聖書のみことば
2018年7月
7月1日 7月8日 7月15日 7月22日 7月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月8日主日礼拝音声

 わからない
2018年7月第2主日礼拝 7月8日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第21章23〜27節

21章<23節>イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」<24節>イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。<25節>ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。<26節>『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」<27節>そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 ただ今、マタイによる福音書21章23節から27節までをご一緒にお聞きしました。23節「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、」と始まっています。ここには「神殿の境内」とだけありますが、もう少し正確には、神殿の建物の前に広がっていた前庭、通常、異邦人の庭と言われていた場所だっただろうと言われています。もともとそこは、異邦人だった人たちが神を信じる信仰を与えられ改宗して、神殿に来て礼拝を捧げるための場所でした。ところが、その礼拝の場所であるはずの場に、神殿で献げ物にする動物を売る売店とか、神殿で献げるためのお金を献金用のシェケル硬貨にするための両替所などが立ち並んでしまって、礼拝の場所というよりは、むしろ市場のような雑踏の場になっていました。主イエスは、その様子をご覧になって、礼拝を捧げる場所として相応しく整えていかれました。今日の箇所の前に語られていた「宮清め」の出来事が起こった場所です。
 宮清めは、今日の箇所の前日の出来事ですので、この日はおそらく、商売の露店も両替所もなくなっていて、礼拝を捧げることができる静けさが保たれていたことだろうと思います。主イエスは、そういう場所に行かれて、人々に、神の御国、神の御支配の訪れを宣べ伝えておられました。
 そういう主イエスの前に立ちはだかった人がいたと言われています。「祭司長や民の長老たち」と言われています。原文では、祭司長も複数形です。この人たちは、エルサレムの最高法院、サンへドリンと言いますが、その議会を構成する議員たちです。今日の日本にはこのような場所はありませんので、この人たちがどういう人たちかを思い浮かべるのは難しいのですが、最高法院は、宗教的な問題と世俗的な問題の両方を取り扱った議会であると辞書などには説明されています。ですから、国会であり同時に最高裁判所も兼ねている場所と言ってよいと思います。そして、ここでは議員ではなく長老たちと言われていますから、言ってみれば、最高法院の議長団のような人たちです。つまり、当時のエルサレムを代表するような人たちが、連れ立って主イエスの前に現れたのです。
 このような人たちが連れ立って、異邦人の庭までやって来るということは、普通の出来事ではありません。むしろ異例の出来事と言ってよいと思います。彼らは神殿で教えておられた主イエスのところに来て、ある質問を投げかけました。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」。祭司長や民の長老たちが問題にした「このようなこと」とは何か。これは、一つのことではなく、様々なことを指していると思います。
 一番最初のことは、二日ほど前のことですが、主イエスが大勢の群衆の歓呼の声に迎えられてエルサレムにお入りになった、そこから後の一連の出来事を全て「このようなこと」と言っているのだと思います。主イエスがエルサレムに入られるときに、大勢の群衆が「ホサナ」と言って出迎えました。そして、マタイによる福音書だとその日の午後、他の福音書だと次の日だと書かれていますが、主イエスが宮清めと言われる大立ち回りを演じ、そして今、その神殿の境内で教えておられる、この一連のことが「これらのこと」です。最高法院の主だった人たちにとって、それは、決して歓迎できない、面白くないことでした。どうしてでしょうか。
 宮清めの出来事の時、異邦人の庭に立ち並んでいた露天は、「アンナスの店」と言われていました。アンナスというのは、大祭司の名前です。つまり、神殿の境内で献げ物のための動物が売られていた、その収入の上前を大祭司が撥ねていました。今日風に言えば、一つの利権構造があったのです。主イエスは、礼拝を整えるためにその店を全て破壊しましたから、それは祭司長たちの利権が著しく損なわれるということになったのです。
 それだけではなく、主イエスを大勢の人が「ダビデの子にホサナ」と言って出迎えたことです。「ダビデの子」はイスラエルとユダヤの王ですから、王の子孫であり、「ホサナ」というのは「今、わたしたちをお救いください」という意味ですから、群衆が主イエスに大変期待して、「わたしたちの王になってください。そしてわたしたちをローマ帝国の支配から救ってください」と叫んでいたということになります。ところが、これはサンヘドリンの主だった人たちにとっては大変都合の悪いことです。なぜかというと、実際には、今、ユダヤの上にはローマ帝国があり、ローマ帝国の属国としてユダヤの国があり、そして、祭司長も長老たちも、その中で自分たちの地位を認められ与えられているのです。そのように彼らが治めているはずのユダヤの国で、民衆が真の王を求めて叫んでいるのですから、そこで暴動でも起これば大変なことになってしまいます。彼らにはユダヤの国に対する統治能力が無いと見なされてしまいますから、そうするとローマ皇帝から見限られ、首をすげ替えられてしまうようなことにもなりかねません。そういう恐れがあったので、異例なことではありますが、ここで祭司長や長老たちが出向いてきて、主イエスを問い詰めるということが起こっているのです。

