聖書のみことば
2018年7月
7月1日 7月8日 7月15日 7月22日 7月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月1日主日礼拝音声

 いちじくの木
2018年7月第1主日礼拝 7月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第21章18〜22節

21章<18節>朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。<19節>道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。<20節>弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。<21節>イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。<22節>信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

 ただ今、マタイによる福音書21章18節から22節までをご一緒にお聞きしました。18節に「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた」とあります。朝まだ早い時間のことです。主イエスはベタニアからエルサレムに向かう道の途上におられました。
 主イエスが今歩いておられる道は、前日には、主イエスに向かって歓呼の声をあげながら大勢の群衆が付き従ってきた、その道です。前日には大勢の群衆がいましたが、どういうわけか、今日の箇所には群衆の姿は出てきません。前日にはあれほど主イエスに期待して、喜んで迎えていたのに、翌日にはその熱気がすっかり覚めてしまったのでしょうか。それとも、本当はこの時も相変わらず主イエスを取り囲む群衆はいたけれども、この福音書を書いたマタイが、敢えて群衆の姿に触れることをしないで、主イエスだけを指し示した結果、ここではまるで群衆は誰もいないかのように聴こえているのでしょうか。実際にはどうだったのかは、あまりよく分かりません。けれども、あれほどの群衆の姿がたった一日で見えなくなってしまうというのは妙な気がしますから、この福音書が群衆の存在を語っていないだけなのかもしれません。
 けれども、本当にそんなに多くの群衆が付き従っていたのであれば、敢えてマタイがここで群衆の存在について割愛したのだとすると、何か理由があるのかもしれません。理由は何でしょうか。

 この朝、主イエスは空腹を覚えられたと記されています。飢え渇きを感じられたというのです。主イエスが感じておられた飢えとは、どういう類のものだったのか、そのことが分からないと、この箇所が語ろうとしていることを理解できずに終わってしまうと思います。もし、この朝主イエスが感じておられた飢えが単純に物質的なもので、つまり食欲を満たしたいと願って「いちじくの木に期待したけれど得られなかった。それで腹立ち紛れにいちじくの木を呪ったところ木が枯れてしまった」という筋書きであり、そう受け止めるのであれば、私たちには、この記事に語られていることの意味が皆目分からなくなってしまうのではないでしょうか。
 物の本には、いちじくの実がなるのは、6月の初め頃だと書かれています。確かにそうで、愛宕町教会のいちじくも、今、実をつけ始めています。主イエスが今歩んでおられる、聖書の中での時間は、イースターの直前の話ですから、春先の3月から4月のことです。そうしますと、そんな時期にいちじくの実があるかどうか考えて見ますと、食べられる実はなっていないでしょう。単に主イエスが肉体の飢えを満たしたいと思っていちじくの木に実を探したのだとしたら、時期外れのことですから、実を得られるはずはありません。得られるはずがないのに「今から後いつまでも、お前には実がならないように」などと言って木を呪い殺してしまったのだとすると、木には同情しますし、主イエスは大変わがままな暴君のような人だということになります。ですから、もしこの話を食欲の話として受け取るとすると、聖書は一体何を書いているのかと思ってしまいます。

 主イエスは、自分の思うようにならないからと言って、「滅んでしまえ」などとおっしゃる方でしょうか。そういう姿は、私たちが普段思い描いている主イエスの姿とは、かけ離れています。他の福音書では、主イエスが、なかなか実をつけないいちじくの木を例にとって一つの譬えを話しておられる箇所があります。ルカによる福音書13章6節から9節です。「そして、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」』」。これは譬え話ですので、実際のこととは違うかもしれません。けれども、たとえ譬え話であっても、主イエスはここで、「神の忍耐は本当に豊かなのだ」ということを教えておられるのです。ですから、その同じ主イエスが、自分が空腹で、いちじくの木に実を探したのに見つからなかったからと言って枯れさせてしまうというのは、考えにくい話です。
 そうしますと、主イエスがこの朝感じておられた飢え渇きというのは、恐らく物質的なもの、肉体を養いたいという欲求のようなものとは質が違う飢え渇きだったのではないかと考えることができると思います。

