聖書のみことば
2014年12月
12月7日 12月14日 12月19日 12月21日 12月24日 12月28日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 祭司長たちの計略
2014年12月第1主日礼拝 2014年12月7日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第14章1〜9節

14章<1節>さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。<2節>彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。<3節>イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。<4節>そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。<5節>この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。<6節>イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。<7節>貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。<8節>この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。<9節>はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 1節「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」と言われております。いよいよ主イエスの十字架へのご受難が語られます。「二日前」と、その時が、日を追って時間を追って語られていきます。

 ここで「過越祭と除酵祭」と言われておりますが、これらはどんな祭りなのでしょうか。それは出エジプト記12章に記されております。エジプトで奴隷の民となっているイスラエルを解放するために、モーセは神より、エジプト王ファラオの前で様々な奇跡を行うことを命じられましたが、ファラオは心を頑なにして、イスラエルをエジプトから去らせませんでした。そこで遂に、神が臨んでくださるのです。
 12章2節「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」。この月とは、春分以降の最初の満月を含む月で、ここで正月の謂れも語られます。
 そして、正月の10日に「家族ごとに小羊を一匹用意し…、それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。…それを翌朝まで残しておいてはならない」と命じられます。そして「それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる」、つまり旅支度をしてということです。なぜかと言えば、神が「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う」、けれども、ただ「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」と言われるからです。「これが主の過越である」と記されております。
 すなわち、小羊の清い血をもって贖いとし、神が裁きを過ぎ越してくださるのです。過越祭とは、神が裁きを過ぎ越してくださるという救いを覚える祭りです。
 このことは、この後の主イエス・キリストの出来事と関係します。太陰暦ですが、正月の15日は神の贖いの日です。過越に示されていることは「神は過ぎ越される方、命贖われる方である」ということです。ですから、主の十字架と深く関わるのです。
 では、「除酵祭」とは何でしょうか。主イエスの時代には過越祭と除酵祭は二つ一緒に扱われておりました。けれども出エジプト記12章14〜15節に記されていることは「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる」。除酵祭は、神がエジプトからイスラエルを導き出してくださったことの記念として祝う祭です。

 過越祭は神の過ぎ越し・命の贖いであり、除酵祭は神の導き、奴隷という束縛からの解放、神が虐げから解き放つお方であることを覚える日なのです。このことを主の十字架で考えると、神の過越は、主イエス・キリストの十字架での贖いであり、導きは、贖われ救われて神の民とされる、罪の束縛からの解放であり、それは主イエス・キリストによって与えられる恵みです。
 ですから、過越の食事と主の十字架は結びつきます。過越の食事をするのは15日・金曜日の夜であり、イスラエルの一日は夕方から始まりますから、次の日の昼はその同じ日です。主が与えてくださった過越の食事(最後の晩餐)は、十字架の日と同じ日なのです。

 キリスト者とはどういう者なのでしょうか。奴隷の民を、神は神の民としてくださいました。私どもキリスト者は、主の十字架により贖われ、神との交わりを頂く者とされるのです。今日は第一主日で、私どもは礼拝において聖餐に与りますが、それは、キリストの贖いの恵みを思い起こす出来事、神の恵みの内にあることを覚える出来事です。旧約において、過越祭・徐酵祭で記念する恵みを、私どもは今、聖餐によって与っているのです。

 囚われから解き放たれると言うと、いろいろと考えさせられます。私どもは奴隷状態であるということはありませんが、しかし、自らに捕らわれる者であり、自分から自由になれない者です。かつての日本人は、そのような囚われを「美」に昇華させました。囚われ、こだわりに徹することを通して、その生き方を美しいとする、それが日本人の感性、信仰です。けれども、自らの囚われに対して徹底して生きるということは、なかなかできることではありません。かなりの忍耐を要するでしょう。昨今では美へ昇華できずに、囚われを発散するようになっております。ですから、囚われないで生きるということは、不可能に近いことです。
 そのような私どもを、囚われから、神は解き放ってくださる、その最たるものが罪、罪の束縛からの解放です。主の十字架によって罪が終わりとされ、主を信じることで、私どもは罪の束縛から解き放たれるのです。

 ですから、キリスト者とは自由な者です。しばしば信仰は、捕らわれることだと思われがちですが、そうではありません。信仰とは、囚われからの解放なのです。
 自由な者とはどういう者かと言うと、主イエスを通して神のものとされ、この世の様々な力の奴隷として生きるのではなく、自らが主体となって「自分自身を生きる」ということです。「自分自身を生きる」とは、すなわち「赦されて生きる」ことです。神の赦しによって、自由に生きるのです。もし、神を信じられなければどうなるでしょうか。この世の様々なものに頼る、ご機嫌をうかがうことになるのです。

