聖書のみことば
2013年12月
12月1日 12月8日 12月15日 12月22日 12月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 愛によって新たにする
アドヴェント第2主日礼拝 2013年12月8日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/ゼファニヤ書 第3章14〜20節

3章<14節>娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。<15節>主はお前に対する裁きを退け お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。<16節>その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れるな。<17節>お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」<18節>わたしは 祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ お前の重い恥となっていた。<19節>見よ、そのときわたしは お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い 追いやられていた者を集め 彼らが恥を受けていたすべての国で 彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。<20節>そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で お前たちの繁栄を回復するとき わたしは、地上のすべての民の中で お前たちに誉れを与え、名をあげさせると 主は言われる。

 14節、預言者ゼファニヤは、ユダの民に向かって「娘シオンよ、イスラエルよ、娘エルサレムよ」と呼びかけ、「喜び叫べ。歓呼の声をあげよ。心の底から喜び躍れ」と、「大いに喜ぶこと」を呼ばわっております。

 ゼファニヤ書1章1節を見ますと、ゼファニヤの時代は「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代」とあります。ヨシヤ王は宗教改革などをした王として知られている王ですが、この書にはそのことが記されておりません。ヨシヤ王が即位したのは8歳ですから、ゼファニヤが預言者として活動したのは、王とはいえ、まだヨシヤ王が幼い頃だったと思われます。
 その時代、イスラエルは他国の支配を受け、宗教的・文化的にもその影響を強く受けており、決して希望の持てる時代ではありませんでした。そのような、先に光が見えない状況で、ゼファニヤは「主の日の到来」を預言しました。
 神を信じられない民、神の声に聞けなかった反逆の民に対して神の怒りが下されて、怒りが下されることによって罪が終わりとされ、罪が終わりとされた上で、残りの者が集められ、再び神を礼拝する民を立てられるということが、ここに言われていることです。

 そして、「娘シオンよ、喜び叫べ」と言ってくれているのです。なぜ、「喜べ」と言われているのでしょうか。
 それは、神が「ユダへの裁きを退け、敵を追い払ってくださった」からでありますし、また「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」(15節)からであると言われております。ですから、「喜び」の根拠は、一つには「神の裁きが済んだ、終わった」ということにあります。このことを私どもは心しておいてよいのです。
 神に信頼しきれない時代だったからこそ、イスラエルは他国の支配を受け、苦しみを受けました。文化的・宗教的にも影響を受けたために混沌とした状況を生きました。まさにその混沌さこそを、神は「裁き」としてくださり、そのような混沌さの中で自らの存在を見出せなくなった民に対して、「裁きは下された」として「裁きを終わりとして」くださり、「その罪は贖われた」としてくださいました。

 私どもは、「裁き」は人の存在を失わせるものだと考えてしまいますが、そうではありません。人の存在を失わせるのは、苦しみであり混沌さなのです。曖昧さ、混沌さこそが滅びです。それゆえに、神の裁きが下されることを通して、裁きは終わり、悶々とした苦しみは終わるのです。「神を信じない」ところで、人は既に裁かれております。それゆえに、神は裁きを下し「裁きは終わった」としてくださるのです。それが「裁きを退ける」ということです。
 自らの思いの中に放置されること、捕われていること、それが「裁き」です。自らへの捕われゆえに、自らを受け止めきれない苦しみがあります。「その苦しみは終わった」と憐れんでくださる、それが「神の裁き」であり、それこそが「救い」なのです。

 イスラエルを苦しめていたのは他国の支配もありましたから、ここでは「お前の敵を追い払われた」とも言ってくださっております。そして、神が「神の民のただ中にいてくださる」と言われます。このことは、とても象徴的です。「救い」とは、この世の支配から解き放たれて、「神の支配に入れられること」です。それは「神の国が実現する」ということと一つです。
 「救い」ということを、私どもはしばしば個人の心情と錯覚いたしますが、そうではありません。「救い」とは、「神の支配が現実となること」、私どもが「神の国の一員とされること」に他なりません。「救い」とは、「神の国の民とされた恵み」を言い表しているのです。

