ただ今、ルカによる福音書12章8節から12節までをご一緒にお聞きしました。
8節に「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」とあります。
12章の始まりのところで、数えきれないほどの群衆が主イエスの許にやって来て大混乱し、収拾がつかない状態になっていた中で、主はまず、御自身の周りにいる弟子たちを教えておられました。最初はファリサイ派のパン種に注意するようにとおっしゃって、上辺だけを立派そうに見せかける偽善に陥らないようにと戒められました。その次には、あなたがたが本当に恐れて従うべき相手は人間ではなくて神なのだと教えておられました。今日の教えは、それらに続く3番目の教えです。
順序としては3番目に語られていますが、今日の箇所で主イエスは「言っておくが」という前置きの言葉をおっしゃった上で、教えを語り出しておられます。「言っておくが」とか、あるいは「はっきり言っておく」と前置きをして何かをお語りになる時には、主イエス御自身はとても大切なことを弟子たちに教えようとしておられます。大事なことを語ろうとする際の主イエスの口癖のような言葉です。
大事な事柄、是非とも心に刻みつけ覚えておくべき重要な事柄として語りかけられたのは、一体どういう事柄でしょうか。主イエスはおっしゃいます。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」。「人々の前で自分を主イエスの仲間であると言い表す」というのは、一体、何のことを言っているのでしょうか。言葉としては分かるような気もしますが、よくよく考えると分からなくなってしまうかもしれません。
ここは「自分をわたしの仲間であると言い表す」という風に、非常に丁寧な説明のように訳されているのですが、実際に主イエスがここで発しておられる言葉は、たった一語です。そのひと言をなかなか日本語にしにくいので、新共同訳聖書は、「自分をわたしの仲間であると言い表す」と、とても一言とは思えないような説明に翻訳しています。因みに口語訳聖書だと、この言葉は「受け入れる」と一言で訳され、「誰でも人の前でわたしを受け入れる者を、人の子も神の使いたちの前で受け入れるであろう」と語られていました。また、一番新しい翻訳である聖書協会共同訳では、この言葉は「認める」と訳されています。「誰でも人々の前でわたしを認める者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を認める」と語られています。このように、この言葉は聖書によって翻訳がまちまちです。日本語にするのが難しい言葉であるのが分かります。
しかしそれでも、ここは、主イエスが大切な事柄として是非心に留めるようにと前置きしておっしゃっているのですから、私たちとしては、何とかして、主イエスが伝えようとしておられる事柄を受け止めたいと願います。
ところで実際のところ、主イエスはここで何とおっしゃったのでしょうか。原文に当たりますと、主イエスがここで語っておられる言葉は、「ホモロゲオー」という言葉です。「ホモロゲオー」という言葉の最初についているホモというのは、「同じ」という意味です。同性愛者のことをホモセクシャルと言ますが、それと同じ「ホモ」という字です。「ロゲオー」というのは、口で何かを喋る「言う」という動詞です。ですから「ホモロゲオー」というのは、そのまま訳せば、「同じ言葉を言う」とか「同じ意見を言う」ということになります。そこから「認める」とか「受け入れる」という翻訳になってくるのです。
主イエスがおっしゃった言葉は、「同じだと言う」とか「同じことを言う」という動詞なのですが、この動詞から生まれてくる名詞は「ホモロゲイン」という言葉です。そして、「ホモロゲイン」という言葉の意味の一つには、神を信じる信仰を言い表す「信仰告白」という意味があります。私たちも礼拝の度に信仰告白をして自分たちの信じている信仰を言い表しますが、その時には皆で同じ言葉を口に出して語ります。文字通り「同じことを言う」ということが、「ホモロゲオー」することなのです。
ですから、8節に述べられている事柄は、私たちが「主イエスへの信頼と喜びをもって主への信仰を口で言い表す」ということ、それが新共同訳聖書では「仲間であると言い表す」という説明になっているのです。
しかしそれならば、どうして8節で「だれでも人々の前で主イエスへの信仰を口で言い表す者は」と訳されないのでしょうか。その理由は、8節の後半で、「主イエスもまた、天使たちの前で、その人をホモロゲオーする」と書いてあるからなのです。私たち人間が主イエスのことを信頼申し上げて喜んで信仰告白するということは、まったくその通りなのですけども、それなら「主イエスもまた、その信頼を言い表す人に向かって信仰告白する」と訳せるかというと、語られている事柄からして訳しにくい変な言葉になりますので、「信仰告白する」という訳も使いづらいのです。
翻訳をどのようにするかということはそのように難しいのですが、しかしここに述べられている元々の事柄は何かと言うと、私たちが誰であれ、主イエスに信頼して、喜びをもって「この方こそわたしの主です」と言い表すならば、主イエスも大いに喜んでくださり、天使たちの前で、「この人とわたしは一つだ」とおっしゃってくださり、その言葉の通り「私たちの中に来て住んでくださるようになる」ということです。そのことをとても大事な事柄として心に留めるようにと、主イエスは語っておられるのです。
