聖書のみことば
2013年12月
12月1日 12月8日 12月15日 12月22日 12月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 すべての人に仕える者
12月第1主日礼拝 2013年12月1日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第9章30〜37節

9章<30節>一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 <31節>それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。<32節>弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。<33節>一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 <34節>彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。<35節>イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」<36節>そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。<37節>「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 30節に「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」と記されております。「そこ」とは、前節で主イエスが入られた家です。
 この30節の言葉に暗に示されていることは、「主イエスがどこかを目指しておられる」ということです。

 ガリラヤは、主イエスの活動の場でした。主はガリラヤで、神の子として人々に教え、多くの奇跡(癒し)をなさいました。けれどもここで、「ガリラヤを通って行った」ということは、ガリラヤは目的地なのではなく、通過点に過ぎないということです。
 ガリラヤでの主イエスの活動は、主の力の大きさを人々に示し、人々を従わせるものでした。けれども、主イエスはそのことをもって良しとはされないのです。どうしてでしょうか。ガリラヤは熱心党の活動の場でありました。つまり、反権力に心熱くする人々が多くいる地であるということです。そこで主イエスがユダヤ人の王としてご自身を示されたならば、人々は熱狂して支持し、ローマ帝国打破のために立ち上がったことでしょう。そうであれば、主イエスの活動の目的は反ローマということになるのです。
 けれども、主イエスはそのことを求めてはおられない。人々に君臨する政治上の覇者となることを主は求めておられない、ゆえに、ガリラヤは主の活動の場であったにもかかわらず、主は人知れず(30節「人に気づかれるのを好まれなかった」)、ガリラヤを通って行かれました。

 このことは大変興味深いことです。主イエスは、ガリラヤで、大変目立つ活動をなさいました。けれどもそれは、人に知られることを目的とした業としてなさったのではなかったということです。ガリラヤは、主にとって通過点に過ぎないのです。ここに、ガリラヤでの出来事が「人の思いを超える出来事」であったことが示されております。

 では、主イエスはどこに行かれるのでしょうか。目的地はどこなのでしょうか。
 30節に「ガリラヤを通って行った」とあり、それから2つの話が入っております。33節「一行はカファルナウムに来た」とありますので、そこへ行かれたのかと思いますが、そうではありません。カファルナウムはガリラヤの一つの町ですので、ここでの主の教えも業も、やはり通過点に過ぎないのです。主の目的地は、10章32節で明らかにされます。「一行がエルサレムへ上って行く途中」とあります。ガリラヤを通過してエルサレムへ行かれる。エルサレムが目的地なのです。
 けれども、このことは、この時点ではまだ隠されていることです。ここでは「エルサレム」とは出て来ませんが、エルサレムで何がなされるのかを、主は話してくださっております。主イエスは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(31節)と言っておられたことが記されております。目的地で起こることの内容、それは、「主イエスが人々の手によって殺され復活する」ということです。つまり、エルサレムは「主の十字架と復活の場である」ことが示されております。

 「主の十字架と復活の預言」は、8章31節でも既に語られており、ここは2回目の預言ですが、1度目と2度目には違いがあり、その違いが何なのかということを聴いておいてよいのです。
 1度目に主イエスが言われた場面は、弟子たちを代表してペトロが「あなたは、メシアです」と言った「メシア告白」を受けての言葉でした。8章31節「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」と、「メシアはこの世の権力者によって苦しめられ殺され、そして復活する」ことをご自身で語ってくださいました。弟子たち(教会)が「主イエスはメシア」と告白したことと重ねて、「メシアとは、いかなる方なのか」、それは、政治的な権力者なのではなく「苦しめられ殺され、復活するメシアである」ことを言い表すものでした。
 では2度目の、ここでの預言はどうでしょうか。主イエスの目的地はエルサレムであり、ここでは、「エルサレムでの十字架の死と復活」を先取って語られております。1度目は「メシアとは何か」であり、2 度目は「十字架と復活こそが、主の活動の中心、最終目的地である」ことが示されているのです。しかしこのことはもちろん、隠されたこととして、ここでは語られております。

 ガリラヤは、主の活動の中心地ではありませんでした。ガリラヤは通過点に過ぎず、主の活動の最終目的地はエルサレムであり、「十字架と復活」であることが鮮やかにされていることを、改めて覚えたいと思います。
 「主イエスが来られる」、それはまさしく「十字架と復活のために」来られるのです。「人々の罪の贖いとなり、永遠の命を与えるために」来られるのです。そしてそれこそが、主の目的の中心なのです。
 私どもは、このことを真摯に受け止めなければなりません。もしも、ガリラヤが主の目的の中心であったなら、どうであったかを思わなければなりません。そこでは、人々は、主イエスを王として、偉大な権威ある方として誉め称え、喜んで従ったことでしょう。「人々が主イエスに仕える」とすれば、それは、主が人々をご自身に従わせるために来られたことになるのです。それが、ガリラヤでの活動を中心に据えたときに起こり得ることです。そこで為された業が大いなる業であればあるほど、力を誇り人々を従わせることになる。しかし、主イエスはそのことを目的とはなさらないがゆえに、人々に知られないようにさえして、通って行かれたのです。

