聖書のみことば
2018年7月
7月1日 7月8日 7月15日 7月22日 7月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

7月15日主日礼拝音声

 父の望みどおりに
2018年7月第3主日礼拝 7月15日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第21章28〜32節

21章

<28節>「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。<29節>兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。<30節>弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。<31節>この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。<32節>なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 ただ今、マタイによる福音書21章28節から32節までをご一緒にお聞きしました。「兄と弟の譬え」と、よく言われる箇所です。私たちが今手にしている新共同訳聖書では、ぶどう園を手伝うように言われた二人の兄弟のうち、兄は最初は「嫌です」と答えたけれども後から考え直してぶどう園に行き、弟の方は「承知しました」と返事をしながら結局ぶどう園には行かなかったと語られています。つまりこの兄弟は、返事も正反対なら行動も正反対です。

 もしかすると、この話を聞いて、少し戸惑いを覚えた方がいらっしゃるかもしれません。今日読んだ新共同訳聖書では、「兄は、最初は拒否したけれども結局行った」と書いてあります。けれども実は、新共同訳聖書の前に愛宕町教会でも使っていた口語訳聖書では、兄と弟の返事と行動が全く入れ違えて語られていました。因みに、口語訳では、「あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた」となっています。丸っ切りあべこべですが、これは口語訳聖書だけではなく、口語訳聖書の前に使われていた文語訳聖書でもそうでした。文語訳では、「なんぢら如何に思ふか、或人ふたりの子ありしが、その兄にゆきて言ふ「子よ、今日、葡萄園に往きて働け」答へて「主よ、我ゆかん」と言ひて終に往かず。また弟にゆきて同じやうに言ひしに、答へて「往かじ」と言ひたれど、後くいて往きたり」となっています。文語訳でも口語訳でも、最終的にぶどう園に行って働いたのは弟だったと語っています。ところが新共同訳では兄の方が働きに行ったことになっていますから、文語訳や口語訳で読み慣れ、また説教も聞いておられた方の中に、ご自分の記憶違いだったかと思われた方もいるかと思い、敢えてこのお話をいたしました。

 では、どうしてこのように入れ替わってしまったのでしょうか。これはどちらが正しいかということではありません。聖書はもともと、印刷技術も無かった時代から手書きで書き写されて来ました。その手書きの写本に、二つの話が伝えられているのです。兄と弟が入れ替わっている、そういう聖書が二つ存在するのです。そのことに気づいて、聖書の研究者たちは、なるべく古い写本に遡ろうとします。写本には時代時代の様式がありますので、書かれた時代を知ることができるのです。それで、原本は失われていますので、原本に近い古い写本を探すのですが、この箇所は、その古い写本にも二通りの話があって、どちらとも言い難い、はっきりしない箇所なのです。
 ですから、細かな議論は種々あるのですが、まず新共同訳聖書の記述の立場を取る人たちがどう考えるかと言いますと、ここでもし、最初に出てくる兄が「行きます」と答えたとすると、父親はわざわざまた弟のところに行って「ぶどう園に行ってくれ」と言うだろうかと考えるのです。兄が行ってくれるのであれば弟に頼む必要はないのだから、そう考えると、やはり兄は断ったのだろうと考える、それで今日読んだ箇所では、「兄は行かないと言った。また弟に同じことを頼んだら行くと言った。けれども結局行ったのは兄だった」という書き方になっていて、この方が話の筋としては通ると考えているのです。
 けれども、文語訳や口語訳の解釈もあります。つまり、2種類の写本があるということは、オリジナルだった話が「まさか、そんなことはないだろう」というような話の筋だったということです。つまり、兄が行くと返事をしたのに、父親が弟にも同じことを言ったというのは不自然です。父親が兄を信用していなかったということになります。人は、不自然な方から自然な方へと間違っていきますから、書き写していく間に、誰かが「いかにもこれでは不自然だから」と言って、直してしまったのでしょう。それで「兄は行かないと言ったので、弟に頼むと、行くと言った。けれども実際に行ったのは兄だった」という話に変わって行った。つまり、文語訳や口語訳が元々の話だったという解釈です。
 今、私たちにはどちらの解釈も知らされていますので、どちらが正しいとも言えません。けれども、このように二つの解釈があるということ、それゆえに、それぞれの解釈で説教を聞かされるということがあることを覚えていただきたいと思います。