私たちが週毎に礼拝の中で信仰告白を口に出して言い表し、皆で同じ主を拝むことは、決して形だけのことではありません。私たちがそのように信仰を言い表すときに、主イエスがとても喜んでくださり、私たちの中にやって来てくださり、私たちの主となって共に歩んでくださるのです。主イエスはそのことをとても大事に考えて、「主イエスへの信仰を口に出したり、生活の中に表すようにしなさい」と勧めれた、それが今日の箇所に語られていることです。
そして、このように勧めるのは、主イエスだけではありません。使徒パウロもまた、ローマの信徒への手紙10章9節10節で同じようなことを教えています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」とあります。「公に言い表す」という言葉も「ホモロゲオー」という字が書かれています。私たちが喜びと感謝をもって主イエスの御名を口に出して呼びまつるというのは、この礼拝の時にそれが最も盛んに行われるのですが、主イエスは、そのような信仰の言い表しを喜んでくださり、そういうあり方をする人たちを「あなたはわたしの仲間だ」と言ってくださり、共に住んでくださるのです。
ところで、8節にはそのように喜ばしい約束が述べられているのですが、9節に進みますと、私たちがふと不安になってしまうようなことが語られています。「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」。8節と9節を続けて読んでしまうと、私たちは不安になるのではないでしょうか。つまり、主への信頼を喜んで言い表せるのなら良いのですけれども、しかし、私たちがふとした弾みで主イエスを見失い、神の御心も分からなくなってしまう時には一体どうなってしまうのだろうかという思いにさせられる言葉なのです。主イエスのことを、自分の所にやって来てくださり、共に住んでくださる主だと思って信仰を言い表すことができている間は良いのですけども、何かの拍子にその信仰が弱まったり、疑いを宿すようになってしまって、神のことが分からなくなる時には、私たちは天使たちから「お前を知らない」と言われて、陰府の中に追放されてしまうのでしょうか。
仮にもしそうだとしたら、私たちは何とも不安を感じざるを得ないのではないでしょうか。私たち自身の信仰を振り返って考えるならば、私たちは常に信仰的であるとは言えない時もあるように思うのです。歳を重ねて体が衰え、疲れて弱ってしまうことがあるように、また思いがけない経験に出遭って心が折れてしまいそうになることもあるように、私たちの信仰も時に弱ったり、小さくなったり、まるで風前の灯のように微かになって僅かに残っているだけという状況に陥るような場合もあるかもしれません。私たちが地上を生きて歩む中で、喜びをもって常に主への信頼を口にできるかと考えたなら、何とも心許ないところがあるのではないでしょうか。そのことを、残念ですけれども認めないわけにはゆきません。地上の信仰生活は、常に誘惑に晒され、主イエスから逸らされてしまう危険に満ちているのです。
私たちの信仰には確かに弱いところがあり、隙があります。そこにつけこまれて、誘惑の中にさまよい出してしまうことだってあるかも知れないのです。それなのにどうして9節のように言われるのでしょうか。私たちの信仰が危難に陥る時こそ助けが必要なのに、主イエスは私たちを助けてくださらないのでしょうか。そう思いながら9節をもう一度、耳を澄ませてよく聞いてみたいのです。「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」。
人々の目を恐れて、あるいはこの世の人たちを憚って、主イエスのことを知らないと言ってしまう、心ならずもそのように口に出してしまう失敗を、私たちもするかも知れません。しかし、思えば主イエスの一番弟子だったペトロでさえ、まさにここに言われているような失敗をしでかしてしまったことが、マタイ、マルコ、ルカの福音書に記されています。ペトロは主イエスが捕えられた晩、捕えられた主イエスの後をつけて行って大祭司の家の中庭に入り込みました。そこまでは良かったのですが、彼自身の正体がバレそうになった時、三度重ねて「わたしはその人を知らない」と言ってしまったのです。一番弟子のペトロでさえ、そのような失敗をしたのであれば、私たちは尚更ではないでしょうか。
ところで、そういう失敗を犯す人はどうなると言われているのでしょうか。「神の天使たちの前で知らないと言われる」と書かれています。この主イエスの言葉を、ルカは実に注意深く書き記しています。8節後半の言葉と比べると違いがはっきり分かります。8節後半には「人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」とあります。8節では、「人の子」である主イエスが、はっきりと信仰を言い表して喜んでいる人について、「この人はわたしの仲間だ。わたしの者だ」とおっしゃってくださっています。では9節の言葉に注意して聞いてみると、ここに「人の子」は出てきません。ただ「神の天使たちの前で知らないと言われる」とだけ語られています。
では「人の子」は、どこに行ってしまったのでしょうか。そう思って次の10節を見ると、そこにいらっしゃるのです。10節の初めに「人の子の悪口を言う者は皆赦される」とあります。9節で、人々の前で主イエスを知らないと言う人は、天使たちから助けてもらえません。天使たちは、主イエスを知らないと言った人たちに背を向けます。けれども、ただ一人、主イエスだけはそうではないのです。主イエスは、御自分のことを知らないと言うばかりでなく、主に逆らって悪口を言う者、主イエスに敵対する人のことすら、皆赦そうとしてくださるのです。
