聖書のみことば
2013年12月
12月1日 12月8日 12月15日 12月22日 12月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 飼い葉桶に眠る御子
クリスマス礼拝 2013年12月22日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/ルカによる福音書 第2章1〜7節

2章<1節>そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。<2節>これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。<3節>人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。<4節>ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。<5節>身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 <6節>ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、<7節>初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 今朝はクリスマス礼拝として、御子イエス・キリストが幼子として私どものところにお生まれくださったことを祝います。大変、大きな喜びです。
 特に今朝は、この愛宕町教会とつながりのある幼稚園や保育園、またキリスト教主義の学校の生徒たちも多く出席しております。そこはまさに、主イエス・キリストが中心にある、ルーツである場ですから、そういう意味で、自分の置かれている場の原点は何であるかを覚える良い機会であると思います。

 そして、共にこの礼拝に集い、クリスマスを祝うという出来事は、神が私どもを顧み、思いを与えてくださってこと、神の招きによることです。それは、「神が喜んでいてくださる」ということと一つです。「神の喜びのうちにある」、そこでこそ、人は存在を得るのです。喜ばれているところで、人は存在を得ます。喜びのうちに自分を見出すこと、そこでこそ人は自分の存在を確かにし、自分を大切にすることができるのです。
 ですから、このようにして共に喜ぶことは、共にお互いの存在を確かにし、互いを尊いものとするという意味で、私どもにとって大切な出来事であることを覚えたいと思います。

 ルカによる福音書が語る主の誕生の次第が、今日の箇所2章1節以下です。そこではまず「そのころ」と、大まかな時代設定がなされております。1節「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」と、当時の世界の中心であったローマ帝国の皇帝から、行政命令が出されたことが記されております。まさに、世界史の動きのただ中で救い主がお生まれになったことを、聖書は記しております。世界の歴史のただ中で、そこではまだ隠されていて人々は知りませんが、「救い主の誕生という形で、既に神の救いの出来事は始まっている」ということが、この2章1節の「登録の勅令」ということに示されていることです。
 このことは、私どもにとっても大事なことです。「登録せよとの勅令」とは、人口調査ということです。私どももそうですが、イスラエルは特に自分の一族のルーツ、系譜を大事にしました。ですから、自分のルーツのあるところ、故郷に登録をするために旅立ったのです。

 何のための人口調査なのでしょうか。一つは「徴税」のため、また一つは「徴兵」のためです。誰が成人した大人かを知り、戦いのための兵力を備えるためです。
 徴兵ということについて、今の私どもはピンと来ませんが、この頃の政府の動きを見ますと怪しいものを感じます。特定秘密保護法の目的は、いずれ「戦争のできる国」にしたいということ、それが安倍政権の言うところの「普通の国になる」ということでしょう。現日本は「戦争放棄」を憲法で謳っておりますから、普通の国ではないと言っているのです。
 そう考えますと、ここに記された皇帝アウグストゥスの時代と変わらないように思います。いつの時代も、国家が力を誇ろうとするときには、財と戦いの準備を必要とするのです。事実を隠す人を、人は信頼できるでしょうか。国家とて同じでしょう。国家が何かを隠せば、人民の信頼を失います。今ここで民主主義が成熟していなければ、国は強権国家となってしまうでしょう。
 国が富や武力を誇るということがどういうことなのかを考えなければなりません。富や武力を誇るところに、人々の平安はあるかどうかということです。富は危ういものです。何かしらの外的ショックによって一変し安定を欠きます。武力も同じです。他国が力を持てばバランスは変わってくるのです。人が頼りにしようとするものは不安をもたらしても、平安を生まないことを知らなければなりません。富も武力も、多く持てば持つほどに、不安になるのです。確かに国力増強は繁栄をもたらしますが、また同時に破綻の不安をも与えるものです。そこでは常に平安はないのです。

 ここに、「登録をせよとの勅令が出た」と記されていることの中に、人の営みとは不安を払拭できないものであるということが言われております。しかし同時に、ここには「人に平安をもたらす救い主の誕生」が記されております。私どもに平安を与える神の御業が、ここに既に始まっていることが示されているのです。世界史のただ中に、人々の知らないところで、私どものための救いが始められているのです。
 神が始めてくださった御業、神が与えてくださる平安とは何かということを、ここから聴いていきたいと思います。

 4節に、救い主はどのように生まれられたかが記されております。救い主は「ヨセフとマリアの子として」生まれられました。「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」とありますように、ヨセフはダビデの家系です。
 ダビデは旧約における最大の王でした。ですから、救い主がダビデの家系から生まれること、そこに人々の期待があるのです。ユダはローマ帝国の属国でしたので、もう一度パレスチナの独立国家となることを人々は願っておりました。王(救い主)を待望していたのです。ダビデの家系から救い主(メシア)が生まれると信じ、待ち望んでいたのです。ダビデの家系からメシア(救い主)が生まれる、ですから、主イエスはヨセフの子でなければならなかったのです。
 全世界が待望するメシアとして、「ダビデの末裔から主イエスが生まれる」、このことが4節に示されていることです。

 5節「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」と続きます。大変配慮された書き方がされております。「身ごもっていた、いいなずけのマリア」と、「妻」ではなく「いいなずけ」と記しております。それは暗に、マリアの妊娠がヨセフとマリアの肉体的な関係のもとにあることではないことを示しております。聖霊によって宿ったことが示されているのです。