 さて、今日は新共同訳聖書での解釈でお話をします。もう一つの解釈も大変気になるところですが、しかし、主イエスがおっしゃったことの本筋は何かと考えますと、兄の方が偉いとか弟の方が偉いというようなことではないと思います。「二人の兄弟がいて、一人は行かないと言ったけれども行った、一人は行くと言ったけれども行かなかった」、そういう話だと受け止めたいと思います。
 では、主イエスがこの譬え話を聞いている人たちにおっしゃりたいことは何でしょうか。この譬え話を挟んで、主イエスは二つの質問をしておられます。28節、3                1節です。まず28節には「ところで、あなたたちはどう思うか」、31節には「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」とあり、兄と弟の話はこの二つの問いかけの間に置かれているのです。主イエスが問題にしておられるのはこのことです。
 「どう思うか」と問われていますが、内容を考えますと、どちらの答えも有り得るとは、あまり考えられないと思います。よっぽどへそ曲りでなく、素直な人であれば、大方同じ答えをするでしょう。つまり、「最初は嫌だと言ったけれど、後から考え直してぶどう園に行った方が、父親の望みどおりにした」という答えです。主イエスは、あらかじめ答えが予測できる問いをしておられるのです。大事なことは「兄弟のうちのどちらが父親の望みどおりにしたか」ということであって、兄弟それぞれの気持ちがどうだったかというようなことではありません。父親の望みに対して、どういうありようだったかと問われていますので、答えは望みに応えた「兄の方です」ということになるのです。
 このことを通して語られていることがあります。それは、「信仰」というのは、口先だけのことではないということです。あるいはまた、「信仰」というのは、心の中の事柄でもないのです。
 主イエスは尋ねておられます。「父親が、あなたにぶどう園で働いて欲しいと頼んだのだ。その父親の望みどおりにしたのはどちらか」。つまり、「信仰というのは、結局、その人がどう生きるのか、生き方のありようである」と言っておられるのです。「あなたはどう生きていくのか。信仰とは、生活の事柄なのだよ」と教えておられるのです。
 もしかすると、今ここにいる私たちは、それぞれにいろいろな事情を抱えているかもしれないと思います。思うようにならない悩み事があり、辛い中を今日ここにやって来たという方や、健康上の問題を抱えて不自由さの中で生活している方もいらっしゃるかもしれません。そのような状況にあると、私たちは本当に嫌だと思い、時には、こんな人生にどんな意味があるのかと考えてしまうことがあるかもしれません。けれども、たとえ私たちが自分の人生についてどのような感想を持とうとも、はっきりしていることは、その時に私たちは、「与えられている今日の人生を生きている」ということです。私たちが生きている今日の人生というのは、神が一人一人に手渡してくださっているものなのです。「あなたは、今日ここで生きてよいのだよ。あなたに今与えられているそのままの姿で。もちろん、それはあなたが思い描いている姿ではないかもしれないけれど、しかしたとえそうであっても、あなたは生きてよいのだ」と言って、人生を手渡してくださり、今日の日を与えてくださっているのです。
 そして、信仰というのは、そのようにして与えられている今日の人生をどう生きていくかというところにあるのです。信仰というのは、「私たちがどう生きるか」という、生活の事柄なのです。

