聖書のみことば
2026年3月
  3月1日 3月8日 3月15日 3月22日 3月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

3月1日主日礼拝音声

 御言に耳を傾けないなら
2026年3月第1主日礼拝 3月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第16章19〜31節

<19節>「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。<20節>この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、<21節>その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。<22節>やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。<23節>そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。<24節>そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』<25節>しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。<26節>そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』<27節>金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。<28節>わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』<29節>しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』<30節>金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』<31節>アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 ただ今、ルカによる福音書16章19節から31節の御言を、御一緒にお聞きしました。19節に「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。いきなりたとえ話が始まっていますが、主イエスは、このたとえ話を御自身の弟子たちに向かって、そしてファリサイ派の人たちもいる場所で語っておられます。話の内容自体は比較的分かり易いのではないでしょうか。
 一人の裕福な人物がいて、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたと言われます。人によっては、うらやましく感じるかも知れません。毎日、自分にとっての楽しいことや嬉しいことを捜しては、それを追いかけて何不自由なく暮らしていたと言われています。ちょっと聞くと大変良い生活を過ごしているようにも思えるのですが、しかし、このたとえ話を終わりまで聞いてゆくと、この人物の最期はまことに哀れな絶望に行き着きます。この人物の姿を通して、主イエスは一つの警告を弟子たちに伝えようとしておられるのです。どのような危険を警告しようとしておられるのでしょうか。話を聞くうち、少しずつ分かってくることになります。

 一見何不自由なく暮らし、満ち足りた、人からうらやまれるような人生を送っていたこの人物の門前に、もう一人の人物も生きていたと主イエスはお語りになります。ラザロと呼ばれるこの人は非常に貧しく、おそらく栄養が不足しがちであるために皮膚にあちこちトラブルが生じていて、「たとえ食卓から落とされる僅かのパンでも食べて餓えをしのぎたい」と思う程でした。ですが金持ちは、ラザロがそのような貧しさの中で生きていることを知っていながら、彼のために何かをしようとは考えなかったようです。20節21節にラザロの貧しい生活のことが語られています。「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた」。「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」と述べられています。仮にラザロが望みどおりに食物を得ることができていたならば、このような書き方にはならないでしょう。もし食べ物にありつけていたとすれば、「食卓から落ちる物ではあったが、腹を満たしていた」と言われることでしょう。「腹を満たしたいものだと思っていた」ということは、ラザロは切にそのことを望んでいたけれども、遂にその望みは叶えられることがなかったことを表しています。野良犬がやって来て、ラザロの体に現れた潰瘍状のできものをなめていたと言われていることで、このラザロがいかに長い間、飢えと病に苦しみ、不衛生な状況の下に生きなければならなかったかを表しています。
 ある説教者は、「犬はラザロの許にやって来た。しかし金持ちは遂にやって来なかった」と語っています。金持ちは特に名前で呼ばれていませんが、ラザロの方はアブラハムやモーセのように名前で呼ばれています。ラザロという名前は「神は助けてくださった」という意味の名前です。

 さて、このように対象的な生涯を過ごしていた二人の人物が、それぞれに与えられた地上の生活を終えることになったのだと、話が進みます。地上の生活をすべて歩み終えたラザロは天使たちに手を引かれるようにして天に揚げられ、天国でアプラハムのすぐ傍の宴席へと案内されました。一方金持ちも亡くなって、おそらくは盛大な葬儀が執り行われたのでしょうが、この人は天国ではなくて、神から遠く隔たった陰府の中へと送られます。23節に、彼が「陰府でさいなまれた」とだけ言われていて具体的なことは語られないのですが、24節を見ますと、金持ちが「炎の中でもだえ苦しんでいる」と訴えていますので、彼の送られた陰府は燃え尽きることのない火ですべてが焼き滅ぼされて行く場所であるようです。
 金持ちが陰府で苦しみながら、はるか上の天を仰ぎ見ますと、アブラハムとラザロが親しく食卓の交わりをしている様子が見えました。それで、天に届くように声を励まして、この人はアブラハムに憐れみを願い求めます。自分のいる陰府は灼熱の世界なので、ラザロをそこから遣わして自分の苦しみを和らげるようにして頂きたいと願うのです。
 ところがアプラハムはそれに答えて、この金持ちもアブラハムの子らの一人であることは認めつつも、彼が生前に生きてしまったその生き方のために、今は天国から遠く隔たった陰府にいわば追放されているのであって、「天からそちらに行くことも、そちらから天に来ることもできない」と、ラザロを遣わすことを断ってしまいます。この金持ちは、地上の生涯を生きていた時、もっと他の生き方をすることもできたはずなのです。即ち、神の御言に聞き従って貧しい人たちの身の上を思いやり、自分に与えられていた豊かな財産の中から分け与えて、ラザロを助けることだって、やろうと思えばできたはずなのです。ところが彼は、自分の快楽を追いかけることばかりに熱中してしまって、ラザロのような貧しい人への配慮をまったく考えずに生きてしまいました。貧しい人たちや自分の許に身を寄せてくる寄る辺ない者たちを助けて施しを行うということは、旧約聖書の律法の中にはっきりと命じられ、求められています。この金持ちはラザロを無視したことで、聖書の律法の求めも無視することになってしまい、神の求める憐れみを行わなかった責任を問われて陰府の中へと送られてしまっていたのでした。
 この金持ちはラザロの貧しさを見て見ぬふりをしていたのですが、彼自身がラザロに何か特別の危害を加えたようなことはありません。貧しさの中にあるラザロを陥れて、更に搾取したようなこともありません。従ってこの金持ちは、自分では罪を犯しているという自覚をまったく持たずにいました。彼にとって罪とは、何かの重大な悪い行いをすることだと感じていたのでした。しかし罪は悪い行いをするということだけではなくて、本来行うべきだった善を行わないあり方においても、罪が問われてしまうのだということを、この金持ちの姿は現しています。