 では、この朝の主イエスの飢え渇きとはどのようなものだったのか。主イエスはこの朝エルサレムに向かっておられますが、「朝早く」と言われている朝はいつかと言うと、受難週の二日目です。前日、主イエスは大勢の群衆に囲まれてエルサレムに入城された、それが受難週の最初の日、私たちの曜日でいうと日曜日ですから、今日のこの場面は月曜日の朝です。
 主イエスが伝道の生涯にお入りになって、人々に神の国についてお伝えになって歩まれた期間は、ヨハネによる福音書に基づけば、恐らく3年ほどだったと言われています。その3年間に、主イエスは「神の国、神の本当に慈しみに満ちた御支配があなたの上に及んで来ているのだから、あなたは悔い改めなさい」と、人々に語っておられました。「これまであなたは自分一人で人生を歩んでいかなければならないと思っていたかもしれないけれども、本当はそうではない。神さまがあなたの上におられて、神さまがあなたを支え守ろうとしてくださっている。だから、あなたはその神さまの御言葉に慰められ勇気づけられながら、神さまの言葉を聴きながら生きるように、人生の向きを変えなさい」と教え、伝えられました。それが「悔い改めなさい」という主イエスの招きです。
 ところが、その結果どうなったかというと、主イエスが願ったような実りは、人々の間に生まれませんでした。前回も申しましたが、主イエスがエルサレムにお入りになったときに、大勢の群衆が主の前後に従いましたけれども、彼らが願っていたことは、主イエスに自分たちの王になって欲しいとの思いでした。「自分たちを癒し、正しく導いてくれて、ローマの支配から脱出させてくれる、そういう王になって欲しい」、それが主イエスへの期待です。主イエスをそのような王に祭り上げようとした人々の中に、主イエスが教え招こうとしたような、つまり神さま中心に生きようとして人生の向きを変えて悔い改めた人がどれ程いたかと考えると、実は殆どいませんでした。主イエスは、前日にそのようなことを目の当たりになさって、二日目の朝、再びエルサレムに向かっておられるのです。
 主イエスがこの後、エルサレムに向かって歩める日数は、ほとんどありません。この日が受難週の月曜日、そして火曜日、水曜日、木曜日の夜には、主イエスは逮捕されます。ですから、主イエスは3年間人々に向かって「神に信頼して悔い改めなさい」と語り続けてこられましたが、それも、もう残すところ三日しかありません。その時に、主イエスの教えを受け止めてくれた人がどれだけいるだろうかと群衆を見渡した時に、そこには実りが殆ど無いのです。大勢の群衆が主イエスに付き従っているように見えますが、その中には、主イエスが望まれたような形で神に信頼して歩む人は、探してもいなかったのです。主イエスがこの朝感じておられた空腹、飢え渇きというのは、こういう類のものだったのかもしれません。そう考えたくなる理由が、このマタイによる福音書の言葉の中にあります。
 今日ここで問題になっているのは、葉っぱの繁ったいちじくの木に実を探したけれども実りが無かったというところに起こっています。実が無かったので、一言呪われたら、木が枯れてしまいました。「実が結ばれていない」ということが問題になっているのですが、マタイによる福音書の一番最初に「実」という言葉はどこに出てくるのか、読み返しますと、バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていた時に、サドカイ派やファリサイ派の人たちが大勢やって来た、その時にヨハネが語った言葉の中に出てくるのです。マタイによる福音書3章7節と8節です。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ』」。「実を結ぶ」ということが、ここで最初に言われます。「悔い改めにふさわしい実を結べ」という言い方で、ファリサイ派やサドカイ派の人々に向かって呼びかけられています。
 「悔い改め」とは、「神の方に向かって生き方を変える」ということです。何でも自分中心に考えて思い通りに実現すればそれが良い人生で、そういかなければ悪い人生で、それが続けば生きる値打ちがないと考えてしまいがちですが、そうではなくて、たとえ思うようにならない困難に出遇うことがあっても、神がそこで自分に何を求めておられるのか、どう生きることを望んでおられるのかと考えて「神中心に生きようとする」、そういう生き方に向きを変えることが「悔い改める」ことであり、それをヨハネは勧めたのです。悔い改めて生きることを通して、今日与えられて生きる人生を、神に信頼して生きることで、そこに実を結ぶようにと勧めました。
 因みに、この3章では、10節でも、実を結ばないとどうなるかという警告の言葉も語られています。10節「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。ですから、マタイによる福音書は、始まりのところで既に「あなたがたは、悔い改めて良い実を結ぶように」というヨハネの勧めの言葉が語られていたのです。
 主イエスはヨハネのように、「実を結ばないと、切り倒されて日に投げ込まれるぞ」などとは言われません。むしろ、主イエスご自身は、ルカによる福音書にあった、辛抱強い園庭の譬え話のように、「何年も実を結ばないとしても、それでもそのいちじくの木に肥料をやり、木が実をつけるのを待ってくださる」、そういうお方です。主イエスが3年の公生涯でなさったことは、まさしくその園庭の業でした。バプテスマのヨハネの厳しいあり形と違って、主イエスはこのようなスタイルで弟子たちと一緒に生活しながら、弟子たちが本当に神に信頼して、悔い改めて生きようとするのを待っておられるのです。