 ですから、ここで行われていることは、ただの会話のようですが、実は事態は大変緊迫しているということを表しています。彼らは都の状況を視察しに来たのということではなく、噂に聞いた通り神殿の中庭にあった露店や両替所が取り払われてしまったのかを確認する、またそれを行ったナザレのイエスという若いラビの顔をしっかりと瞼に焼き付ける、そして更には、このラビの落ち度を見つけて捕らえ闇に葬り去ろう、そういう魂胆を持って主イエスの前にやって来て問いかけるのです。主イエスがエルサレムに入ってからなさった一切合切のこと、それを問題にして「あなたは一体、何の権威で、そんなことをするのか」と尋ねているのです。
 「何の権威で」というのは、もう少し丁寧に言葉を補って訳すと、「どんな類の権威によるのか」ということです。「権威」と一言で言っても、いろいろな種類の権威があるのです。神殿ですから、もちろん、基本的には神に由来する権威があるということは当たり前のことですが、中にはこの世の権力者に由来する権威ということもあるかもしれませんし、もしかすると神に逆らうサタンによって与えられている権威というものもあるかも知れません。

 主イエスの前にやって来た祭司長たち、長老たちというのは、最高法院という場所の議員として、形の上では「神に立てられた」という権威を持っていて、またそう振る舞っています。けれども、この人たちの権威の源は、ローマ帝国の武力を背景としているのです。ですからそれは、厳密に言うと権威ではなく権力です。刀と槍の力に守られているのです。
 人々がひれ伏す力には色々あります。神の力である場合には、本当にそうだと思って喜んでひれ伏すのです。けれども、人々がひれ伏すのは神の力によるだけではないのです。人間の権力によって無理やり頭を下げさせられるということも起こり得るのです。本心ではなく嫌々ながら、という場合があります。神に従うことによって力を与えられているときには、神が全てを治めてくださると信頼していられるのですが、人間の権力によって頭を下げさせている場合には、そうはいきません。形の上で頭は下げていても、お腹の中では、頭を下げていることに素直な気持ちではありませんから、そういう場合には、権威を持っていると言いながら、権力を持っている人は大変不安な気持ちなのです。相手がいつ本性を現し牙を剥いてくるか分からないからです。祭司長たちや長老たちはいかにも威厳がありそうに振る舞っていますが、その支えはこの世の力によりますので、今日の箇所の後半で、彼らが実際に、大変な恐れ、不安を抱いたことが語られています。

