聖書のみことば
2014年12月
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 言が肉となった
2014年クリスマス礼拝 2014年12月21日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章14〜18節

1章<14節>言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。<15節>ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」<16節>わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。<17節>律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。<18節>いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言われております。「言(ことば)」とは、何を言っているのでしょうか。
ヨハネによる福音書の冒頭には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記されております。「言」は初めからあったものであって、造られたものではないことが語られております。聖書は、万物は神の創造の御業によって造られたもの、被造物だと言い表しておりますが、しかしここで「言」は被造物ではないと言っております。いえ、それだけではなく、「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と、言は神と共に万物を創造したと言われております。

 そして、「言」は父なる神と共にあり、神との交わりを保っている、それは「父の独り子としての栄光」であると言われております。 「言」は「神の御子」を表すのです。その神の御子が「肉となった」と言われております。
 「肉」とは、ここでは「人間」を意味しております。つまり、御子が「人となってくださった」ということです。神の御子として神なるお方、初めからあり、神と共に創造の御業をなされたお方が、造られたもの、被造物と同じ「人」となってくださいました。造られたお方が造られた者となってくださったと、聖書は語っております。これは、人間の理解を超えた出来事です。

 神は創造主であって、被造物ではあり得ません。神が被造物となる、それは論理的に言えば不可能なことです。
 ヨハネによる福音書は、「神の御子が人間になってくださった」と語ります。それは、神が不可能を可能にしてくださった出来事です。あり得るはずのないことを神がなさってくださったのだということを知らなければなりません。
 父なる神と御子は、本質を同じくする神です。神が全能であるということは、神が不可能を可能にすることができるということです。その頂点が罪人の救い、御子イエス・キリストの十字架なのです。論理上、罪人は滅びであって、救われることはありません。罪人の救いは、人にはできません。ただ神のみ、なし得るのです。
 神と御子が本質を同じくするとは、どういうことでしょうか。神の本質は、ヨハネの手紙一4章8節「神は愛だからです」と言い表されております。神の本質は「愛」です。愛については関係概念であるといつも語っておりますが、それはつまり、交わりがあることです。愛の反対は憎しみなのではなく、無関心です。愛するがゆえに憎しむのです。愛とは関わりを持つことです。
 神は唯一なる方でありながら、愛として交わりを持っておられます。三位一体の神として、ご自身のうちに交わりを持っておられるのです。父・子・聖霊という3つの固有の神格として交わりを持っておられるのです。それが神の本質であり、愛です。

 不可能を可能にするもの、それが愛の出来事です。愛するがゆえに、できるのです。例えば、母と子の関係において起こる出来事によって、私どもも経験することがあります。子のためならば、母にはできるのです。乳飲み子に対して自らを低くして接する、それは愛ゆえになせることです。
 神は愛、ゆえに不可能を可能とされます。神は愛、ゆえに神の独り子なる御子を人としてこの世に生まれさせてくださいました。それは、ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と記されている通りです。神の独り子が人としておいでくださったこと、それは神がこの世を愛してくださった出来事です。
 しかも、神が人となるという神のあり方は、自ら身を低くして仕えてくださったということを表しております。神がご自身から身を乗り出して、神の方で一歩を踏み出してくださって、人となってくださったのです。私どもの方が一歩を踏み出して神に近づくということではありません。神の方が一歩を踏み出してくださった、それは神と人との断絶を超えての、あり得ない一歩なのです。
 私どものために、誰が身を捨ててまでに仕えてくれるでしょうか。子であっても親であっても出来ない、それが現代社会です。人が人を支えることの少ない時代なのです。しかし、そのただ中に、神は一歩を踏み出してくださいました。感謝の他ありません。それほどまでに愛してくださるのは、神のみです。

 「人とまでなってくださったお方」とは誰でしょうか。「主イエス・キリストである」と聖書は言い表しております。「言」なるお方は、「主イエス・キリスト」です。「神の独り子なる神であり、人となってくださったお方、それは主イエスである」、それがヨハネによる福音書が言い表す信仰の言葉です。

