の民として生きることができる世界」を指していますから、「その中で、神の御言葉に励まされ、支えられて感謝して生き、そこから様々な実りを生んでその実りを神にお捧げして生きる」、そういう人たちのことです。
 私たちは、「神の御言葉がこの身に実現して、それに支えられて生きる」ということを望んでいるだけかというと、多くの人間はそうではありません。自分の思いが実現することを望んでいると思います。いつも言っていることですが、学校教育では、「あなたはどうなりたいのか」と尋ね、「そうなれるように、自己実現できるように頑張りましょう。そのために勉強しましょう」と教えることが多いのです。けれども、それは結局、この譬え話で言うと、農夫たちが志している在り方です。「人生は、自分の思いを実現させるステージだ」と思っているのです。「わたしが今日生きるために、命を与えてくださったお方がおられる」とか「わたしは、上なるお方に支えられて何とか生きている」とは、なかなか思いません。
 ですから、主イエスは、そのように私たちが神と切れた姿でいる様子をご覧になって、神と私たちの間を結ぶために来てくださったのです。

 今日の話の後半は、建物の話になっていきます。「隅の親石」という言葉が出て来ます。41節の人々の答えを聞いて、主イエスは違う話を始めます。42節「イエスは言われた。『聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」』」。「家を建てる者の捨てた石」という言い方で、主イエスはご自分が十字架につけられて殺されるという話をしておられるのです。
  ただ、「隅の親石」という言葉は、考えてみると不思議な言葉です。とても印象的な言葉で、口語訳では「隅の頭石」となっていました。「親石、頭石」というのは、石造建築物には無くてはならない大事な石のことです。石造建築物は土台の上に石を積み上げて造っていきます。石には、圧縮する力には強く引っ張られることには弱い性質があります。壁や柱を上に積み上げていくと段々グラつき倒れそうになり外側に倒れると崩れますから、内側にすぼめるように造っていくのです。そのすぼまった最後のところに置く石が親石です。一番上にあるので頭石と言うのです。そうしますとどう考えても、この石が隅にあるはずはありません。隅に親石があっても建物は建てられないのです。ですから「隅の親石」とは何を言っているかというと、全てを支える頭石であるべきものを家造り職人たちが放り捨ててしまったので、建物と関係のない場所に置かれたままになっているということです。ところが、そういう石が土台になっていく、それで「隅の親石」という言い方になるのです。
 親石は、家造り職人から捨てられてしまうのですが、しかし、捨てられた姿のままで建物全体を受け止めて、がっちりと建物を立たせていく、そういう働きをしていくのです。ですからこれは、建物の建て方を言っているのではありません。家造り職人たちに捨てられたキーストーンであるものが、顧みられないで捨てられた状態にある。しかしその状態のままで、新しい建物の土台になっていく。そういう話をしているのです。
 そしてこれは、「主イエスの十字架」のことを言っています。「主イエスが十字架にかけられる」、つまり当時のユダヤの宗教的な指導者たちからは「こんなものは要らない」と捨てられるのですが、のちに、捨てられたそのままの姿で「真実に大事なものである」ことが分かる。ですから、43節「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」という言葉になるのです。

 「季節ごとに実を結んで収穫を納める農夫」というのは、実は、この隅の親石から力を与えられて、それぞれの人生の中に収穫を生み出していくようになるのです。私たちは、毎週集まり聖書の御言葉を聞きますと、「なにかのヒラメキが与えられて自分の人生が良くなる、人生が成功して豊かになる」のかと言いますと、必ずしもそうでないかもしれません。私たちの人生は、「教会に行ったら何でも都合よく捗りました」ということであればご利益宗教になってしまいますから、それはキリスト教とは違うのです。私たちの人生は、皆一人一人違いますが、どなたの人生であっても、思うようにならないこと、苦しいことを持たざるを得ない、それが私たちの地上の人生なのです。一生上手く回っていく人生などないわけで、一人一人、形は違っても様々な問題を経験しながら、それでも私たちは生きていくのです。
 そういう私たちのために、本当はご自身が苦しむ必要などなかった神の独り子である主イエスがこの地上に来てくださり、私たちの間を歩んでくださって、それだけではなく、十字架につけられて殺されてしまうのです。真実に私たちを導くべきお方が、家造り職人から放り出されるように捨てられてしまう。ところが、そういうお方が、それでも神を指し示してくださっているので、私たちは、このお方から力をいただいて、「神さまが与えてくださっているこの命を、わたしは生きよう」と歩んでいくのです。
 そしてそれが、バプテスマのヨハネが人々に勧めた「悔い改め」です。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言われたときに、大方の人はどう思ったかというと、「自分の願った通り自分の思いが実現することが人生の意味なのだから、そこに向かって一生懸命生きて行こう」と思っていたのです。ところがヨハネは、「そういう生き方は、本当のあなたの人生からすると的外れなのだ」と語るのです。「本当のあなたの人生は、上手くいくためにあるのではない。そうではなく、いろいろな問題、困難を抱えるかもしれないけれど、あなたは神さまに愛されている存在として、そこに置かれているのだよ。だから、神さまにもう一度信頼して、神さまのものとして、今日ここから歩んでいくのだよ」。それが人生の向きを変える「悔い改め」ということです。「悔い改めて、本当に神に支えられている者としてふさわしい実りを、あなたの生活の中で実らせなさい」と、ヨハネは教えたのです。

 ですから、信仰というのは、自分の願い通りに人生が運んでいくために持つものではないのです。教会に通っていない方は、もしかすると、信仰というのは、自分の心が強くなるために持つものだと思っているかもしれません。けれども、私たちは、自分の心が強くなるとか、精神的なパワーアップのために信仰を持っているのではありません。そうではなく、私たちは信仰を持ったとしても、自分自身は相変わらず弱い者に止まります。欠けや弱さを抱えていますけれども、「それでも、わたしは神さまに愛されている者なのだ」ということを知らされるのです。自分が強くなるということではなく、「わたしを支えてくださっている方が、真に頼もしくわたしを生かそうとしてくださっている」、そのことを知って、元気を与えられ、慰め・勇気を与えられて、一人一人が自分の人生を生きていくようにされていくのです。

 人々から役に立たない石だと言って捨てられてしまったお方が、隅の方に追いやられながら、しかし親石となってくださっている。そして、私たち一人一人の人生をしっかりと受け止めてくださり、支えてくださって、「あなたは今日ここで生きて良いのだ」と言って下さっていることを信じて、私たちは、ここからもう一度歩み出したいと思います。
 そして、神が私たちに与えて下さっている一人一人の人生を、「今日与えられている様で精一杯に歩もう」と歩み、豊かに実りをつけ、感謝し、喜びながら、一日一日の生活を辿る者とされたいと願います。

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