ですから私たちは、自分の弱さ、小ささ、薄さのことで、心配するには及びません。たとえどんなに微かであろうとも、弱っていても、信仰は「ある」ということがとても大切なことなのです。何故なら、主イエスは私たちをさえ赦してくださっているからです。そのことを信じるのが信仰です。「ホモロゲオー」とは、その微かな信仰を指して語られています。
今日の箇所で、文脈で言いますと、主イエスはやがてエルサレムで捕えられ十字架に掛けられることを見据えながら、十字架に向かって道を進んでおれます。そして、その時が来て十字架にはりつけにされるのですが、その時に主イエスがおっしゃった言葉があります。ルカによる福音書23章34節に「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」とあります。主イエスはすべての人の罪を赦すために十字架に掛かるつもりで歩んでおられます。
9節10節で言われていることは、もしも誰か人が主イエスのことを知らないと言ってしまって、そのことで天使たちから不興を買ってしまい、天使たちがもはやその人のことを「知らない」と言うことがあるとしても、人の子の赦しはなお、その人に向けられているということです。
そして更に一言が付け加えられます。「しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない」。「聖霊を冒漬する罪」とは一体どんな罪でしょうか。主イエスに敵対する罪ということなら分かります。ペトロは主イエスのことを知らないと言いました。またサウロは、キリストを信じる弟子たちを決して生かしておくことができないと考えて、迫害する者となり、全力で主イエスに逆らいました。しかしペトロは赦されてやがて最初の教会の柱石となり、サウロも赦されて使徒パウロとされました。主イエスによる罪の赦しは限りなく広く、また力をもって私たちの上にも及んできます。
その主イエスによる罪の赦しを教えてくれるのが聖霊の働きです。コリントの信徒への手紙一12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」という言葉があります。聖霊が働かなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。聖霊が働いてくださることで、私たちは初めて、十字架に掛かり復活した主イエスを「わたしの主です」と言い表して信仰を告白し、主イエスの仲間とされていくことができるのです。
ところが、その聖霊が働くということをもし決して認めようとしないならば、その人は主イエスを本当の救い主として認められなくなってしまいます。けれども、どんな人であっても、たとえペトロのように主イエスを自分とは関わりのない者、知らない人だと言ってしまう人であっても、パウロのように主イエスに敵対する態度を取る人であっても、聖霊が働く時には、主イエスの十字架と復活の御業の下に置かれて、主を信じて生きる者とされる可能性があることを否定してはならないのです。聖霊が働いて「イエスは主である」と言わせていただける可能性は、どなたの上にもあるからです。
「聖霊を冒涜する」ということは、自分についても、また他の誰かについても、「この人は主を信じる者になることはない」と決めてしまうということではないでしょうか。「聖霊が働くことなどあり得ない」と聞こえて来ることが「聖霊を冒涜する」ことです。聖霊が働いてくださり、一人一人が主のものとされる可能性を決して否定してはならないのです。
人間的には、どんなに困難なことのように思えても、聖霊が働いてくださる時には、私たちはなお、主に結ばれて生きる者とされる希望が与えられています。どうしてでしょうか。主イエス御自身がすべての人のために十字架に掛かってくださったからです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言って神に赦しを願いながら、主イエスは私たちの身代わりとして十字架に掛かってくださいました。その赦しのもとに生きているということは、聖霊が働くことで私たちが「それは本当のことだ」と信じることができるようにされているからです。ですから、「聖霊を冒涜してはいけない」と主イエスは言われました。
「主イエス・キリストが十字架に掛かって執り成しの御業をなさってくださっている。聖霊が働くときに、その執り成しがわたしのためだったと信じるようにされる機会が与えられる」ことを、私たちはどなたについても憶えるようでありたいと願います。
聖霊に執り成されて、私たちもまた、「主のものとして今日を生きるようにされている。信仰が弱ってしまう時があったとしても、それでも確かに、主イエスがわたしのために十字架に掛かってくださっているのだ」ということを忘れないで、憶えて生きていけますようにと祈って良いのではないかと思います。
そしてまた、まだ信仰を言い表すに至っていない隣人たちについても、「どうか主が来てくださって共に生きてくださり、慰めを与え力を与え、生きる勇気を与えてくださる、そういう生活の中に導かれますように」と、希望を持って祈り続けるあり方を確かにされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |