聖書のみことば
2026年3月
  3月1日 3月8日 3月15日 3月22日 3月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月8日主日礼拝音声

 赦しと悔い改め
2026年3月第2主日礼拝 3月8日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第17章1〜4節

<1節>イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。<2節>そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。<3節>あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。<4節>一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

 ただ今、ルカによる福音書17章1節から4節までをご一緒にお聞きしました。
 1節に「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である』」とあります。主イエスがはっきりとした口調で、「このような人は不幸である」とおっしゃっています。「つまずきをもたらす者、そのような人は不幸だ」というのです。主イエスがこんなにもはっきりと「不幸だ」とおっしゃるのは、珍しいことです。ルカによる福音書の中では6章の「平地の説教」と呼ばれる箇所で「幸いと不幸の教え」を教えられた以外は、11章でファリサイ派のあり方に対して「あなたたちは本当に不幸だ」と言われます。それはまさにファリサイ派の人たちが他の人につまずきをもたらすようなあり方をしているからです。後は一度だけ、主イエスが十字架にかけられる前の晩、最後の食事を弟子たちとお取りなった時、その席上で「人の子は定められたとおり去ってゆく。だが人の子を裏切るその者は不幸だ」とおっしゃいます。改めて言うまでもありませんが、イスカリオテのユダのことを思ってそのようにおっしゃいます。

 その「不幸だ」という言葉が、今日のこの場面で主イエスの口から聞かれるのです。「つまずきをもたらす者、その人は不幸だ」とおっしゃいます。主イエスはまことに強い思いを込めて、この言葉を口にしておられるのですが、日頃私たちはそのことに気づいて、このところを聞いているでしょうか。もしかすると、人の人生には不幸というものはつきものであるように思っていて、この主イエスの言葉を何となく聞き流しているということがあるかも知れません。
 私たちとすると、主イエスがここでおっしゃっている話の中で何とも気になる言葉は、むしろ次の2節の言葉かも知れません。2節に「そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」とあります。主イエスが「不幸だ」とおっしゃっている言葉にはさほど強い印象を持たない人も、「つまずきをもたらす者が首にひき臼を懸けられて海に投げ込まれる」と聞かされてギョッとする、あるいはゾッとするのではないでしょうか。
 しかし、ここは正確に聞き取る必要があります。主イエスは、他人をつまずかせる者が首にひき臼を結びつけられて海に投げ込まれるという警告をなさっているのではありません。そうではなくて、「そのような仕方で海に投げ込まれる方が、他人をつまずかせるよりも、まだましだ」とおっしゃっているのです。
 首に重りの石を結びつけて海の中に投げ込むというのは、当時のローマ帝国で十字架刑と並ぶ、もう一つの有名な処刑のやり方だったようです。重石を首に結んで海の中に投げ込むと、もう二度と生きて浮上する見込みはありません。ですので、これは処刑の方法なのですが、陸上で日頃生きている人間を海の底深くに沈めて処刑するというやり方は、その犯罪人の地上にあった痕跡を海の底深くに沈めて見えなくするという意味があります。処刑される犯罪人の存在を地上から完全に抹消して見えなくするという、これは極刑中の極刑でした。ですからこのような仕打ちを受けることは、どんなことにも増して不幸なことだと思われていました。主イエスは、そういう極刑を一方の例に挙げて、しかし、他の人につまずきをもたらす者は、それよりも更に不幸だと教えられました。これを聞いた時、弟子たちは大変に驚いたのではないでしょうか。

 考えてみると、私たちの信仰生活の中で、つまずきという出来事は始終起こるとまでは言えないとしても、時々は起こり得るようなことではないでしょうか。悪気をまったく持たないで口に出した言葉や行動が重大な結果を起こしてしまうとは思わず、私たちが行ったことをめぐって、他の誰かが大いに悲しんだり立腹したりして、これまで共に礼拝してきた生活から離れてしまったという辛い思い出のある方もいらっしゃるのではないでしょうか。元々悪気があって言ったりやったりしたことではないのです。それどころか、自分としては誰も刺激することのないように、丁寧に行ったつもりでいたのに、その思いが相手に伝わらなくて、まるで一方的に自分が相手に対して悪いことを行ったように思われて人間関係がこじれてしまうということは、誰の上にも起こり得ることであるように思います。その人間関係のねじれが、ただ単に相手との間柄が気まずいというだけではなくて、遂には顔を合わせることがすっかり嫌になって、神を礼拝する生活から抜けてしまう、そんなことがもしも起こりますと、自分ではそんなつもりはなかったのに、しかし確実に自分の存在が原因で兄弟姉妹を一人失ってしまったという責任を感じたりもするのです。
 実際にそのような辛い出来事が起こる時には、おそらく私たちは、礼拝から姿が見えなくなった兄弟姉妹について、「この教会の礼拝でなくても良いからどこかの教会の礼拝につながることができて、神から完全に離れてしまうのではなくて、なお神の保護の内に生きてゆけますように」と執り成しを祈ることになるでしょう。神はその祈りを聞き上げてくださり、その人がどこか別の教会の礼拝の群に導かれ、そこで神につながり、信仰を支えられて生活するようになるかも知れません。