 その前にまずは、「何の権威か」と問われた主イエスのお答えの方から見て行きたいと思います。ここは大変印象的です。主イエスは質問されたことに対して、まっすぐに答えるのではなく、逆に質問を返しておられます。24節25節「イエスはお答えになった。『では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか』」。これは問われたことに対する答えでしょうか。まるで違うことを尋ねて、相手を煙に巻いてしまおうとしているのではないかと思うほどです。実際に、こう問われた祭司長や長老たちは大変混乱して、最終的に話がうやむやに終わっているような印象を受けます。わざと主イエスは答えにくいような問いを出して、論争を中断させようとしているのではないかと思われるかも知れません。けれども、そうではありません。実は主イエスは、尋ねられている事柄に対して、実に真剣に向き合って答えようとしておられます。
 「何の権威でこのようなことをしたのか」と問われて、主イエスは、ただ単に情報として正しいことを言えばよいとは思っておられません。もし主イエスが単純に答えるとすれば、「天の父の権威でしたことだ。これは神さまの権威によるのだ」とお答えになるでしょう。ところが、「これは神の権威によって行われている」というときには、事柄が神に関わっていることですから、ただ単純に情報だけを伝えれば終わりというわけにはいきません。それは神が相手だからです。神の御前に出る時には、私たち人間は、神を礼拝する、神を拝むということが本来のあるべき姿です。しかし、ここでの祭司長たちの姿勢はどうだったでしょうか。彼らは最初から、主イエスを捕らえて闇に葬りたいという暗い思いを持っています。自分たちの利権を損なわせてしまった若いラビの落ち度を見つけてやろうと思って質問しているのです。
 ただ、宮清めで商売の邪魔をされたことに腹を立てているからと言って、それを理由にして主イエスを捕らえることはできません。それは、主イエスが商売敵で店を潰したからではないからです。ここは元々礼拝の場所ですから、「お店が立ち並んでいるのは相応しいことではない」と、主イエスは正論を持ってお店を片づけられたわけですから、そうしますと、大祭司たちが主イエスを捕らえるためには、それなりの大義名分を必要とするのです。何も理由がないのに主イエスを捕らえたりすると、腹立ち紛れにしたことだという噂が広まってしまいますから、何か口実を得たいと思って、「何の権威でこのようなことをしたのか」と問うたのです。ですからこの問いは、真相を知りたいというような問いではありません。何とかして主イエスのボロを引き出して、捕らえる口実を得たいための問いですから、そういう人たちに向かって、ここで主イエスが「神の権威による」と言ったところで、素直に受け止めるかどうかが問題です。「ああ、そうですか」と素直に受け止めるとは、とても思えない状況です。
 ここでの問題は、神に関する事柄がここで起こっているにも拘らず、祭司長や長老たちは、自分たちの側が、ここで起こった出来事の最終決定権を持っている、裁判官の席についていると思っているところにあります。神の事柄が起っているところでは、人は皆、膝を屈めて礼拝しなければならないはずなのに、「その出来事について正しいかどうかは、わたしが判断する」と思っている、そういう人たちの高慢さを、主イエスは見抜いておられるのです。そして、何とかして、「今は高慢になっている人たちだけれど、彼らが『自分たちは神の御前に立っている、神の権威のもとにある』ということに気づくことができるような道がないか」と考えておられるのです。「何の権威か」を、彼らが自分で答えに辿り着けるように願って返事をしておられる、それが25節の言葉です。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」

 ヨハネという言葉が出てくるのは、いかにも唐突に聞こえるかもしれませんが、実際には大変真っ当なことです。ヨハネとはどのような人だったかを思い出してみると分かります。ヨハネは主イエスの道備えをした人です。自分の後に、本当の救い主が来られるということを人々に告げ知らせていたのがヨハネです。マタイによる福音書によれば、3章11節でヨハネは言っています。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。こう答えたヨハネという人は、大変目覚ましい働きをした人です。当時ユダヤに暮らしていた人であれば、ヨハネの教え、ヨハネが悔い改めを迫って洗礼を受けるようにと導く活動をしていたということは、どんな人でも知っていた、そういう人物です。もちろん、祭司長たちや長老たちも伝え聞いて知っていました。ヨハネは言っています。「あなたたちは、今、わたしに注目しているけれど、わたしより後から来る方はわたしより優れておられる。わたしはこの方の足元にも及ばない。わたしが今やっていることは、あなたがたが神さまを中心に生きるように悔い改めて、その印として水で洗礼を授けることだ。けれども、わたしの後から来る方は、形だけの水の洗礼ではなく、聖霊によってあなたがたを新しくすることがおできになる方だ。だから、大事なのはこの方なのだ」と、ヨハネは人々に伝えました。
 それで、ここで主イエスは「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか」と問われました。「ヨハネが熱心に伝えていたことを思い出しなさい。あれは、神さまがヨハネの背後におられて、あなたがたに語っておられたこと、天からのことなのか。それとも、ヨハネが自分勝手に人々に対して偉そうに振舞いたいために自分で言っていた、つまり人からのものなのか。どちらだと思うか」と聞いておられるのです。どうしてこんなことをおっしゃったのでしょうか。
 もし、ヨハネの背後に神がいらっしゃると信じて受け入れるならば、ヨハネが宣べ伝えたように、「ヨハネの後から来る者とは、わたしのことだ」と、主イエスは答えることができます。そして、ヨハネが神のことを宣べ伝えたのだと信じるならば、当然、ヨハネの後から来る方も、神からのものだと考えることができるのですから、「何の権威でこのことが起こったのか」ということは、「ヨハネが伝えた通り、神さまによることだ。わたしは神の権威によってここに来て、こうしているのだ」と全部、辻褄が合うのです。
 主イエスは、主イエスがエルサレムに歓呼の声と共に迎えられたこと、宮清めの出来事や、神殿で神の御支配について教えておられること、その一切のことが「父なる神の権威によることなのだ」と、口先だけではなく、「あなたがたは実際に信じなければならないよ」と教えておられるのです。
 「ヨハネのあの出来事は誰の権威によってのことだと思っているのか」と、主イエスが語りかけておられる人々は、主イエスを邪魔者にして始末したいと思っている、そういう人たちです。けれども、そういう人たちに対しても、主イエスは「今、神さまが働きかけてくださっていることを信じるようになってほしい」と考え、道を開こうとしておられるのです。
 主イエスは今日の箇所で、まことに権威あるお方として、祭司長や長老たちと出会っておられる、そう言ってよいと思います。「ここに神さまの出来事が起こっている」ということを、口先だけではなく、「あなたはどう思いますか。あなたはヨハネが伝えていたことを、本当に神さまが聞かせてくださったことだと思っていますか」と聞いているのです。そして、「ヨハネが神からのことを伝えていたのか、あくまでもヨハネは自分勝手なことを伝えていたのか、あなたはどう思うのか」というところに、今、神殿で主イエスによって行われていることが神の事柄として見出せるか見出せないか、主イエスの中に救い主を見出せるか見出せないかの分かれ道があるのです。