 では「神の子が人となる」、そこまでするのは何故なのか、聴かざるを得ません。先ほどのヨハネによる福音書3章16節の後半には「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されております。父なる神が御子を人として生まれさせてくださった、それは「信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」だと言うのです。「救い」を、ヨハネは「永遠の命」と示します。「独り子の人としての誕生、クリスマスの出来事」の意味は、「信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」の出来事なのです。

 しかも、「一人も滅びないで」とあります。それは逆に言えば「人は皆、滅びの内にある」ということです。誰も滅びであり、永遠の命からは遠いのです。人は皆、罪ゆえに、滅びのうちにあるのです。
 滅び・罪とは何でしょうか。それは神との交わりを失っている状態です。神無しにやっていけると思う、それが罪です。神無し、それは自分が基準となることです。ですから、自分の今が守られていれば良いと思うのです。
 私ども日本国は、これまで様々な経験をしてきました。戦後70年を数え、敗戦を味わった人たちは、人の作り出したものの脆さを経験し、それゆえに神なる存在、畏れるべき存在を求めました。しかし、戦後生まれは経験しませんでした。いえ、それとは別にしかし、福島の出来事を経験しました。誰もがその現実の悲惨さに心打たれ、怒りを覚えた、しかしそうでありながら、それでも自分の今さえ良ければよいという思いの方が優先して、積極的に動こうとはしないのです。消極的な姿勢で、自分の今の生活が守られれば良いと思っているのです。それでは、痛む人たちとの交わりがあるでしょうか。自分の生活第一というところでは、他者を思いやれず、痛みを思うことはできません。それが、交わりの喪失という現実なのです。他者との交わりを作り出す力を失っているのです。今の日本は愚かさと滅びの状況にあると思っております。
 罪ゆえに、交わりを失っております。それが私どもの現実、それは滅びということです。それゆえに、自らの存在を確かにするということができません。他者を痛むこと、交わりを失っている人間、それは想像力を失っているということなのです。

 けれども、神は、そのような私どもが滅びることを良しとせず、「救う」ために、御子イエス・キリストを人としてこの地に宿らせてくださったことが、ここに示されていることです。驚くべき神の愛、神の御業です。滅びでしかない私どものただ中に、人として、神が来てくださいました。それがクリスマスの出来事です。
 人とまでなってこの世においでくださった御子を信じることで、人は救われ、永遠の命の約束に与るのです。

 今朝、二人の姉妹が受洗いたします。受洗によって、永遠の命に与るのです。信じる者のしるし、それが洗礼です。信じる者として、神のものとされる、それが洗礼によって与えられることです。永遠の命を与えられた者としてのしるし、救いのしるし、それが洗礼なのです。
 洗礼は、神との交わりの回復を与えられ、尽きることのない神との交わりに入れていただくことです。この世の交わりは必ずいつか失われます。この世の交わりは、地上をもって終わらざるを得ないのです。けれども、父なる神との交わりは、この世を超えて、決して失われることのない交わりです。
 なんと神は、私どものただ中においでくださって、信じる者との交わりを与えてくださいました。神は天におられる方、そのお方との交わりをこの地上において与えられること、それが「神が人となって来てくださった」ということです。

 私どもはまた、この世の歩みを終えても、神との交わりに生きることが許されております。それも、完全な者としての神との交わりに入れられるのです。主イエス・キリストの人としての誕生こそが、私どもに神との完全な交わりを与えてくださる恵みであることを覚えたいと思います。

 神との交わりに入れられること、それは神の民として新しく創造されるという、神の創造の御業です。人は、自分の力で新しくなることはできません。ただ神によって、新しくなれるのです。
 人が新しくなるとはどういうことでしょうか。それは、新しい交わりに入るということです。新しくなる、それは自分が思いを変えるということではありません。新しい共同体の一員となるということです。新しい歩みを始めたいと思う人が望むべきは、新しい共同体に生きることなのです。

 今、この現実社会の中にあって、その望むべき共同体が、神にある共同体、神の国の民としての共同体であると思えるならば幸いなことなのです。

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