 この説教の準備のために注解書や説教集を読んでいたのですが、その中で、ある人がこの箇所の説教で大変鋭いことを語っていました。「信仰とは何か。それは、あなたが神さまの欲する生き方をするかどうかだ。もしかすると、あなたは普段そんなことを思っていないかもしれない。信仰生活とは、神さまの言葉を聞いてそれを参考にして生きていくことだと、その程度に考えてはいないか? つまり、神さまの言葉を教会で聞いて、その言葉どおりに生きたら自分の人生はどんなに良くなるだろうか、どれほどのプラスがあるだろうかと思いながら教会に来ているのではないか? そういう場合には、説教は自分にとって信じたらどんなプラスがあるのか、プラスな点を教えて欲しいと思って聞くのであり、それに納得できたら神を信じて生きてみようと考えるかもしれない。あなたは、そういうあり方が信仰生活だと思っていないか? 神さまとの間柄とは、本当にそういうものなのか?」と語るのです。「神と人間との間柄は、神の言葉を人間が聞いて、そして最終的に『わたしはそれに従ってみよう』とか、『あまり役に立たなそうだからやめよう』とか、人間の側に決定権があるような間柄なのか。それは違うでしょう。信仰生活をするという場合、その信仰生活の基準はどこにあるのか。あなたが願っていたり思っていることを聞かせてもらえるとか、あなたの損得勘定に基準があるのではない。そうではなくて、『あなたに出会ってくださっている神さまの御旨であれば、それに従って生きる』、それが信仰の人生であるはずだ。だから時には、厳しい現実だと思うことがあるかもしれない。神さまはどうしてわたしにこんな人生をお与えになるのか、辛くて仕方ないという思いを抱くことがあるかもしれないけれど、それでもやはり、あなたは、『神さまはわたしに何を望んでおられるのか』ということを基準にし、そのことに思いを集中して生きていくこと、それが信仰生活であるはずだ」と語っていました。これは大変鋭い指摘だと、わたしは思いました。
 ただ、もちろんこれは、私たちがいたずらに自分を追い込んだらよいというようなものではないと思います。神は私たち一人ひとりのことを本当に深く御心に留めてくださっていて、私たちが真実に生きる者となるために導いてくださっています。ですから、私たちが自分で自分を傷つけたり痛めつけたりするのは、神の御心ではないのです。
 そうなのですが、しかし、やはり私たちは、今日の聖書の箇所を聞いて、主イエスが尋ねておられる問いかけには、よく耳を澄ませなければならないと思います。「あなたたちはどう思うか。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」。主イエスはこう問いかけながら、実は、目の前にいた人たちだけではなく、聖書を開くすべての人に向かってお尋ねになっているのではないでしょうか。「あなたはどうか。あなたは父の望みどおりに生きているか? 生きようとしているか?」と、私たちも問いかけられています。

 さて、今日の箇所の主イエスの譬え話は、兄と弟とが入れ替わって記述されている場合があるのだと最初に申し上げました。それだけでも十分に面倒臭い箇所なのですが、実はもう一つ、ややこしいところがあります。もう一つ、入れ替わっているところがあるのです。
 それは、主イエスに尋ねられた人たちの答えです。新共同訳ですと、大変素直な返事で、31節に「彼らが『兄の方です』と言うと」と書かれています。ところが、そうではない答えをしたと書かれている写本もあるのです。大方の写本は、「初めは反発したけれど、後から考え直した息子の方が、父の望みどおりにしたのだ」と言っています。ところが、中に幾つか逆の答えをしたと書いてある写本が存在するのです。つまり「父に対して最初は行儀よく答えたけれど結局は行かなかった、そちらの息子の方が父の望みどおりにした」と書いてある写本もあるのです。これはどう考えても理屈に合わない返事ですが、それでもそう書いてあるのです。
 これはどう解釈するのでしょうか。主イエスに「どう思うか」と尋ねられている人たちは誰かというと、この前の箇所に出て来た、主イエスの権威の在り処を問題にして神殿の中庭にやって来た祭司長たちや民の長老たちです。彼らは主イエスに、権威について尋ねましたが、今日は逆に、主イエスが尋ねておられるのです。ですから、尋ねられている人たちは、主イエスのことを快く思っていない人たち、実際に数日後には主イエスを逮捕する、そういう人たちです。そういう人たちに向かって主イエスは、答えが誰にでも明らかな質問をされたのですが、あまりにも答えが明らかであるために、彼らは、「この問いには何か裏があるのではないか」、そして主イエスに対して暗い思いを抱いていますから、「真正面から答えたら足をすくわれてしまうのではないか」と身構えて、わざと逆の答えをしたのだろうと考える、これも古くからある解釈なのです。