 では、私たちはどうでしょうか。毎週日曜日に朝から教会にやってきますが、それはどうしてでしょうか。聖書の御言葉を聞き、その説き明かしに触れたいと願ってのことでしょう。「神さまとの出会いを与えられて、ここからの一巡りの生活に遣わされて行きたい。神さまが共に歩んでくださる。わたしの後ろ盾は神さまなのだ」と、もう一度確かに思い返して、それぞれ神に確かにされた者としてここから歩んで行きたいという願いを持って、私たちはここに集まって来るのです。そういう意味では、聖書朗読の中でも説教の中でも、「どうかわたしに、主イエスが確かに救い主として伴ってくださる方なのだと分からせてほしい」と願って、礼拝に来られる方は少なくないと思います。
 私たちは、今日の箇所に出て来る祭司長や長老たちとは全く違います。主イエスの揚げ足取りをするために来るなどということはないでしょう。けれども、私たちもまた、一点だけ、主イエスから聞かされ、私たちが自分自身のこととして問い質されなければいけないことがあると思います。それは、聖書の御言葉を聞き、説き明かしを聞くときに、そこで最後の決定を下されるのは誰なのか、ということです。聖書を読み、説教を聞いて「よし、よく分かった。ここに救い主がいる」と合点できる、あるいは逆にそう思わなければ「ここに起こっていることは人間に由来するものなのだ」と頑なに思い込んでしまう、自分がどう思うかが大切だと考えてしまうならば、私たちが神の事柄に触れるということはとても難しくなるのだろうと思います。
 どうしてかと言うと、私たちは日曜日の礼拝で、間違いなく聖書を読み説き明かしを聞いて神の事柄に触れさせられるのですが、けれども同時に、私たちがここで経験するのは、徹頭徹尾、人間の間で起こっている、この地上の出来事でもあるからです。主イエスご自身のことを考えればそうだと思います。主イエスは神の独り子です。人間とは違う権威を元々持っておられます。けれども、主イエスはそのことを人々の間で誇ったり、ひけらかしたり自慢したかというと、そういうことは一切ありませんでした。そのことを言い表している聖書箇所があります。フィリピの信徒への手紙に出て来るキリスト賛歌です。2章6節から8節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
 主イエスは権威を持っておられ、権威をお持ちの方として、私たちに出会って下さいます。けれども、出会ってくださる姿は、いかにも権威があるという姿ではなく、「あなたと何の変わりもない人間です」という姿です。私たちが教会の礼拝で、あるいは教会の交わりの中で出会う主イエスの姿は、何よりも目立つという姿形ではありませんから、私たちがそこに本当の救い主を見出すためには、「あれは主イエスだと分かったので、間違いない」という分かり方はできないのです。私たちがそこに本当の救い主を見出すためには、私たちが「主イエスは本当に神の独り子、救い主としておられる」と信じて、受け入れる以外にありません。
 けれども、私たちは「信じる」ということが不得手です。「ここに主イエスがおられる」と信じるときには、「おられるのだろう。おられるかもしれない」と中途半端に信じようとするようなところがあります。「確かに信じて、委ねる」という仕方で主イエスの前に立つことは、なかなかできないのです。主イエスが確かにここにおられるということを、私たちは、天使のような特別な存在として確認するということはできません。