 「神の国の民とされる」ことは、何と幸いなことかと思います。今、私どもの国の状況を考えますと、様々な事柄に右往左往させられるばかりで、現実のすべての状況において、どこにも救いを見出すことはできません。人々の求めの実現よりも、まずは国の繁栄、力ある者の繁栄が求められております。しかし、たとえ国が繁栄したとしても、そこに人々の喜びがあるでしょうか。繁栄は混沌を生み、混沌によって虚しさが生まれることでしょう。
 そのような中にあって、神の支配、神の統治を思うことができることは幸いなことです。なぜならば、一人ひとりの存在の尊さを感じることができるからです。かつて日本基督教団は、この世に神の支配を実現するためにと、社会活動に目を向けることを第一としました。それは大事なことではあります。しかし、理想の実現はなし得たかと言いますと、なし得るものではないのです。そうではなくて、どのような状況、混沌の中においても、決して絶望することなく、一人ひとりの存在を尊しとできるならば、そこに神の統治を思うことができるならば、人は慰めを得るのです。
 ですから、「救い」は個人の心情なのではなく、「ここに神の支配があり、その神の国の中に自分を見出すことの喜びを信じる」ということです。ここに語られていることは、「イスラエル(ユダ)の王として、神の民との王として、神が統治される」こと、それが「恵みである」ということです。このことを信じることができるならば、決して望みを失わず、希望を持って生きることができるのです。そうであれば、私どもの国にも神の救いを見出すことができるのです。

 イスラエルの罪を終わりとし、他国の統治から神ご自身が民を統べ治めてくださることが宣言されるゆえに、「お前はもはや、災いを恐れることはない」と語られます。「神こそがイスラエルの王である」ことを思い起こさせてくださっているのです。
 ユダはアッシリアの支配にあり、ゆえに異教の神を拝み混沌のうちにありました。それゆえに、「あなたがたは十分に苦しんだ」と、神は、ユダが神の民であるがゆえに憐れんでくださり、苦しみを終わりとしてくださいました。
 私どももまた、苦しみにあるそのときに、「あなたの苦しみは、もう十分である」との神の声を聞いてよいのです。私どもは自らの力で苦しみや虚しさを終わらせることはできません。ですから、神が「裁きを退ける」としてくださることは、慰めです。「もうそれで良い」と憐れんでくださるのです。それが神のくださる恵みです。私どもの苦しみゆえに、神が顧みてくださるのです。それがここに記されている神の恵みです。

 ゼファニヤ書のこの箇所は、待降節に読まれる御言葉として重んじられております。主イエス・キリストを預言する代表的な聖書箇所なのです。
 待降節に語ることは何か。一つは「暗さ」です。人の世の罪ゆえの暗さ、人の救いの無さです。しかしその暗闇の中に、「神は確実に救い主を用意してくださっている」ということ、そして「神にある平和(神と人とにある平和)」、「主の再臨の希望(神の国の完成)」を思い起こすこと、それを語ります。待降節と言いますので、主イエスの誕生を待つ、準備する時だと間違って聞いて、待降節はクリスマスを迎える準備とすり替わってしまいますが、そうではありません。「想起、思い起こすとき」であることを忘れてはなりません。
 教会歴は、待降節から新しい一年が始まります。今年であれば、12月1日が一年の始まりの日でしたから、1日に「新年おめでとうございます」と説教しても良かったのです。

 私どもは、一年のサイクルの中で、信仰の曖昧さを経験していきます。ですから、この待降節のときに、「信仰とは何か」を思い起こしリセットする、そのことの大切さを教会歴は整えております。キリスト教においては、イースター、ペンテコステが信仰の中心ですから、教会歴において待降節は、一番最後にできた最も新しいものです。そういうことから、オランダ改革派教会のように、今でもクリスマスを祝わない教会もあるのです。
 「自らの信仰生活を新たにする」、それが待降節です。クリスマスの準備なのではなく、「私どもの信仰をもう一度鮮やかにする」ために備えられているときなのです。ですから、今日のこの聖書の箇所は大事です。私どもの曖昧になっている信仰生活を新たにしてくれる御言葉なのです。「あなたは、神の民なのだよ。あなたを支配し導いているのは神であって、この世ではないのだ」ということを鮮やかに示してくれるのです。「神はあなた方のただ中にいる。あなた方は混沌の民なのではなく、神の民である」と鮮やかに示してくれているのです。
 私どもの慣れ、垢を落とし、「信仰を新たにする」それが待降節です。

 そして、「信仰を新たにする」に当たってゼファニヤが語ったことは「喜び」です。「喜びに満たされること」、それが「信仰を新たにすること」なのです。「神の民とされている」ということは、「大いなる喜びをいただいていること」です。ゼファニヤは、「喜び」をユダの民に対して宣言しております。しかしこのことは、ユダに対してのみならず、この御言葉を聴く私ども、神の民に対しても語られているのです。すなわち、私どもに対しても「喜べ」と呼びかけてくれているのです。
 信仰を新たに、鮮やかにすることは、私どもの喜びを鮮やかにすることです。「罪は終わった」と主は言われます。もはやこの世の支配の内ではなく、「あなたは神の支配のうちにある。神があなたのただ中にいる(17節)」と言ってくださるのですから、それは「喜び」以外にはないのです。