 弟子たちや群衆は、主イエスが神のことを鮮やかに説き明かしてくださったり、癒しの業をなしてくださることに感嘆したり感動したりして喜んで付いて行きました。主イエスのなさる事柄に気を取られて付いて来る人は大勢いましたが、主イエスの教えておられた「神さまに信頼するがゆえに、わたしは、どんなことがあっても神さまに従って歩んで参ります」という人は、主イエスの弟子たちの中には一人もいなかったのだと思います。
 そして、弟子たちも群衆たちも、そのことに気が付いていません。自分の思いとしては、主イエスに従っているつもりなのです。けれども、弟子たちが従っていたのは主イエスそのお方ではなく、自分たちが思い描く、好ましい将来を与えてくれそうな指導者の姿に主イエスを当てはめ、期待して、自分たちが欲している指導者として付いて行っているのです。歓呼の声をあげて付き従った群衆は、自分たちの思いが実現することに期待して叫んでいたにすぎません。そして、そのことがはっきり分かる出来事が、間も無く起こるのです。それは、木曜日の夜に主イエスが逮捕された時の出来事です。主イエスが逮捕されても、「それでもわたしは主イエスに付いて行く」という人は、群衆の中にも弟子たちの中にもいませんでした。主イエスが逮捕されて、自分たちの思い描くリーダーになってくれるという道が断たれた思った途端に、主イエスへの関心は、もう無いのです。それよりも、我が身可愛さに逃げて行ってしまうのです。

 主イエスがこの朝感じておられた飢えとは、恐らく、弟子たちの中にも群衆の中にも、「どんなことがあっても神に信頼して歩んで行く」という姿勢の人が見当たらなかった、そういう類の飢えです。「主イエスは、いちじくの木に実を探したけれども、実が無いので嘆いた」と書かれています。主イエスは弟子たちと3年も一緒に暮らして、神の御支配について知らせてきたのにも拘らず、一緒にいる人の中には、どこにも実を結んだ人がいないことを嘆いておられるのです。
 そのような深い嘆きを持っておられる主イエスの目と鼻の先にいるのに、弟子たちは、そのことに気づきません。ですから主イエスは、弟子たちが気づくようにと、目に見える仕方で一つの御業をなさった、それが19節の後半に語られていることです。19節後半に「そこで、『今から後いつまでも、お前には実がならないように』と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった」とあります。主イエスはここで、いちじくの木に向かって呪いの言葉を語られました。けれども、この呪いは、もしかすると弟子たちや群衆に向かって語られていてもおかしくない言葉なのです。「おまえは、何年わたしと一緒にいても実を結ばないではないか。だからもう、おまえには期待しない。おまえからは実を探さないことにする」と、もしこの時、主イエスが弟子たちや群衆を前に宣言をなさったのならば、恐らく、その後の教会の歴史は続かなかっただろうと思います。
 主イエスは、神に向かって信頼し悔改めるということが本当に不得手な人間のために、一つの教材として、目の前にあるいちじくの木をお使いになったのです。本当に実を結ばないならば、たちどころに枯れるほかないということを、弟子たちの目の前でお示しになっているのです。

