ただ今、ルカによる福音書12章13節から21節までをご一緒にお聞きしました。
13節に「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください』」とあります。この時、主イエスは大群衆でごった返す中で、弟子たちに向かって教えておられました。「弟子であるあなたがたが、わたしを離れ、背を向けて逃げ去るような時が来る。するとその時、天使たちはあなたがたを見捨てて、もはやわたしの仲間と見なさず助けてくれることもなくなるだろうけれども、あなたはそれでもわたしの仲間として、わたしによってあなたの内にある微かな信仰が憶えられている」という、大変大事な事柄を弟子たちに伝えておられました。
ところが突然、横合いから口をはさむ声が響きました。その人は主イエスに向かって、自分の兄弟との間柄の仲裁に入ってもらって、親の残してくれた遺産を自分にも正当に分配してもらえるように言って欲しいと語ります。まったく無遠慮に、割り込むようにして語るこの人は、一体どういう人物なのでしょうか。日本人の感覚からすると、こういう割込みは大変失礼な行動のように感じるかも知れません。ただ、中東の人たちにとっては、このようなことは普通にあったことなのかも知れません。これまでのところでも、主イエスが弟子たちを教えていると、突然横合いから口を出してきて「あなたを宿した体、あなたが吸った乳房は何と幸いなことでしょう」と声高らかに叫ぶ人がいましたし、また主イエス御自身もナインの町で葬列に出遭われ時には、躊躇せず、棺に連れ添うやもめに向かって「もう泣かなくともよい」と声を掛けられたことがあります。中東では、どうやら思ったことをすぐ口に出して相手に語りかけることは、そんなに失礼な行いではないようなのです。
今日のところで主イエスは、見知らぬ人から遺産相続の調停をするように頼まれているのですが、このようなことを頼まれることは当時の社会において大変名誉なことであったようです。相続争いは、いつの時代、どこの土地においても場合によっては見られることですが、当時のユダヤでは、そういう争いが起こるとラビたちの許にそのもめ事が持ちこまれることがよくあったようです。何故かと言うと、ラビたちを清廉潔白な人、贔屓をすることなく物事を収めてくれる人だと信用して調停を頼むわけですから、ここで主イエスに声をかけたこの人は、少なくとも主イエスのことを公正な人物であると認めていたことが分かります。そのことは、この人が主イエスに向かって「先生」つまり「ラビ」と呼びかけている言葉からも伺い知れます。当時ファリサイ派に属するラビたちは、このよう頼み事をされると、まったく嫌に思わず、むしろ進んで喜んでもめ事の解決に手を貸してやるのが普通でした。ですからこの人も、まさか断られるとは思わずに、主イエスに信頼して遺産相続の正当な分前を分配してもえるようにと、主イエスに願い出たものと思われます。
ところが、この人の思惑は物の見事に外れてしまいました。主イエスはこの依頼に対し、まことに無愛想な返事をなさったのです。14節に「イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか』」とあります。主イエスは、はっきりした口調で依頼を拒絶なさいます。「わたしはあなたがたの裁判官でも調停人でもない」とおっしゃいます。これはどうしてでしょうか。横合いから口を挟まれたために腹を立てておられるのでしょうか。見識が不足しているために、そのような問題については判断しかねるとおっしゃっているのでしょうか。どうも、そうではないようです。
この後、主イエスは一つの有名なたとえ話をその場にいた者たち一同に向かって教えられるのですが、その言葉を聞いていると、主イエスはこの時、頼み事をしてきた人物の心の内に貪欲への思いがあることを見抜かれていたようなのです。遺産をもっと多く分けて欲しいというのは親の持っていた財産を相続することで、労せずに豊かになることを求めています。主イエスはそこに潜む危険性に気づいて、遺産の調停を断わられたのでした。
そして主イエスは、御自身が果たすべき役割を思いながら、この時、そこにいた人々に言われました。15節に「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである』」とあります。主イエスは、有り余るほどの物を与えられて持っているにも拘らず、更に欲しがる気持ちを貪欲であるとおっしゃいます。そしてどんな類の貪欲にも捉われてしまうことのないようにと、警告なさいます。金銭の欲望だけには限りません。どんな類の事柄であっても、際限なく豊かになりたいと思う欲求に対しては、そういう思いの虜となってしまわないようにとおっしゃるのです。