 ですから、問いにもまた答えにも二通りあって、どちらが本当かは分からないのですが、大切なことは、この答えに対して、更に主イエスがおっしゃっている言葉です。31節後半から32節にかけて語られています。この主イエスの言葉には、揺らぎがありません。あべこべになってしまうようなことはないのです。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった』」とあります。これは、すべての写本が一致している主イエスの言葉です。
 主イエスは「はっきり言っておく」という言葉で話を切り出しておられますが、これは、主イエスが本当に大事なことを伝えようとなさるときに使われる前置きのような言葉、いわば主イエスの口癖のような言葉です。主イエスがとても大事なことだとおっしゃったことは何でしょうか。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」とおっしゃっています。「祭司長や民の長老たち、ファリサイ派の人たちや律法学者たちよりも、徴税人や娼婦たちの方が先に神の国に入る」ということです。これは原文でみると、未来形ではなく現在形の言い方です。ですから厳密に言えば「神の国に入るだろう」ではなく「今既に神の国に入っている」とおっしゃっているのです。
 主イエスがここで、目の前にいる祭司長たちや長老たちに対して引き合いに出した徴税人や娼婦たちというのは、主イエスの時代には、とても神の国を受け継ぐなどとは考えられないと思われていた人たちです。天の国に誰が入ったとしても、この人たちだけは決して入れない人たちとして挙げられていたのが徴税人や娼婦たちです。ところが主イエスは、そういう人たちがもう既に神の国に入っているとおっしゃっているのです。
 祭司長や民の長老たち、ファリサイ派の人たちや律法学者たちというのは、当時の普通の考え方からすると、「まさにこの人たちこそ、神さまに一番近い人たち」でした。祭司長は、神殿で礼拝を捧げる、その頂点にいる人です。全イスラエルの人々の罪を贖うために動物の生贄を捧げて執り成しの祈りをする役割をしてくれているのが祭司長たちです。ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、神の言葉をよく学び理解していて、神の御心がどこにあるのかを説き明かしてくれる人たちです。ですから彼らは、一般の人よりも神の事柄をよく弁えていて神に近いと思われていた人たちです。そして彼らは、自分たち自身でもそう思っていました。そういう人たちに向かって、主イエスは「はっきり言っておく」と言って、「あなたたちは、まだ神の国に入っていない。けれども、徴税人や娼婦たちは、もう神の国に入っている」と言い放ったのです。この言葉を聞いていた人たちには、大変ショッキングな言葉だったと思います。

 ここで大事なことは、なぜ主イエスがこのようなことをおっしゃったかということです。ただ闇雲に、偉そうにしている祭司長たちを嫌って、ということではありません。理由は32節でおっしゃっています。「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。どうして徴税人や娼婦たちが神の国に入っているのか。それは「ヨハネが示した道を信じた」からです。
 ここで洗礼者ヨハネが引き合いに出されます。この前の箇所でも、主イエスはバプテスマのヨハネのことを気にしておられ、「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、人からのものだったか、どう思うか」と尋ねられました。
 ヨハネはどういう人だったでしょうか。ヨハネは人々に神の国を伝え、悔い改めて洗礼を受けるように勧めた人でした。その際ヨハネは、「あなたは神の民の一員であるけれど、それはあなたの生まれ、血筋によるのではない」と教えました。当時のユダヤ人は、「自分たちはアブラハムの子孫だから、アブラハムの血を受け継いでいるから、神さまに覚えられているはずだ」と思っていました。ところがヨハネは、「それは違う。血を受け継いでいたとしても、実際に神さまに従っていなければ神の民の一員であるはずがない。神さまの御言葉を聞き、御言葉に従って行こうと決心して生きていく、そのあり方こそが大事なのだ。もしわたしの言葉を聞いて、そう決心したならば、その決心のしるしとして洗礼を受けるように」と人々に宣べ伝え、洗礼を授けていたのです。
 そして更に、「わたしは水で洗礼を授けている。けれども、わたしの後から、本当に力ある方がお出でになる。その方は、水で洗礼を授けるのではなく、聖霊と火で洗礼を授けることがおできになる」と言いました。「聖霊」は神の霊であり、「火」は様々な試練や困難を指すのですが、「神さまの力によって、あなたが本当に神さまに従えるようにしてくださる。そして辛いこと苦しいことがあったとしても、それでも神の力が働いて、あなたが神のものとして生きていくことができるようにしてくださる。そういう洗礼を授けることができるお方が、わたしの後から来られるのだよ」と伝えたのです。そして、そのようにして宣べ伝えられたお方、ヨハネの後から来られたお方、それが主イエスでした。