 しかし私たちは、教会の群れの中で、確かに主イエスが私たちの間におられて、真に権威あるお方が私たちの間に歩んでおられるということを見ることもできるようにされています。それは、真の権威が現れるときには、見せかけの、上辺だけの権威がその前で色あせて行くということが起こるためです。
 今日の記事を読んでみたいのですが、ここで祭司長や民の長老たちは、最初はいかにも権威ある者として主イエスの前に現れました。「私たちはあなたを裁くことができる。お前の申し開きを聞いて、お前に権威があるかないか決めることができる」と思っていました。初めは、威厳たっぷりに主イエスを尋問しています。ところが、主イエスから「そうではない。ヨハネの言葉をどう考えているのか。ヨハネの招きの言葉は神様が語っておられると信じるのか、信じないのか」と逆に問われてしまうと、彼らの威厳は見る見る色あせていきました。祭司長や長老たちの権威は、神から与えられた本物の権威ではないからです。いかにも権威がありそうに振る舞っていますが、正体は、ローマ皇帝から与えられているこの世の力でしかない、そのことが明るみに出てしまうのです。しかも、ローマ皇帝から力を与えられていながら、ローマ皇帝に全幅の信頼も寄せられないのです。もし、この町で暴動でも起こされたら、自分たちの今持っている権力はひとたまりもなく失われてしまう、そう思って、率直に答えることができなくなっているのです。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう」と言っていますが、これは返答に窮しているのですが、彼らは実際に、ヨハネの背後に神がおられるなどと思っていませんでした。ですから、ヨハネの言葉に従おうとしなかったし、主イエスが来られても、主イエスを邪魔者だと思って消し去ろうとしているのです。
 祭司長たちや長老たちの本音を言えば、「私たちは、ヨハネの言葉は天からのものだとは思っていない。ヨハネが勝手に言っていたのだ」と思っていたのですから、自分たちに本当に権威があるのであれば、そう率直に言えば良かったのです。「わたしたちは、神さまから立てられた者である。しかし、ヨハネはまがい物に過ぎない。ヨハネの言葉は人の言葉にすぎない。だからわたしたちは従わなかったのだ」と言えば、それに反対する人はいたとしても、しかし自分が本当に神の権威に寄り頼んでいるのであれば、恐るには当たらないはずなのです。ところが、彼らの考えたことは、「『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから」というものでした。彼らの権威が本物ではなかったので、こう考えたのです。このように、本物の権威の前では見せかけだけの権威は色あせていきます。

 主イエスが本当に権威をお持ちのお方として、教会の頭であるということを信じて生活をするならば、どんなに思いがけないことに出遭う場合にも、大変だ、苦しい、辛いと思うことがあるかもしれませんが、それでもわたしたちは、主イエスによって支えられ歩んでいけるのだと信じて歩んでいけるようになります。そして、その時には、私たちは真の権威に支えられて歩んで行くのです。
 自分自身は本当に不束な弱い者に過ぎない、そうであったとしても、「きっと、神さまがわたしを終わりまで持ち運んでくださる。どんなことがあっても、わたしのことを見ていてくださるから」と信頼して歩んで行く時には、私たちは明朗でいることができるようになります。そして、そういうあり方こそが教会の空気を作って行くものであり、私たちはそういう仕方で、真の権威をお持ちの方、本当の救い主が私たちに伴っていてくださるのだということを経験させられていくようになるのです。

 私たちは、「主イエスが共にいてくださる」ことに励まされながら、偽りの高ぶりから自由にされる、そういう生活を歩むようになります。主イエスが私たちと共に歩んでくださっていることを、私たちは、何よりも大切な私たちの拠り所となる現実として与えられていることを信じて、ここからまた、新しい歩みへと送り出されたいと願います。

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