そして、このことを人々に分からせようとして、一つのたとえ話をお語りになりました。それが有名な「愚かな金持ちのたとえ」です。主イエスは語り出されます。16節に「それから、イエスはたとえを話された。『ある金持ちの畑が豊作だった』」とあります。「金持ち」と紹介されますから、この農夫は裕福だったことが分かります。この人の畑が豊作だったと言われていますから、この時の収入自体は不正で得た収入という訳ではありません。この人が自分で耕し、その末に与えられた正当な収入です。
ただ、この年の豊作はただの豊作ではなくて、大豊作だったようなのです。それがこの農夫を有頂天にさせ、そして誘惑が忍び込んで来ることにも繋がります。17節から18節にかけて、この農夫の心の動きが語られます。「金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまおう」。「どうしよう」と、この農夫は嬉しい悲鳴をあげるのです。畑から獲れた麦が大量すぎて、自分の所有する倉に収まりきらないためです。しかし、やがて彼は名案を思いつきました。倉に収まりきらないのであれば、倉の方を建て替えて大きくすれば良いのです。彼は手を打って喜びました。「こうしよう」という18節の言葉は、17節の「どうしよう」という言葉に呼応しています。
この人は名案を思いついて自分では有頂天になっていて気づかないですが、この時、ひそかに誘惑が忍び寄っていました。新共同訳聖書では残念ながらはっきりと訳し出されていないのですが、ここでこの農夫は、すべてが自分の物だという思いをとても強くしていて、持ち物の分量や大きさにすっかり心を奪われてしまい、結果的に、それらを与えてくださった神が見えなくなってしまっているのです。17節に「どうしょう。作物をしまっておく場所がない」と書かれていますが、原文でここを読みますと、「わたしの作物をしまっておく場所がない」と書かれています。18節でも同じで、「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまおう」という言葉は、「わたしの倉を壊して、もっと大きくしよう。そこにわたしの穀物と財産を、みんなしまい込もう」と、原文では言っています。この農夫は「わたしの作物、わたしの倉、わたしの穀物と財産」と、すべてが自分一人のものだと主張するのです。
そして面白いことに、そう自分の心の中に思っただけで、まだ実際には新しい倉を建て替えた訳ではないのですが、農夫は更に有頂天になって語り続けます。19節に「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」とあります。ここでも農夫は、自分というものを先立たせています。「こう自分に言ってやるのだ」と言われているところは、原文を読むと、「そしてわたしの魂に言おう。魂よ、お前は何年分もの多くの良いものを蓄えて持っている。休め、食べよ、飲め、楽しめ」と書いてあります。「わたしの作物、わたしの倉、わたしの穀物と財産」に加えて、この農夫は、自分の魂までもが自分自身の持ち物であるかのように思っているのです。そしてその魂に向かって語りかけるのです。「お前にはたくさんの物が備えられているのだから、休め、食べよ、飲め、楽しめ」と言って、この人は自分の魂に楽しめる限りの楽しみを与えようとします。ある説教者は、この人のありようについて、「この人は息せききって、楽しめることはすべて楽しもうとしている」と述べていますが、その通りだろうと思います。この農夫は、自分では自分の魂のための十分な用意を整えたと思い込んでいるのです。命を自分の持ち物の一つであるかのように考えて、その命を十分に養えるだけの食料と富を蓄えたと思い込んでいます。
ところが事情は、この農夫が思ったようには運びませんでした。突然に、この農夫のまことの命の所有者であり支配者である方の声が聞こえます。「お前の命は今夜限りである」と宣告されます。20節に「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」とあります。