 主イエスはここで、かつてヨハネが宣べ伝えたことを、「ヨハネが来て義の道を示したのに」とおっしゃいました。そして、「徴税人や娼婦たちは、ヨハネの招きを聞いて、今からは自分中心ではなく神の御心に従って生きて行こうと決心して、新しい生活に歩み出している。だから彼らは、神の国の支配のもと、神の国に既に生きているのだ」とおっしゃったのです。
 「確かにこれまで、彼らは、徴税人としてユダヤの同胞から税金を巻き上げていたかもしれないし、娼婦として決して褒められた生活をして来なかったかもしれない。けれども、過去のことではないのだ。問題なのは、今、あなたが神の御心に従って生きるかどうかだ。あなたも、今ここで悔い改めたら、これからは神さまのものとして生きていけるのだから、そのことを信じてここから新しく生きていきなさい」と、主イエスは教えられました。実際に、主イエスの弟子の中には、徴税人だったマタイ、ザアカイがおり、また、罪の女と言われたマグダラのマリアがいて、彼らは主イエスに信頼して、主イエスの言葉に聞きながら、主イエスに従って生活していたのです。
 主イエスは、神殿の当局者たちに向かって「あなたたちは、神さまの言葉を聞いても悔い改めようとせず、自分たちは既に神の民だから大丈夫だと言ってヨハネの言葉を聞き入れなかった。けれども、実際に神さまの言葉を聞いて悔い改めて生きようとしている人がここにいるのだ。そして、この人たちは神の国に入れられた者なのだ」と教えられました。

 今日のこの箇所から、ここにいる私たちに聞こえて来ることは何でしょうか。それは、私たちにも呼びかけられている「悔い改めへの招き」ではないかと思います。
 今日の譬え話を思い返したいのです。父親から「ぶどう園に行って働いてくれないか。わたしのものとして生きてみないか」と呼びかけられた時に、最初は「嫌です」と返事をした息子がいました。けれども、その息子は後から考え直して、「やっぱりお父さんの言うようにしてみよう」と思いました。そして、その人が父の望みどおりに従った人だと言われています。
 私たちは、今まで生きてきた人生の中で、神の呼びかけを聞かされてきたかもしれません。そして、私たちはそれに答えようとして上手くいかなかったという思いを持っているかもしれません。けれども、そんな私たちに神は呼びかけてくださっているのです。「あなたは今からぶどう園に行って働いてくれないか。あなたが生きていくこれからの人生は、わたしのぶどう園で働くという人生なのだ。わたしのぶどう園で、わたしの育てた実りを味わいながら、あなたはそこで力づけられて歩んで行きなさい」と招いてくださっているのです。

 「わたしはどうしても、神さまのことを忘れてしまいます。ごめんなさい」と、私たちは度々祈りますが、忘れてしまったとしても、大事なことは、忘れてしまったことを問われているということではなく、「そういう私たちが、今、呼ばれている」ということなのです。「子よ、わたしのぶどう園で働かないか」と招かれていることが大事なことなのです。そして、「私たちに与えられているこれからの命、今からの地上の生活が、神に覚えられ、神の御心に従って生きる生活となるようにと招かれているのだ」と弁えることが何より大事なことなのです。
 私たちは、これまで何度も神を忘れてしまいましたから、過去の自分を見てしまうと「これからも忘れてしまうに違いない」という不安に立ちますが、しかし、「大丈夫。わたしの民として、あなたがわたしを忘れることのないように導いてあげるから、わたしの言葉を聞いて、わたしの民として生きて行きなさい。あなたには、今からわたしが一緒に生きていくという道が備えられているのだよ」という招きの言葉で、神が呼びかけてくださっていることを覚えたいと思います。
 主イエスを通して、私たちが神に伴われている生活へと招かれていることを感謝して、ここから歩み出したいと願います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