 マリアを伴って、ヨセフはダビデの町ベツレヘムに登録に行きます。ヨセフはマリアを妻として登録するのです。それは生まれてくる子を、ダビデの家系の子として登録するということです。
 このことは重要なことです。ヨセフは、神の御心をかしこんでマリアを受け入れ、お腹の子も自分の子として受け入れているのです。ここに、神に従う敬虔な人として、ヨセフは示されております。
 聖霊による宿り、受胎告知に際して、ヨセフとマリアでは、そのあり方が大いに違っております。マリアは天使の告知を信じられませんでした。しかしヨセフは、何も反論せずに御言葉に従います。そこに、ヨセフが神に信頼し、御言葉に従う敬虔な者であることが分かります。
 ダビデの末裔として御子が生まれる。まさしくそれは、人々の待望する救い主の誕生であることが、5節までに示されていることです。

 では、ダビデの末裔である御子は、どのように生まれたのでしょうか。
 6、7節「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。ここは、彼らの泊まる宿屋がなかったことが災いして家畜小屋で主は生まれた、とついつい言われてしまうところですが、そういうことではありません。
 当時は、宿屋などは無いのです。普通の人の宿は、夜を迎えた場所で民家や農家を訪ね、空いている部屋に雑魚寝で泊めてもらったのです。先頃流行の「おもてなし」を目的とするような宿屋など、ありませんでした。居間などに雑魚寝しましたから、そういう所で出産することはできません。しかし旅の途中での出産ということもありますから、そういう場合には、家畜小屋で生んだのです。
 また、「馬小屋」と言われますが、馬がいたわけではありません。当時の馬は戦車の動力のためのものでした。農家の飼っていた家畜は羊やろば、やぎなどの小動物ですから、小動物の家畜小屋なのです。

 では、「飼い葉桶」はどのように連想するでしょうか。馬の食べる餌桶であれば、顔の長い馬の餌桶は深い桶で、そこに赤ん坊を寝かせることはできません。けれども、小家畜の餌箱は横に長く、赤ん坊を寝かせるのに丁度良いのです。ですから、それが飼い葉桶です。舟の形をした餌箱、それがベビーベッド代わりなのです。

 そして「布にくるんで」と、また敢えて書かれております。赤ん坊が体温を保つためには産着が必要です。主イエスの誕生は、普通の赤ん坊の誕生と同じであったということが、ここに記されていることです。
 このことは大いなる出来事です。主イエスは神の御子でありながら「人間そのものと同じ者として」お生まれくださったのです。そこにこそ、私どもの救いがあります。
 人は皆、自分は普通だと思っております。普通であるということは、そこに悲しみも苦しみもあり、挫折も経験し、辛い思いもするということです。主イエスは、そのような普通の者と一つとなってくださった救い主です。そのことによって、私どももまた、神の子とされるのです。
 私どもは神に相応しい者ではありません。けれども、神の方で「私どもと同じ者となってくださった」がゆえに、私どもは神との交わりを与えられ、交わりを生きる者とされたのです。
 今の時代はどういう時代かということを思います。聖書は私どもに、「神共にいます」ことを示しております。けれども、今の時代は孤独な時代です。人は、誰かとの交わりがあって自分というものを知ります。ですから、交わりを失ってしまうと自分を失ってしまうのです。
 残念なことですが、人と人との交わりは、いずれ必ず失われるものです。必ず別れがやってくるのです。人と人に、別れのない交わりはありません。ですから、人同士は完全な交わりを持ち得ないのです。
 けれども、神との交わりは決して失われることはありません。別れのあるところに平安はありません。けれども、決して交わりを失うことがない、決して見捨てられない「神との交わり」によって、人は、尽きることのない平安を与えられるのです。

 「布にくるんで」というところで、もう一つ大事なことがあります。それは、主イエスは「弱さ」を取られたということです。「布にくるむ」ということは、保護を必要とするということです。主は、弱く、虚しく、保護を必要とする者とまでなってくださった、誰かの助け無しには済まされない、そのような者とまでなってくださったということです。私どもと同じになってくださったのです。

 弱さを担い、無力さを担う、そんなことがどうしてできるでしょう。それは、神がなしてくださった業であるからこそ、できることなのです。神は、弱さにおいて、虚しさにおいて、私どもと一つになってくださいました。
 神が共にいてくださること、神の子とされること、尽きることのない交わりに入れられること、それが聖書の語るメッセージです。神の如く完全な者となって、そして救われよ、とは言わないのです。
 救いを「ただ神の方から与えてくださるため」に、主は私どものところに来てくださいました。それが「布にくるんで(くるまれて)」という、主イエスの救いのあり方です。

 主イエスの誕生によって、私どもがその弱さ、虚しさにおいて救われるという恵みが与えられております。神との交わりに入れられることによって、決して失われることのない平安を生きる者とされているのです。
 既に、救いは用意されております。その救いを選び取るのは自分自身です。用意された救いの恵みを、ただ「感謝します」と受けるとき、神は与えてくださるのです。

 「主イエスこそ、わたしの救い」と、感謝をもって受け入れる者でありたいと思います。

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