 主イエスはかつて、弟子たちを教えて、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とおっしゃいました。この金持ちはまさしく、ラザロへの憐れみを掛けなかったために、陰府で苦しむようなことになっています。すべては、彼自身が生きてしまった人生の結果なのです。しかしそれは単に、貧しい者が死ねば良い場所へ、金持ちが死ねば悪い場所へ送られるというメッセージではありません。自分の人生の生き方が問われているのです。
 ですからここまでの、主イエスの語られたこのたとえ話の前半の部分からは、一つのメッセージが聞こえてくることが分かります。即ち、「貧しい人々に対しては、冷淡にならずに温かく接し、仕え、支えるようでなければならない。善を行うように」というメッセージです。
 しかし、もし主イエスが、そういう事柄を弟子たちに伝えようと思っておられたのであれば、このたとえ話は26節までで終わっていたことでしょう。しかし実際には、主イエスのたとえ話はそこで終らず更に続いて行きます。ですから、主イエスが弟子たちに是非とも伝えたいと思っておられる事柄は、このたとえ話の後半部分に語られているということになります。それは一体何でしょうか。それは、一つの危険に対する警告なのです。

 話は続きます。この金持ちは、自分の許にラザロがやって来て苦しみを和らげてくれることは不可能だということを聞かされて、その点についてはひき下がるのですが、更にもう一つのことをアブラハムに願います。
 彼に5人の兄弟たちがいて、彼らはまだ地上の生活の中にあります。ラザロを、陰府にではなく地上で暮らしている兄弟の許に遣わして、自分のような惨めな結末に陥らないように警告してやっていただきたいと願うのです。ところがアブラハムは答えます。29節に「しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい』」とあります。ここで「モーセと預言者がいる」と言われているのは、「モーセの律法と預言者たちの言葉が与えられている」、つまり旧約聖書のことを指しています。「地上で生涯を過ごしている彼らには聖書があるではないか。それに聞くのがよろしかろう」とアブラハムは答えました。
 しかし金持ちはなおも、アブラハムに願います。「聖書のようなありきたりな書物の言葉ではなくて、死んだラザロが生き返って警告してくれれば、きっと兄弟たちはびっくりして、無情で冷淡な生き方を悔い改めるに違いない。後生だから、ラザロを彼らの許に送ってほしい」と喰い下がります。しかしアブラハムは答えるのです。31節に「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」とあります。主イエスのたとえ話はここで終わります。ということは、主イエスは是非ともこの31節の言葉を弟子たちに聞かせたかったということになります。
 しかし主イエスは、この言葉で何を教えたいのでしょうか。この後半のたとえ話は、前半のたとえ話のようには明瞭ではないようにも思えるのです。

 前半と後半の2つのたとえ話から聞こえるメッセージとは、どういう事柄でしょうか。
 まず、この金持ち自身は、モーセと預言者たちが聖書の中で貧しい人を支援し支えることを命じていても、それに従わず、ラザロに手を差し伸べようとはしませんでした。それは、聖書の言葉が聞こえなかったからではありません。貧しい人を援助しなさいという教えが分からなかったからでもありません。そもそもこの金持ちが自分の快楽を追いかけることを第一に考えて、神の言葉に向き合おうとする信仰の姿勢を持ち合わせていなかったことが原因です。そのために彼は陰府の奈落に落ちてしまいました。
 彼自身が転落している危険、そして兄弟たちもまた落ち込みそうになっている危険とは一体何でしょうか。どうしてこの金持ちは神の御言があることを知っていながら、それに聞き従わないで、地上の快楽ばかりを求めてしまったのでしょうか。そこには、快楽や喜びというものが、今生きているこの地上にしかないと思い込んでいた思い込みがあったのではないでしょうか。別の言い方をしますと、死んだら一切が終わってしまうのだ、楽しめるのは今のうちだと思い、せめてこの刹那を楽しんで生きようと考える、享楽的な生き方に勤しんでしまった結果、聖書の言葉を知っていても耳を貸そうとしない、そういう人生を送ってしまったのではないでしょうか。
 今日の箇所の直前の14節で、主イエスが弟子たちに語りかけて、「あなたがたは、神と富とに同時に仕えることはできない」と教えた時、金に執着しているファリサイ派の人が、その教えをせせら笑ったことが語られていました。しかしそのファリサイ派の人が生きている人生というのは、神にお仕えすることで御言によって自分の人生が新しくされ変えられ、力を頂いて生きるような奇跡などは決して起こらないと思うニヒリズムではないでしょうか。ファリサイ派の人は、自分では聖書の中に記されている掟をよく知っていて、自分ではその掟を守る生活をしていると思っているのですが、その実、聖書の言葉を通して神が親しく御言をかけてくださり、支え、持ち運んでくださるということをまったく知らずにいるのです。
 神の御言の前に身を屈めるということを知らない人、神からの慈しみ憐れみをいただいて生きようとしない人は、人生の中で神がどんなに恵みや導きを与えてくださっても、その出来事の陰に神がいてくださるということが分かりません。どんなに神が好ましい道に導いてくださっても、御言の前に身を屈め、感謝して受けようとしない時には、すべての良かったことは偶然に過ぎず、たまたま運が良かったと思うだけで終わってしまいます。