 私どもはどこに頼んでいるでしょうか。神を信じるとき、この世の様々なことに恐れることのなく、自由に生きるのです。 囚われから解き放たれる、旧約においては、それは出エジプトだけではなくバビロン捕囚からの解放も同じです。信仰の出来事は、囚われからの解放であることを聖書は語っているのです。
 解放と言っても、それは我儘に生きるということではありません。天地万物の造り主である神によって造られた「本来の自分として生きる」ということです。「神に造られた者として、神との交わりに生きる」、それが人の真実な姿なのです。

 1節に「祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」と記されております。どうしてこんなことが起こるのでしょうか。それは、神の御心として起こるのです。
 祭司長たちや律法学者たちは、主イエス殺害の計画を練っていたと言われております。ここで「祭司長たちや律法学者たち」とありますが、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)を構成するのは「祭司長たちや律法学者たち」と「長老たち」です。ここに「長老たち」と記されていないことから、この主イエス暗殺計画は、非公式なものであることが分かります。
 祭司長たちや律法学者たちが、なぜ主イエスを殺そうとするのかについては、これまで読んできましたマルコによる福音書12章13章を見れば分かることです。主イエスのエルサルム神殿での宮清めの出来事によって、祭司長たちは自分たちの神殿礼拝の邪魔をされ、そのことで主に詰め寄りますが、主の答えに対して返す言葉がありませんでした。行為によっても論争によっても、主イエスに敗れ、主の存在を憎み、亡き者としたいと思ったのです。そしてその思いは、その論争に加わっていた律法学者も同じでした。自分たちこそが権威だというつもりでの主との論争に敗れたのです。この根底にあることは、つまりプライドを傷つけられたということであり、ここに、人は殺意を持つのです。

 民に対して祭司長も律法学者も自らを権威ある者としていた、ここに示されていることは何かと言いますと、信仰においても知識においても、自らを高くするところで、他者を低くするということです。自分は低くなれません。低くなれたならば、相手の言い分も行為も理解できるのです。ですから、自らの高さを誇る者は、主の高さの前に砕かれざるを得ません。

 さて、2節に「彼らは、『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」とありますが、これは変な話です。彼らは「祭りの間はやめておこう」と言っていたにも拘らず、しかし実際には、主イエスが十字架にかけられたのは、過越祭のその日でした。この日を主を殺す日と計画しなかったにも拘らず、この日に主は十字架に死なれました。すなわち、祭司長や律法学者たちの思い・計画ではなく、彼らの思いを超えて主の十字架の出来事は起こったのだということが示されているのです。「祭りの間はやめておこう」との記述は、ここにだけ記されていることですので、覚えたいと思います。

 主の十字架は「神の御旨としてあること」と示されております。神のご意志としての十字架は、祭司長や律法学者たちが思う内容とは全く違うことを覚えなければなりません。祭司長や律法学者たちの思いでは主イエスを抹殺することがゴールですが、神の御心は「十字架によって救いが始まる」のです。
 人の思いは、人を亡き者とすることがゴールであって救いはない。知るべきことは、「主の十字架、神の御業によって救いがこの地上に始まる」ということです。罪の贖い、それは罪からの解放です。主のご受難・十字架によって、救いが始まるのです。人の思いとは全く違います。神の救いの計画が実現するのであって、祭司長や律法学者たちの殺意が成るのではありません。

 今、私どもの置かれた現実を考えなければなりません。残念なことに、私どもの現実は囚われとしての現実であって、救いとしての現実ではありません。選挙も行われますから思います。放射能を処理できないにも拘らず、原発を推進しようとする政治。国力を誇り、戦う力があること、軍事力を持つこと、それは自己本位な世界であり、それが私どもの現実なのです。ですから考えなければなりません。今の自分が良ければよい、という思いで選んではならないのです。
 日本は繁栄のゆえに滅びると思っております。自分さえ良ければよい、今良ければよいと思っている、それが日本の現実であることを見据えるべき時だと思います。明日に希望のある選択ができない、それが現実です。取り敢えずの選択枝しかないから選ぶという、それが現実なのです。

 けれども覚えたいと思います。繁栄という滅びの世にあって、しかし、この聖書の箇所に語られていることは、希望です。人の殺意の只中で、神の救いのご計画が成っていく。同じように、今、この私どもの現実の中で、神の救いは為されております。私どもは、そこに希望を置いてよいのです。
 だからこそ、今、教会の使命は、滅びゆく現実の中にあって、しかし「神による希望があることを宣べ伝える」ことです。
 人の殺意が計画され実行しようとするときに、そうではなく、神の救いの御業がなされる。今この日本にも、神のこの救いの御業が臨んでくださっているのだということを覚えられるならば幸いです。

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