 実は、私たちも同じだろうと思います。私たちは、今日どうしてここに集まっているのでしょうか。もしかすると、自分たちの思いで来ていると思うかもしれませんが、そうではありません。私たちの上に本当の悔改めが起こるということを主イエスが期待しておられて、「あなたは、慈しみ豊かな神さまの御支配の許にあるのだよ。神さまの恵みの許に生かされているのだよ」と語りかけてくださるので、私たちは、その言葉に導かれるようにして、今日この教会にやって来るのです。
 この日、主イエスが本当に求めておられたのは、季節外れのいちじくの実ではありません。そうではなくて、弟子たちの悔い改めた姿です。その実りがなかなか見つからない、そして一方で、主イエスが弟子たちと一緒におられる時間が刻一刻と短くなってきているので、主イエスは思い切った仕方で、「悔い改めないと、どうなるのか」ということを示してくださったのです。
 ところが弟子たちは、目の前で起こったことを理解しませんでした。今そこで枯れてしまったいちじくの木が、自分たちのことを言っているとは全く気づきません。却って、主イエスのなさった驚くべき御業の秘訣はどこにあるのかを知りたがるのです。20節「弟子たちはこれを見て驚き、『なぜ、たちまち枯れてしまったのですか』と言った」。弟子たちは「なぜ枯れたのか」と問いました。この問いに、もし率直に答えるならば、「実を結ばないために本来は枯れても仕方ない者を、これまで御言葉によって支えて来たけれど、しかし今、その御言葉の支えを外したので、木は枯れるべくして枯れたのだ。それはいちじくの木のことではなく、あなたがたの信仰のことだよ」と答えられたに違いありません。
 けれども実際には、主イエスはどのように答えられたでしょうか。21節22節です。「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる』」。
 この主イエスの答えは、弟子たちにとっては恐らくよく解らない答えだったでしょう。興味を持っているのは、「どうやって木を枯らすか」ということですが、一見、主イエスはそのことについては何も答えておられないようです。主イエスは「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができる」と言われましたが、「いちじくの木に起こったようなことができる」とは、一体どんなことでしょうか。弟子たちが強い思いを持って「枯れよ」と言えば、枯らすことができるということでしょうか。たとえそれが出来たとしても、そのことにどんな意味があるでしょうか。私たちが苦労するのは、どうやって木を生かすかということであって、枯らしたいのであれば、のこぎりで根元から切ってしまえばよいだけの話です。
 主イエスがここでおっしゃった「いちじくの木に起こったようなこと」とは何でしょうか。それは、「本来なら枯れていてもおかしくないいちじくの木が、主イエスの支えによって生きていた」ということを言っているのです。そして、私たちもそうです。毎週教会にやって来て礼拝を捧げ、ここから私たちはそれぞれ一週間の生活を歩んで行きます。時には、そういう生活がマンネリだと思って嘆いてみたり、何にもならないと思う時があるかもしれません。けれども、果たして本当にそうなのかということを考えてみなければなりません。
 信仰生活がマンネリで何も変わらないと思う方は、よく考えてみると、その信仰生活は自分の思いの強さとか、自分の力で歩んでいると思い違いしているのかもしれません。実際には、私たちは、自分の思いの強さや情熱を傾けることによっては、片時だって信仰を自分のうちに留めておくことはできません。その証拠を挙げることもできます。私たちは始終、神を忘れ、神抜きで生活してしまうのです。「今週は必ず神さまに従って生きよう」と固く思って礼拝堂を出て、30分もすれば別のことを考えてしまう、それが私たちの姿だろうと思います。私たちは、自分の思いや情熱によって、神に結びついた在り方を自分の中に留めておくことはできないのです。
 そういう私たちですから、もし、神の方から見捨てられて「お前にはもう、実りを期待しない。お前とはもう関わりのない者だ」と言われてしまえば、私たちは本当に神と関わりのない者として、神から切れた者として歩んでしまっても仕方ない、そういう覚束なさを、一人一人抱えているのです。
 にも拘らず、そうならないで済んでいるのはなぜか。それは、神の方が私たちを覚えてくださっているからです。主イエスが、本当にあやふやで危ない私たちのために十字架に架かっていて下さって、「あなたは、わたしの贖いの許にいるのだから、また教会に来ても良いのだよ」と言ってくださるので、私たちは危ういところを生かされているのです。
 神が私たちのために主イエスの御業をなさって御言葉をかけて下さっている。そしてまた、主イエスもご自身の御業を果たすために祈り、成し遂げてくださる。だからこそ私たちは、教会から離れないで、毎週礼拝を捧げながら、一人一人の人生を歩むことができているのです。

 主イエスは、いちじくの木を呪われました。けれども弟子たちのことを呪ったりなさいませんでした。私たちに対しては辛抱強く、周りから見て「あの人はだめだ」と思われる者であっても、「どうか周りに穴を掘って、肥やしをやりますから」と執り成して下さって、私たちが本当に悔い改めの実をつけることを待っていてくださるのです。私たちが今日ここにいるということがなぜ起こっているのか。私たち自身の中に真に敬虔な思いがあるからでしょうか。そうではありません。「主イエスの方が、このわたしを確かに捕らえていて下さっている。私たちが今この場所に集められているのは、主イエスが私たちの中に、本当に悔い改めに相応しい実りが生まれることを望んで下さっているから」なのです。
 そして、「そういう主イエスがいてくださる。主イエスの祈りに覚えられ、御業の上に置かれて、今日を生きているのだ」ということを受け入れて、信じて生活することが「信仰」なのです。