 このたとえ話の中で、アブラハムは、「いくら死者の中から生き返った人が呼びかけても、御言の前に身を屈めることを知らないならば、信じることはないだろう」と言いました。実は、「死の中からよみがえられた方が語りかけてくださる」ということは、今まさにここで、毎週の礼拝の場で、私たちの身の上に起こっていることです。けれども、ここで神が私たちに語りかけてくださるのだということを知ろうとしないで、御言の前に身を屈めない人にとっては、ここで起こっていることがまったく理解できないままに終わってしまうという危険があるのです。そして、そういう人は精々のところ、「貧しい人や困っている人を見たら親切にしてあげなさい。それが人として生きる上で大切なことだ」と、聖書にはそういう教えが書いてあるというような理解で立ち止まってしまいます。
 主イエスは弟子たちを、ただ掟を守らせる生活ではなく、御自身との交わりをとおして神との交わりを与え、日々、御言によって新たな生活を神からいただいて生きるようなあり方へと導こうとなさいました。そのために御言に耳を澄まして、そこで語りかけてくださる神に聞き従おうとするあり方が大切であることを教えておられるのです。

 今日の箇所で主イエスがお語りになったたとえ話は、「金持ちとラザロのたとえ」と言われることがあります。新共同訳聖書の見出しにもそのように記されています。けれども、主イエスが語ろうとしているのは、金持ちとラザロが入れ替わるという話ではなくて、金持ち自身と5人の兄弟たちに迫っている危険への警告です。「神さまに仕えて御言に支えられて生きることを知らないと、あなたはニヒルにならざるを得ない。神さまを知らない人生の中で、自分の願いや思いが実現することだけが素敵なことなのだから、そのためにはお金や豊かさが必要だという生き方になってしまう。けれどもそういう生き方は、本当にはあなたを幸せにはしない。むしろ、願ったとおりには生きられず、絶望に陥る他なくなる」という警告を、主イエスはここで語ってくださっています。

 主イエスは誰に対しても、その相手を滅ぼすためにたとえ話をなさることはありません。そもそもたとえ話というのは、「神の国、神の御支配」を表すための話です。「神の国、神の御支配」は、主イエスをとおして私たちのもとに訪れて来ているもので、私たちが元々持っているものではありません。ですから、「神の国が来ている」という時、主イエスは御自身を指差すか、あるいはたとえ話で語る他ないのです。たとえ話を主イエスがなさっているということは、「あなたの前に神の国が訪れようとしている。あなたはそこで生きることができるのだ」ということを教えてくださっているのです。
 今日のたとえ話で言えば、モーセと預言者たちが登場しますが、つまり聖書をとおして神が私たちに語りかけてくださる、そのことを信じて受け入れることの大切さが教えられているのです。

 礼拝の中で聖書の御言が朗読され、説き明かしが語られる、それは私たち人間の営みです。ですから信仰を持たないで見るならば、聖書という古い巻物を開いて言葉が読み上げられ、それを人間が自分の意見として語っているだけだと見る人もいるでしょう。けれども、ここで私たちが開いている聖書の言葉をとおして、神は私たちに御言を語りかけ、「あなたはここから、もう一度生きて良いのだ」と呼びかけてくださっています。ですからその呼びかけを信じ、「神の栄光を現すためにわたしはここから生きていきます」と応答することをとおして、私たちには「神の国、神の御支配のうちを生きる」という生活が訪れるようになるのです。

 モーセと預言者たちに聞き従わないならば、死んだ者が復活して呼びかけても信じないだろうと、主イエスはたとえ話の最後で語られました。ただ主イエスが復活したというだけでは、私たちはすぐに信じることが出来ないことが教えられています。私たちが真剣に神の言葉を聖書から受け止め、神のものとされて生きていきたいと祈りながら聖書に向き合う時に、私たちは本当に神のものとされて生きてゆく生活の中へと持ち運ばれて行きます。
 神の御言を聞いて、希望と勇気を与えられ、神が私たちそれぞれに望んでくださっている愛の業へと背中を押され、ここから歩み出したいのです。お祈りをささげましょう。

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