 17節は、「主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」と続きます。しかしどうでしょうか。「喜べ」と言われて、喜べるものでしょうか。なかなか喜べるものではありません。なぜかと言えば、神の恵みはあまりにも大きすぎて、人を萎縮させるからです。「こんな罪深い私を憐れみ、救ってくださって…」と、ただただ申し訳ありませんと言わざるを得ないからです。人は「赦されている」という実感だけでは、喜ぶことはできません。「こんな罪人が救われるとは…」と、本来有り得ない「罪人をも救う、圧倒的な恵み」の前に、くずおれるしかないのです。

 では、そこでどうして喜べるのでしょうか。それは「神が喜んでくださる」からです。「主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」、神が喜び、神が抱きしめてくださるからこそ喜べるのです。
 ルカによる福音書15章を思い出してみてください。そこでは、迷い出た羊(者)を神が見出してくださり、喜んでくださることが示されております。けれどもそこで、迷い出て見出された者の気持ちはどうでしょうか。父親の財産を浪費した息子は、豚の残飯をあさるしかなくなったときに我に返り、父親の元に帰るしかないと、帰ることを決意します。しかし、父親に会うことは、どんなにか萎縮した思いだったでしょうか。しかし、そのように萎縮した者を、まだ遠くであったにもかかわらず父の方から見つけ、喜び、迎い入れ、抱きしめてくれることが記されております。
 私どもが喜べるとすれば、それはどうしてか。「この罪の身を贖ってくださった…」とくずおれる私どもを「神が喜んでくださる」、その「神の喜びを知る」からこそ、私どもは喜びに満ち溢れることができるのです。

 喜びというものは、自分の心に強いて生まれるものではありません。「喜びのうちに包まれて、神の喜びに包まれて」しか、生まれないのです。人はそう簡単に喜べません。私どもの救いのために、神が痛んでくださったこと、主イエス・キリストの流された尊い血潮、その贖いの恵みの大きさを知るならば、私どもはただただくずおれるしかなく、単純に喜ぶことはできません。「愛する我が子を十字架につける」、そこまで犠牲を払い損をしてまでも、私どもを憐れみ、救ってくださって、「神が私どもの存在を喜んでくださる」からこそ、私どもは喜べるのです。
 だれが私どもの存在をそれほどに喜んでくれるでしょうか。たしかに、喜んでくれる人はいないわけではありません。けれども、神ほどに私どもの存在を喜んでくれる方は他にはいないのです。父なる神は「我が子を十字架につけてまで」私どもの救いを喜んでくださる方、そのような方は、他にはおりません。その神の喜びを感じるからこそ、私どもは「喜んでよい」のです。

 ゼファニヤは「喜べ」と言い、その「喜びの根拠は神にある」ことを神の言葉として語ります。「主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」、「お前のゆえに」と言ってくれております。まさに私どもは、この礼拝によって何を見出すかということを覚えてよいのです。礼拝によって思い起こすことは何か。それは「神の招き」によって、私どもは今この礼拝にあり、神の民とされているということです。今日この礼拝に集うことを、私どもは喜んだかどうか。必ずしも喜ばなかったかもしれません。けれども、私どもが礼拝に集うとき、神は喜んでいてくださいます。まさに私どもがここにあることは、神の喜びのうちにあることです。それが「神がこのただ中にいてくださる」ということです。そして、私どもを神が喜び、神の喜びを現してくださっているのです。神の喜びのうちに私どもは抱きしめられているのです。それが、この「礼拝」の出来事なのです。

 日常生活の中でこの世に埋没するしかない私どもを、「愛によって新たにし、新たに神の民としてくださる」のです。罪に過ぎない私どもを憐れみ、神の民とすることを喜び、その喜びで包んでくださるのです。

 新しい一年の信仰の歩みを始めるに当たって、信じてよいのです。救い主を仰ぎ見ることによって、「神が私どもを愛し、神の民として新しくし、神が喜んでくださっている」ことを見出してよいのです。そして、神が私どものただ中にいてくださることを覚えて「神の民として喜ぶことを得させてくださっている」ことを、感謝したいと思います。

 私ども愛宕町教会のただ中に、神がいてくださいます。私どもは、神の喜びの民、神の恵みの民です。
 罪の自覚をすることは重いことです。自力ではなし得ません。ただ恵みを見出すことによってしかなし得ないことです。
 けれども、罪を自覚した者を喜んでくださる「神の喜び」を知るときに、「この罪の身が喜びに変わる、喜びに満たされて生きることができる」のだということを感謝し覚えたいと思います。

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