聖書のみことば
2014年12月
12月7日 12月14日 12月19日 12月21日 12月24日 12月28日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 救いをもたらす神の恵み
2014年12月金曜礼拝 2014年12月19日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/エレミヤ書 第33章14〜16節、テトスへの手紙 第2章11〜15節

エレミヤ書第33章<14節>見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。<15節>その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。<16節>その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。

テトスへの手紙第2章<11節>実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。<12節>その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、<13節>また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。<14節>キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。<15節>十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。

 11節「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」と、パウロが、信仰を共にする真の弟子テトスに語りかけております。そういう意味で、パウロは信仰を同じくする者たち全てに対して、キリストが人となった出来事をここでは「神の恵みが現れました」と言っております。「キリストが受肉してくださって人となってくださった出来事」を「神の恵みである」と言い表しているのです。

 では、「主イエス・キリストが人となった」とはどういうことなのか。そのことがここで語られております。それは「すべての人を救うため」ということですが、パウロがこう語るのは、何よりもまず自分自身の経験によるのです。パウロは、復活の主イエス・キリストが臨んでくださったことによって、「神の御心はすべての人の救いである」ことを知りました。主と出会う前のパウロはキリスト者を迫害する者でした。復活のキリストに出会うことによって、そのように神の御心に反していた自分をも、神が救いの恵みに入れてくださったことを知ったのです。だからこそパウロは、人となってくださった主イエス・キリストに聴くことは、神の恵み以外の何ものでもないと知ったのです。
 救い主が人となって来てくださった、そのキリスト(救い主)を知ること、信じることを通して、私どもは救いを与えられるとパウロは言います。「神の恵み」」は「人となってくださったキリスト」です。キリストの受肉は、神の救いの出来事として恵みなのです。
 パウロは、この「恵み」ということを、「救われること」、また「主の御用に用いられること」「新しい生き方をすること」であると、二重三重の意味で語ります。

 「恵み」とはどういうことでしょうか。それは、神の側からの一方的な出来事です。神が一切をなさってくださるのであって、私どもが何かをしたご褒美なのではありません。私どもの力に対する賞与ではない。だからこそ「恵み」と言い表すのです。
 それゆえに、主イエス・キリストこそ恵みです。主が人となってくださって、救いがもたらされました。「神の恵みが現れた」のです。

 12節「その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」と、恵みを知ることは、恵みによって新しい生き方を教えられること、つまり「恵みこそ教えである」と言っております。何かを学んで信仰を深めるということではありません。恵みそのものが、私どもに新しい生き方を教えてくれる、生活の術を教えてくれるというのです。
 神の恵み、救いに与ったことで「不信心と現世的な欲望を捨てて」生きられると言われております。神の憐れみなくして生きられないのに自分でできると思っている、それが「不信心」に他なりません。神無しは罪の生き方なのです。神無しに生きるとき、人は神に代わる何かを必要とします。何かに頼らなければならないのが人なのです。例えば、現世的な拠り所として、一つはお金でしょう。神無しに生きられるけれど、お金がなくては生きられなくなっている現代です。「不信心」とは、そのようなお金を頼りと知る生き方の愚かさを言っております。
 神無しで、お金以外にも人々はいろいろ囚われております。例えば、他者に対する忠君であるとか、自らの誇りなど、それらは何らの救いにはなりません。人の拠り所とする一切は、人の欲望です。あるいは理想主義、イデオロギーの崩壊も、歴史は繰り返すのです。

 神以外に自らの寄る辺を持つこと、それが欲望です。人の欲望は、すべての人の救いにはならないのです。
 けれどもここには、「この世のものを拠り所とする、それら一切を捨てられる」と言っております。キリストの救いがすべてであり、恵みに対する感謝となるときに、それら一切を捨てられるのです。
 主イエスが人となってくださってまでの恵みに満たされて、一切の欲望から解き放たれるのです。恵みへの感謝に満ちて、この世にあって「思慮深く」生きられると言われております。
 自らの力で、信心深くなれと言っているのではありません。自分の力で欲望を捨てるのではなく、キリストの恵みがすべてであるとき、自ずと喜び、自ら求め、自ら喜びを表すようになるのです。

 「思慮深く」とは、「ことごとに神の恵み、神の働きを思うこと」です。神と自分が繋がっている、常に神を思える、神との正しい関係にあることは、同時に他者との正しい関係を結ぶことに繋がります。

 「信心深く生活する」とは何でしょうか。それは、神を畏れる生き方です。御言葉を聴き、祈り、礼拝する生活です。特別な修行や祈りをすることではありません。そういうことではなく、この世にありながら、なお、御言葉に聴き、祈り、礼拝することです。そして、それがなし得るのは、キリストの恵みがその人に満ち溢れているからです。だからこそ、そういう生き方になるのです。

 31節「また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています」。これは、地上にあってのことだけではなく、地上を超えた希望を持って生きることを示しております。つまり、終わりの日、主イエス・キリストの再臨の日の出来事が語られているのです。「偉大なる神、救い主」=「主イエス・キリスト」の再臨を待ち望むことを言っております。主イエスは、救いの完成のために、再び来てくださるのです。そのような「再臨の希望に生きる」という生き方を教えてくださる、それが恵み、キリストであると言っております。
 キリスト者は、自らの根拠をこの世に置いているのではなく、キリストに置いているのです。終わりの日に入れられる、神の国に置いているのです。根拠は神にあり、天にあるのです。地上にありながら、地上を拠り所とするのではありません。地上の拠り所はいつしか滅びます。キリスト者は、神のものとして天に根拠を置くのです。
 主イエス・キリストの出来事は、私どもの根拠が神にあり、帰るべきは天であることを教えているのです。キリストの出来事こそ、私どもの根拠、教え、導きです。

 それゆえに知らなければなりません。ただ一度のこの神の出来事を、私どもは繰り返し繰り返し聴き続けなければなりません。そうしなければ失われてしまいます。地上にある者として、繰り返し聴き、従うのです。常に導かれなければなりません。
 だからこその、週ごとの礼拝です。そこで御言葉に聞くのです。年ごとにキリストの誕生の出来事に聴くのです。人となったキリストが私どものすべてであることを、繰り返し聴くのです。キリストの福音に常に与っていること、それが「教えられていること」です。私どもが難しい勉強をするということではありません。私どもが祈り、礼拝するとき、救いなる神が教えてくださるのです。

 キリストの恵みの中心にあること、それが14節に記されております。「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです」。「キリストの出来事とは、贖いの出来事である」ことが言われております。単に人となられたということではない。それだけではなく、私どもの罪のために贖いとなってくださって、十字架の死と復活によって罪を終わらせてくださり、神との交わりを回復させてくださったのです。
 神を表すこと、それが礼拝であり、それが「良い行い」です。
 「神のもの、神の民としてくださって清めてくださる」、それが主イエス・キリストの十字架の出来事なのです。救いとは、神の民とされることです。「神の民として清い」と言われております。「聖化」ということですが、それは特別に神のものとされる、主イエス・キリストによって神に属する者とされるということです。キリストを信じる者は、清い者とされるのです。
 そして、神の者として、神を讃美し生きることが、そのなすべきことです。神の民として相応しく生きること、清き民として生きることを通して、この世に証しを立てるのです。

 15節「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません」。神の民として生きる、それは神の力に押し出されて、「主こそ救い」と人に勧めることです。証しすることが、清き民に与えられた使命です。
 「侮られる」とは、この世の民と同じ生き方をすることです。礼拝を守らずに良しとすることです。私どもが真実に神を崇めて生きるならば、そこでこの世に侮られることなく、尊敬を受けるのです。

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