聖書のみことば
2013年12月
12月1日 12月8日 12月15日 12月22日 12月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 信仰が現われる前には
アドヴェント第3主日礼拝 2013年12月15日 
 
小島章弘牧師 
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第3章23〜29節

3章<23節>信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。 <24節>こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。<25節>しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。<26節>あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。<27節>洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。<28節>そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。<29節>あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

 アドベント第3主日を迎えました。キリストのご降誕を真近かにして、このような罪深いわたしのところにも、憐れみを持っておいでになるキリストを迎える喜びを噛みしめたいと思います。
 聖書は、どこを開いてもそこにキリストが出てくる金太郎飴みたいなものだと言われます(マルチン・ルターは、「聖書は、キリストが伏しておられる馬舟である」と言いました)。ですから、どこからでもクリスマスを読み取ることができるわけです。

 今日は、ガラテヤの信徒への手紙からメッセージをいただきます。
 書き出しは、「信仰が現れる前には…」となっています。
 ガラテヤの信徒への手紙、ヨハネ黙示録などの研究で知られている佐竹明先生の個人訳では、「信仰が来る以前は…」となっています。「信仰が来る」とはどういうことでしょうか? パウロは何を書こうとしているのでしょうか? ここは、「信仰」の代わりに、「キリスト」と置き換えてもいいでしょう。信仰が来るという表現は奇異に感じられるのですが、「キリスト」と読み替えてみるとわかりやすいと思います。

 読み替えて、この箇所を読んでみますと、「キリストが現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、このキリストが啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストの下へ導く養育係となったのです。わたしたちがキリストによって義とされるためです。しかし、キリストが現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」となります。
 非常にわかりやすいのではないでしょうか。パウロが言おうとすることがスーとしみこんでくるように思います。

 「キリストが来る」とは、「キリストの到来」ですから、クリスマスの出来事になります。聖書のどこを開いても、そこにキリストが出てくるということになります。
 アドベントとは、「到来」という意味がありますが、まさに「救いが来る」ということです。

 誰もが、重たい苦しみを抱えています。人に言えないようなものです。そのような人間のところに来てくださるのが、神の愛であり、救いです。従って、クリスマスは歓喜の出来事です。苦しみ、人間の闇に宿ってくださる神の出来事です。
 あの作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、第九を作曲しましたが、その時には家族の苦悩を抱えておりました。それで彼は第九に合唱曲をつけています。シェラーの詩を。耳を病んでいる中で。(私自身は、第7番の交響曲が好きですが)年末には日本では、第九が演奏されます。苦悩の中に喜びに来るのだということ思わされます。

 パウロは、ファリサイ派の人であったばかりではなく、当時律法については第一人者であったガマリエルに師事していました。ですから、律法のプロでありました。したがって律法について語らせれば、非のうちどころない人物でありました。
 これまでもガラテヤの信徒への手紙で律法主義についてかなり厳しいことを書いてきましたが、ここに来て律法そのものについて雄弁に語り始めます。

 まず、パウロは、「律法は、わたしたちを監視するもの」だと言います。律法は、神から直接与えられたものではなく、天使の手によって授けられたものであると言います(3:19〜20、ヘブライ人への手紙2:2)。
 
アブラハムへの約束から430年後。何のためかというと、「違反を明らかにするために付け加えられたもの」であると言うのです。ここでの「違反」は、罪との意味もあります。つまり、「罪を明らかにする」というように訳すこともできるわけです。
 ローマの信徒への手紙
77〜8節に、「律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければわたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです」。パウロは、ここで「約束の信仰によって生きる道」を導き、律法は、逸脱することを監視するものだと言うのです。だから、律法は私たちを暗い世界に誘うことになると考えていたのです。あたかも牢獄に私たちを閉じ込め、監視しているようなものだということです。
 つまり、律法は私たちを閉じ込める牢獄であり、同時に私たちを監視しているようなものだということです。牢獄に入れられるというのは、律法を冒したからに他なりません。律法を守れないからです。律法に違反したからです。律法は常に私たちが勝手気ままにならないように見張りしているわけです。したがって、私たちは、律法の前では暗い気持ちにしかなれないのです。閉じ込められ怯えて生きていく以外になかったのです。
 その牢獄からの解放は、キリストの出現によって現実的なものになったというのです。信仰は、キリストは、私たちを自由にしてくれたというのです。信仰によって、暗さの中から明るいところへと導くものがキリストだというのです。キリストによって、新しい世界へと生きるようになったのです。

 さらに、パウロは、24節で、「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係(パイダゴーゴス)-教師、守役―となったのです」と言います。それはわたしたちが、義とされるためなのです。したがって、キリストが出現したので、養育係(律法)は不用になったというのです。つまり、私たちが「キリストによって生きる者となるため」だと言います。びくびく生きること、恐怖に怯えることから、まったく自由に生きていくことへの導きです。キリストが現れたので、信仰が現れたので、罪人でありながら義人とされているからです。神に愛され、生きる神の子とされたのです。
 要するに、律法を守れるとか守れないという基準、できるかできないかという基準から解放されて、自由になったのです。キリストによって、神が生かしてくださるという世界へと導かれたことになります。

 そのことは、即「神の子とされるということ」であるとパウロは言います(堤一枝さん)。そのことを、「キリストを着る(義をまとう)こと」でもあると付け加えています。これは、洗礼(バプテスマ)を意味していることだといわれます。それによって新しい人間にされ、階級、民族、性別の垣根、民族的、宗教的、文化的差別と対立の垣根が取り去られ、社会的、階級的、生活的差別、生来的、身体的、能力的差別と対立を超越することができる。
 95歳で死去された南アフリカのネルソン・マンデラさんも、メソジスト教会で洗礼を受けていました。キリストを着ていたのです。

 キリストを着ることによって、誰もがまったく平等になることが可能とされたということです。パウロは、最も古い言葉28節で洗礼式文を残したということも言えます。

 「キリストを信じることによって救われる、決して律法の実行によるものではない」と言い続けてきました。キリストが十字架において死ぬことによって、それまでの牢獄から脱出できたのです。
 けれども、律法をただ悪の根源だと見ることはできません。それなりの役割を持っていたことをパウロは認めていました。 律法は、「罪を認識させる」役目を持っていましたことは確かなことです。また、まちがったり、正しい道に引き戻す役目を持っていたということが明らかにされました。

 パウロは、クリスマス物語(マタイによる福音書、ルカによる福音書)を知りませんでした。処女降誕も。
 しかし、パウロは、キリストの出現、ご降誕の深い意味を信じて生き抜いたことは確かです。

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