 主イエスはここで、「信仰」について、二つの面からおっしゃっています。21節で「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、」と言われました。「信仰を持つこと」と「疑わないこと」、これは二つ別々のことを教えているのではありません。一つの信仰を二つの面からおっしゃっているのです。「信仰」は、私たち自身に備わっているもの、固く思い込む才能とか能力とか、自分で自分をある方向に仕向ける自己暗示のようなことではありません。「主イエスがわたしを愛して下さっている。わたしのために十字架に架かって
下さったということを受け入れている」ということが「信仰」なのです。
 主イエスはここで、「もし信じて疑わないならば」とおっしゃいました。もし信仰が私たちの思いや状態によるとするならば、どうしても私たちは疑わずにはいられません。私たちの心は、始終変わってしまうからです。絶えず移り変わって定まりがありません。「信じる」と言っても、そういう自分の覚束なさに目をつむって、それでも自分は確かなのだと言い張るならば、それは偽りだろうと思います。残念ですが、私たちはしょっちゅう神を忘れ、主イエスを抜きにして生きてしまうのです。「信じる」とは、主イエスがそういう不束で覚束ない歩みしかできない私たちのことを常に覚えてくださり、十字架にお架かりになった方として私たちに伴っていてくださると信じることです。そして、そう信じているところに、信仰が成り立つのです。
 たとえ私たちが高齢になって死の床に横たわって、もはやこの世においては何もできないということがあるとしても、主イエスは、そういう状況の私たちの中に悔い改めの実を探してくださるのです。地上においては、もう何もできそうにない。けれども、「それでもこの人は、最後の時に神に向かって信頼しているだろうか」と、私たちの内に悔い改めの実がないかと探してくださるのです。あるいは、私たちが人生で何か大きな失敗をしてその責任を問われるようなことになり、周囲の人から、あの人はダメだと見限られ見放されたとしても、主イエスは、そういう状況にあって深く悔い悲しんでいる私たちの心の中をご覧になるのです。そこに悔い改めはないだろうかと私たちをご覧になって、悔い改めを見つけて喜ぼうとしてくださるのです。そのようにして、主イエスが私たち一人一人に伴っていてくださる限り、私たちは、究極的には決して見捨てられることはありません。

 そのようにして、「主イエスがこのわたしの中に悔い改めの実を探して下さっている」ことに支えられて、そのことを受け入れて、感謝して生きようとする生活には、ある落ち着きと粘り強さが生まれてくるのです。たとえ、今の自分の状況にままならないところがあっても、それでも「今、わたしの中に本当に神に信頼して新しく生きようとする悔い改めの実を、主イエスが探し出していてくださるに違いない。だからわたしは、そのことにお応えして、主イエスに喜ばれるような悔い改めの実を結びたいと思います。どうかここからもう一度、歩ませてください」という祈りを持って生きる人には、どんな時にも将来が生まれるのです。「もう何もない。終わってしまった」と思っているところにも将来が生まれる。そしてそこに落ち着きがあり、粘り強さが生まれるのです。

 そして、そういう粘り強さを与えられて生きて行く時、その人生には、「山が動いたのではないか」と思うような、大きな出来事が結果として起こるということも有り得るのです。「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」と主イエスは言われました。文字通りに受け取れば、そんなことがあるのだろうかと思いますが、これはもののたとえです。私たちも思いもよらないようなことが起こった時には、「山が動いた」という言い方をしますが、主イエスの時代のユダヤでも全く同じ意味でこの言葉が使われています。主イエスは、「本当に悔い改めて神に信頼して、神が将来を与えてくださるのだと考えて生き直すところでは、到底実を結びそうにないと思っている人生が思いがけない実を結ぶことになるのだ」ということを教えて下さっているのです。そして主イエスは、そういう信仰を持ち続けるために「祈るべきこと」を教えておられます。22節「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」とおっしゃっています。

 私たちは、神に懸命に祈って、「どうか、この信仰から離れないようにさせてください。私たち自身は覚束ない者ですから、自分の想いの強さや自分の能力では、簡単に神から離れてしまうところがあります。そういうわたしですが、主イエスがわたしのために十字架に架かって下さった、そのことは確かですから、どうか、わたしが生涯、それを受け入れられますように。あなたがなさって下さった、その確かな御業の上に、どうかこのわたしを置いてください」と祈ることが許されているのです。
 自分自身を見れば、いつ神から離れても不思議ではない、いつ滅んでも、いつ失われても不思議ではない、そういうわたしですが、そういう一人一人の中に主イエスは「悔い改めの実がないか」と今日も探してくださるのです。私たちは、その主イエスに感謝しながら、「どうか、わたしが信仰に踏みとどまって、この人生を歩めますように。ここから、神によって将来を与えられて、また新しい道に歩めますように」と祈りながら、新たな一巡りの時に向かって行きたいと願います。

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