 しかしなぜ、ガリラヤで大いなる業をなさったのでしょうか。それは、ご自身の神の子としてのしるしを人々に見せるためになされたことです。

 では、「十字架と復活」とは何なのでしょうか。それは「人々の救いのための業」です。「人々に仕えるための業」なのです。主イエスの十字架と復活は、「仕える者」としての業です。「人々を救う」という「父なる神の御心に従う業」です。ですから第一義的には「神に仕える」ために、主は来られました。
 そして第2義的には、「人々を救うため」、つまり「人々に仕えるため」に、主は来られました。主が「仕える」という場合には、二重の意味であることを忘れてはなりません。「神と人とに仕える」という二重の意味なのです。 このことは大事なことです。神抜きに人に仕えなければならないとすれば、人の自分本位な思いのゆえに、本末転倒なことが起こるからです。自分に都合良く何でも裏返しにしますから、神抜きに仕えることは、却って人を仕えさせることになるのです。
 そうではなく、「神に仕える者」として「人に仕えてくださった、人々の救いのために仕えてくださった」、それが「主の十字架と復活」の出来事でした。
  主イエスがガリラヤで留まられたならば、主は人々に仕えられる者となったことでしょう。しかし、主イエスはそのことを良しとはなさいませんでした。主はエルサレムで十字架に死に、復活なさいました。「人々の救いのために」十字架についてくださったのですし、復活されました。それはとりもなおさず、「神に仕える者として、人々に仕えてくださった」ということです。ですから、ガリラヤが通過点であるというこのメッセージは、主イエスの十字架の恵みがいかに大きな業であるかということを示していることとして、とても大事なことであろうと思います。

 主イエスは、ご自身の活動の中心が「十字架と復活である」ことを語ってくださっておりますが、しかし、32節「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と記されております。なぜ「怖くて尋ねられなかった」のでしょうか。
 33節「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった」と続いております。カファルナウムの家とは、ペトロの家なのでしょう。ここで、主イエスはもちろん、すべてをご存知ですが、「途中で何を議論していたのか」と弟子たちに聞いてくださいました。34節「彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」とあります。弟子たちは、「だれがいちばん偉いか」と議論していたので、答えることはできませんでした。 「だれがいちばん偉いか」、それは「だれが他者の上に立つのか、最も優れた者として認められるのか」ということです。

 人々の上に立ち、人々を仕えさせたい、それが人の思いであることを示されます。人の思いとは、人に仕えるのではなく、人に仕えて欲しい、人から賞賛を受けたいと思うということです。賞賛を受ける、誉めてもらうということは、実は、相手を仕えさせることです。その思いの内にあることは、自分が他者のために何ができるかということではなく、他者が自分に何をしてくれるかと思う隠された思いなのです。
 ですから、この弟子たちには「主イエスが人々に仕えるためにご自身の命までもささげてくださった」ということを理解できはずがありません。自らの思いとはかけ離れた、主イエスの御心なのです。弟子たちは、他者を仕えさせることしか考えておりません。自分の都合が優先する、それが主の十字架と復活を理解出来ない原因です。

 ここで、「怖くて尋ねられなかった」とは、面白いことです。言われていることが分からなかったから聞けなかった、というのなら分かります。確かに、主イエスはまったく分からない話をなさっているのですから、弟子たちが無理解であることは分かります。けれども、彼らは何が怖かったのでしょうか。単に話が分からないということではなく、「だれがいちばん偉いか」と考える自分中心な考え方が明らかになることが怖かったのです。知られることが怖かった、自分の本心を知られることが怖かったのではないかと思うのです。
 他者から誉められたいし人々を仕えさせたいと思っている、そういう本心を見透かされるのが怖かったのです。だから尋ねられなかったのです。「怖くて尋ねられなかった」思いは、33節の「だれがいちばん偉いか議論していた」ことに繋がっていくのです。自分の罪深さがあらわにされることが怖かったのです。それが主イエスの思いとどんなにかけ離れているかということが鮮やかにされるのが怖いと、弟子たちは直感的に感じたのです。自分のそのような思いを、しっかり理解していたわけではないでしょう。

 「さらけだす」ことの怖さを、人は持つのです。「この身の罪を知る」とは、どういうことかを思います。それは、自らの力、思いでは語れないことです。怖さがあるからです。けれども、主イエス・キリストが、そのような秘められた罪のために贖いとなってくださったことを知るときに、語れるようになるのです。「十字架と復活の恵み、神の恵みを知る」ことのゆえに、自らの罪深さを知り、「主よ、憐れみたまえ」と言えるのです。「十字架と復活」が、「このわたしのため」であったことを知って初めて、「わたしを救ってくださったこと」を、「この罪人を救ってくださったこと」を感謝できるのです。
 しかしこのことは、「神から」によってしか、なし得ません。神の働きがあって初めて、語れることなのです。

 そこで、私どもにとって大事なことは「祈り」です。「どうか、このわたしに働いてください」と、主の業を、聖霊の業を求める、それが祈りです。
 私どもが祈るとき、既に私どもは聖霊の内にあると、使徒パウロは語りました。祈ることは聖霊の出来事です。祈るときに分かるのです。十字架の贖いと復活によって永遠の命が与えられていることを知るのです。

 私ども愛宕町教会が伝統的に大事にしてきたことは、祈りでした。「聖霊の導き」ということを大事にしてきたのです。それは「神の出来事をこの身に感じつつ生きる」ということを大事にしてきたということです。
 改めて「祈ることの恵み深さ」を覚えたいと思います。祈ることは、聖霊がこの身に臨むことです。このわたしのための十字架と復活だったことを深く深く知り、感じ、感謝する。そのときに、私どもは、この身の罪深さを語ることの怖さから解き放たれる。解き放たれて「救われたことの喜びを語る者となる」のです。

 

「この罪の身に、聖霊よ、臨みたまえ」との祈りなくして、聖霊の導きなくしては済まされない、そのような日々を歩み行く者でありたいと思います。共々に祈っていきたいと思います。

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