主イエスのこのたとえ話を聞いていて、不思議に思うかもしれません。この話を聞いていますと、神という方は何と意地の悪い方なのかと思うかもしれません。この農夫は、別に不正を働いて濡れ手に泡の収入を得たわけではありません。自分の手の働きによって得た収穫を大いに喜び、この先何年も安楽に過ごせるようになったことを喜んでいる、その矢先に、神はこの人から命を取り上げてしまうとおっしゃるのです。神は冷淡な方なのでしょうか。
このたとえ話から、私たちが、神は意地が悪いとか冷淡な方であるとか、そういう結論を引き出そうと思えば、そのように解釈することは可能であろうと思います。しかしそれは、あくまでも聞き手の側の勝手な解釈であって、主イエスが神のことをそのように伝えようとしてこのたとえ話をなさったのかというと、そうではありません。主イエス御自身は、この先も、実は何度も手を替え品を替えながら、今日のたとえ話で伝えようとしておられるのと同じ事柄をお語りになります。今日はその最初のところなのです。
主イエスは一体何を教えようとして、このたとえ話を語られたのでしょうか。この福音書を少し先取りして読みますと、主イエスがここで人々に伝えようとした事柄の中心をはっきりと言い表している箇所があります。16章13節です。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とあります。
主イエスは、この世の富、つまりこの世の生活の中で自分がより豊かになること、与えられているもので満足するのではなく更に豊かになることに憧れて、遂にその富の豊かさの誘惑にすっかり心を奪われてしまって、神との関係をないがしろにしてしまう危険があることを伝えようとして、今日のたとえ話を語っておられます。農夫は確かに、働いて穀物を手に入れたかもしれません。けれどもそれは、農夫の力だけでできたはずはないのです。どんなに人間が頑張っても、それだけでは収穫が上がる時も上がらない時もあります。私たちに与えられる収穫は、神が与えてくださっているという側面があるのです。ところがそのことをすっかり忘れ、「わたしの穀物、わたしの倉、わたしの収穫、わたしの富、財産だ」と思ってしまう、そういう危険があることを、主イエスは伝えようとしておられるのです。
そのことは、たとえの結びでおっしゃっている言葉からも明らかです。21節に「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とあります。このたとえ話は、神の意地の悪さとか、喜ぶ人に対して神が冷淡であるとか、そういう事柄を伝えようとして語られたのではありません。この富める農夫は、自分に与えられた豊かな富を間違った方向に積み上げてしまった一つの実例として、人々の前に示されているのです。すなわち、与えられた富を自分のための豊かさだと思ってしまい、神から与えられ、神に感謝して用いるべきものだと思わなかった点に、この農夫の最大の過ちがあるのです。
今日のたとえに出てくる農夫は、自分ではこの先何年も何十年も生きるつもりでいます。ところが、その農夫自身の思いに反して、神は、今夜、この農夫の命を取り上げてしまわれます。この点が、いかにもこの農夫の悲劇であるように感じられるのです。ですが、そう感じるのは、農夫が勝手に自分一人だけで、これからもずっと長く生きるのだと決めているからではないでしょうか。この農夫の話は、実は私たちにとっても他人事ではありません。
というのも、私たちもやがていつかの日には、間違いなく、地上を去る日、神の許へと取り去られる日を迎えるからです。その点については、間違いはありません。私たちは必ず、今ある地上の生活を離れて取り去られる時が来ます。その時に私たちは、どう思うのでしょうか。「わたしは今晩取り去られる」と知って世を去るのでしょうか。おそらくそんな人は一人もいません。もしもそういうことを言う人がいるとすれば、それは自分が地上から取り去られてしまうことが恐ろしくてたまらず、恐ろしさのあまりに強がっているだけのことでありましょう。私たちは本当には、自分の地上の命がどこでどのような形で終わりを迎えるかを知らないのです。自分があと何年生きるか、どのように弱り死の時を迎えるのか、あるいは病気や事故によってあっという間に取り去られるのか、そういうことを予め知っている人は誰もいません。そしてそういうところで、人間の生き方が2種類に分かれてくるのです。