 ところでそういう出来事は間違いなく残念な出来事ではあるのですが、しかし何年かの内に一度くらい、多くの教会で起きてしまう出来事のようにも思うのです。主イエスもおっしゃるように「つまずきは避けられない」からです。私たち人間は決して、天使のように清らかな存在ではありません。地上の教会が人間の集まりである限り、そこでは人間臭い対立や争いや破れの出来事が生じてしまう場合があるのです。本当に残念なことですが、事実は事実として認めなくてはならないと思います。私たちの教会にも、教会と連絡がつかなくなっている兄弟姉妹が何人かいらっしゃいます。その中には、ご本人とすれば願っていたけれども、心ならずも教会との関わりが何らかの事情のためにつかなくなってしまった方もいらっしゃいますが、しかし自分からフェードアウトしている方もいらっしゃいます。そのようなことを憶えるのは教会としては辛いことですが、しかし現実なのです。

 ところで主イエスは、そのような事情を大変深刻に受け止めておられるのです。つまずきは避けられないけれども、そのような一つ一つの出来事をもたらしてしまった人は、ローマ帝国によって最も残忍な仕方で処刑される方がまだましだとおっしゃいます。これは、自分の身に覚えがあって聞く人には、耐え難く感じられるほど厳しい言葉ではないかと思います。誰かをつまずかせてしまうくらいなら、その人自身の存在が抹殺されてしまった方がまだましだという話だからです。そういう思いを込めて主イエスは、「つまずきをもたらす者は不幸だ」とおっしゃっているのです。
 おそらくこの言葉は、特に教会の牧師たちの心には、厳しい痛みと悲しみを呼び起こす言葉ではないでしょうか。伝道牧会の働きに仕えることは大変光栄なことではありますが、必ずしもその結果が常に芳しいと決まっているわけではないからです。牧師につまずいて礼拝を離れる教会員もいるかも知れません。すると多くの牧師たちは、大きなひき臼を首にくくりつけられて海の底に沈められた方が良かったと言われているようにも聞こえるからです。今日の箇所には本当に厳しい事柄が語られているのです。

 しかし現実には、牧師たちは誰も海に放り込まれたりはしません。それは何故でしょうか。牧師たちが皆人格的に立派な人たちで、誰もつまずかせたりしないからでしょうか。あるいは、つまずいても口を拭って平然としているからでしょうか。そうではありません。実は牧師の多くが「自分のような者が主の光栄ある務めに用いられているのだろうか」と不思議に感じながら働きに当たっています。実際、海の底に沈められるとしても仕方がない、そういう破れを抱えながら、主イエスに仕えている牧師は少なくないように思います。けれども、そういう欠けの多い者たちが、何故海に沈まずに働き続けているかというと、実は牧師たちに代わって、存在のすべてを破壊され地上から抹殺された方がいらっしゃるからなのです。その方は、海に沈める刑罰と並んで残忍な処刑法として知られていた十字架刑よって、十字架上で丸裸にされ、すべてをはぎ取られ、苦しんで亡くなられました。この方がすべての牧師たちに代わって亡くなってくださり、その死によって罪を執り成してくださっているからこそ、牧師たちは海の底に沈められずに、むしろ自分たちのために十字架上に死んでくださった方を指差しながら、「あなたは今日、命を生きることが赦されている」という福音を語り続けることができるのです。
 そして、この方の死によって執り成されているのは、決して牧師たちだけではなくて、すべてのキリスト者に当てはまることなのです。キリスト者になるには洗礼を受けますが、あの洗礼に用いられる水は、古い私たちが一度死んで、主イエスから新しい命を頂いて生き直す人生を辿っていることを表しています。キリスト者一人ひとりは洗礼を受ける時に、それまでの自分が首に大きなひき臼を括られて海底深くに沈められるということが起こっているのです。そして、その水から引き上げられ、主イエスによって執り成されている者として、新しい命を生きる生活が与えられています。私たちは皆、主イエスによって清められている新しい命を、一人の例外もなく生きるようにされています。

 ですから主イエスは今日の箇所で、深い罪のことをお語りになった後、罪を戒め、赦しに生きることを教えられます。3節4節に「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」とあります。
 「あなたがたも気をつけなさい」と言われています。一体何に気をつけるように言われているのか、ここには訳し出されていませんが、原文にはちゃんと書いてあります。「あなたがたは、あなたがた自身に気をつけなさい」と主イエスは言っておられます。「自分自身に気をつける」とは、どういうことでしょうか。誰のこともつまずかせないようにするということでしょうか。しかし、つまずきは避けられないことだとも言われています。私たちは悪意をもってつまずかせるわけではないので、避けられないのです。つまずかせた側は悪くなくて、つまずいてしまった側が思い違いからつまずいてしまうこともあるのです。そういう意味では、誰かをつまずかせてしまうということは、誰の身にも起こり得ることです。元々私たちには、神を抜きに生きてしまうような罪のへの傾きがありますから、何かのきっかけで、神から離れ主イエスも抜きになってしまう可能性は、どなたの中にもあります。つまずきの原因にならないように気をつけていても、それでも誰かをつまずかせてしまう、また自分がつまずいてしまう可能性はゼロではないのです。
 むしろ、自分自身に気をつけ気を配るというのは、他人をつまずかせるかもしれないし、また自分が常に罪に向かって歩んでしまう傾きをもっていることを知って、「そういう弱い自分は、どなたのものになっているのか」ということに思いを向け気を配る、それが自分自身に気をつけるということだろうと思います。私たちが今、キリスト者として生活できているのは、自分の修行や努力によるものではありません。水底に沈む他ないような罪人だった私たちの身代わりとして主イエスが十字架に死んでくださいました。主イエスの苦しみと死によって、私たちの罪にすっかり清算がつけられているから、私たちはキリスト者として生きていけるようにされているのです。そのことにいつも思いを向けているようにと、主イエスはおっしゃるのです。

 主イエスが十字架によって私たちの罪を清算してくださいましたから、キリスト者の生活はその清めに与っている者として、自分自身にも周りの人たちにも「罪の赦しを伝えて生きてゆく」というあり方をするようになります。
 その際に、つい「赦さなければならない」という思いが先立って、罪のうちに留まることも許すという風であってはならないのです。罪から清められた者となって生きることを赦されているのですから、罪の中に留まるあり方を容認できるはずはないのです。主イエスは言われます、「もし兄弟が罪を犯したら戒めなさい」。自分自身に気を配り、自分の罪にも兄弟姉妹の罪にも注意深くなって、罪に陥っていたら、そのことを伝えてあげて戒めなさいと、主イエスは言われます。相手がそのことに気がついて、神に従うあり方に立ち戻れば、過去の罪を赦して、朗らかに皆で共に生きてゆくのです。キリスト者のあり方とは、そのように皆で共に生きる生活だと、主イエスは教えておられるのです。

 私たちは洗礼を受けてキリスト者になると、天使のように清らかな者となって罪を犯さなくなるというのではありません。キリスト者であっても、地上の生活にあっては絶えず主イエスを忘れ、神から離れてしまう誘惑に取り囲まれています。その誘惑と戦って、主イエスのものとされていることをくり返して確認する必要があるのです。「わたしは主イエス・キリストの十字架によって罪を赦されている。清らかな生活をここから生きて良い者とされている」ことを、私たちは繰り返し聖書から聞かされ、自分の身の上に思い返して歩んでいかなくてはなりません。

 私たちは地上の生活の中で、十字架の主に執り成されていることを何度も繰り返して聞かされ生きてゆくのですが、その経験を通して、自分の土台となっているところに主イエスが共に歩んでくださっているということを深く知らされ、主イエスに固く結ばれて生きてゆくようにされてゆきます。
 主イエスによる罪の赦しの上に置かれている者として、繰り返し悔い改め、そして主のものとされて生きてゆきたいと願うのです。お祈りをささげましょう。

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