一方はこの農夫のような生き方です。自分はいつ死ぬか分からないけれども、それまでは安楽に、また楽しめる限り楽しく過ごそう、できる限りのことをやって人生を楽しもうと、そう言って自分自身の快楽を求めます。主イエスが今日の最後に言っておられる、自分自身のために富を積むという生き方です。日本人の多くが好ましいと思うことの多い、自己実現を目指して生きようとする生き方も、この生き方のバリエーションの一つであると言えましょう。
しかし、それとは別の生き方があるのです。それは、人間的にはどれほど豊かに富を積むとしても、人間の人生と命は、所詮、神の手の中にあるものであって、人間はやがて死の時を迎える、死に向かって生きている中にあるということを弁えている人の生き方です。死のただ中で、そういう死すべきわたしが、しかし今日、主イエス・キリストによって贖われ、神の憐れみと慈しみを受けて生かされているということを知って、神に感謝し、神に信頼して、自分自身を神の御手にお委ねして、神の僕となって生きていくあり方です。このようなあり方を選び取る人にとっては、人生の時間は、自分が本当に神に信頼し神に寄り頼んで生きるとはどういうことなのかを学んで生きていく時となります。
神に信頼して生きようとする人は、神を抜きにして自分の人生を考えることはできなくなります。自分の力や自分の蓄えによって、この先生きていけるとは思わなくなります。今日、朝の目覚めが与えられて地上に生かされていることを感謝し、その感謝と喜びをどのようにして今日の自分の生活の中に表したら良いだろうかと考えます。そして神の救いの御業を誉め称えて賛美し、感謝して祈り、また神に愛されている一人ひとりが神に信頼して生きることを知るように、身の回りの人たちを執り成して祈ったり、神のことを伝えて生きるように変えられていくのです。
そのようなあり方を、神は心から喜んでくださいます。神の前に豊かになるというのは、そんな風に神に信頼して感謝し、神との交わりの中を生きていく生活です。
そして主イエスは、地上を生きる人間がそのように生きることができるようになるために、神と人間との間を隔てている罪の障壁を御自身が十字架にお掛かりになることで打ち壊そうとしてエルサレムへの道を辿っておられる、その最中にあるのです。主イエスは、人間が自分の豊かさを求めて生きるのではなく神の前に生きるようになる、そのためにエルサレムに行くのだと思って歩んでおられます。ところが、そのような道を辿っておられる主イエスに向かって、相続問題を調停してもらい自分にも分前が欲しいと願った、今日の記事の最初に出て来た人は、主イエスが人間に対して願っていることとまるっきり違うことを望んでいました。この人は濡れ手に泡の利益を得て自分自身の富を増やすことで自分の人生が確かになることを願って、主イエスに頼みました。地上の富は、神に信頼して神に寄り頼んで神から今日の命をいただいて喜んで生きていくというあり方から、私たちを逸れさせてしまう恐るべき誘惑者なのだということを、主イエスが教えようとしていることを聞き取りたいのです。
なお注意して聞きたいのですが、主イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と教えておられます。「どんな貪欲」というのは、裕福な人だけが誘惑されるとは限らないということです。自分では貧しく乏しいあり方をしていると考えている人でも、それでもその人なりに、より多くを持ちたい、豊かになりたいと願う貪欲への誘惑が迫ってくることがあります。それは金銭に限らず、名誉心であったり、才能であったり、熱心さにおいても自分は見事になりたいと誘ってくる誘惑があることを、私たちは知らなくてはなりません。いろいろな仕方で、貪欲の誘惑は迫ってきます。
そう考えますと、私たちは自分の力だけで誘惑を振り払うことは、ほとんど不可能だと言って良いと思います。ですから主イエスは、私たちが神にお委ねできるように、祈ることを教えておられるのです。「主の祈り」の中で「われらを試みに合わせず、悪より救い出したまえ」と祈って良いと、教えてくださいました。この祈りの中には、「自分のために富を積むという誘惑から、どうかわたしを守ってください。そしてわたしが本当に、神さまの前に生きる喜びを知る者とさせてください」という祈りが含まれていることを憶えたいと思います。
今日与えられるこの時を、御言に耳を傾けて、神に寄り頼んで生きることを学ばせていただく時として、銘々の生活に勤しむ幸いな者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |