聖書のみことば
2025年3月
  3月2日 3月9日 3月16日 3月23日 3月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

3月9日主日礼拝音声

 収穫の主
2025年3月第2主日礼拝 3月9日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第10章1〜7節

<1節>その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。<2節>そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。<3節>行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。<4節>財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。<5節>どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。<6節>平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。<7節>その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。

 ただ今、ルカによる福音書10章1節から7節までをご一緒にお聞きしました。1節に「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。この「72人の弟子たちの派遣」の記事はルカによる福音書だけが伝える記事で、マタイ・マルコ・ヨハネの3つの福音書には出てきません。
 ルカによる福音書を著したルカは福音書の続編に当たる使徒言行録を書き著したことが知られていますが、使徒言行録1章8節に御復活した主イエスの言葉が記されています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。ルカは、主イエスが御自身の活動について、挟いユダヤやサマリアの領域に留まるのではなくて、ゆくゆくは地の果てに至るまで、つまり全世界の隅々にまで拡がってゆくことを考えておられた点をきちんと聴き取っていました。「72人の弟子たちの派遣」は、そのような後々の主の教会の拡がりを前もって表わす出来事として、ここに記録されたと言われています。

 注意して聞かないとつい聞き流してしまいますが、ここには「ほかに72人を任命した」と言われています。「ほかに」というのは何を表しているのでしょうか。今日の箇所の前の9章51節以下で、いよいよ時が満ちて主イエスがエルサレムに向かわれることを決心され、そちらに向かって堅く顔を据えられた話を聞きました。その時主イエスが、今おられるガリラヤからエルサレムに向かう道の途上にある村や町に、先に使いの者たちを遣わされたことが述べられていました。先触れの使いとして出された使いの者たちの中にヤコブとヨハネがいて、主イエスを歓迎しようとしなかったサマリア人の住む村に「天から火を降らせましょうか」と物騒な提案をして主イエスから叱られたりしていたのですが、今日の箇所は、その使者たちとは別に、「その他に」72人の弟子が選ばれ遣わされたと言われているのです。それが「ほかに72人」と言われている「ほかに」という言葉の意味です。
 そうすると、主イエスは今からエルサレムへと向かってゆく旅の更に先に72人の弟子たちを遣わされるのですから、エルサレムの十字架のその先にも、御自身が出向こうとお考えになる土地があったということになるのではないでしょうか。十字架への道と、更に続くその先の道。即ち、主イエスが十字架の御業を果たされて、その先に主イエスが神によって復活させられ、教会の主として歩み伝道して行かれる、その将来に続く先の道を既に主イエスは見通しておられたことを、ルカは今日の箇所で伝えています。
 9章51節で、主イエスは強い決意をもって、エルサレムの、特にゴルゴタの丘に立つ十字架に向かって堅く顔を向け、眼差しを注いでおられたのでしたが、その眼差しは十字架のところで途切れてしまうものではないのです。これは私たちの普段の考え方とは違うかもしれません。私たちは人の一生について、人がその一生を歩み終えお墓に入ってしまえば、そこで終わりだと考えてしまいがちです。ところが主イエスの眼差しは、死の出来事のその先へと注がれているのです。主イエス御自身にとっても十字架の死という出来事は決して軽い小さな出来事ではないはずですが、しかしそれでも、御自身の死は、神の御計画全体の中で言えば、そこで終わりとなるのではなくて、一つの通過点の出来事であると、主は考えておられました。その意味では、十字架は、必ずそこを通らなくてはならない関門のような出来事です。決してその横をすり抜けて誤魔化し通り過ぎることは許されない、その意味で非常に重大な出来事であり、そうであるからこそ主イエスは、エルサレムの十字架に堅く顔を向け目を注いで、一歩一歩注意深く進んで行かれました。そしてそれは、その先に、永遠の命を信じて感謝し喜んで生きるようになる大勢の人々が生まれるようになるための、大事な通過点の出来事だったのです。
 主イエスはかつて弟子たちに、一粒の麦が死ぬこと、そしてその麦が死んで姿が見えなくなったその後に豊かな実りがもたらされ、沢山の麦がたわわに実る穂が生まれることを教えられました。即ち、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。わたしに仕えようとする者はわたしに従え。そうすれば、わたしのいるところにわたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」とおっしゃいました。主イエスの視線は、エルサレムの十字架に堅く向けられ、さらにその先に結ばれることになる豊かな収穫へと向けられます。今日の箇所で遣わされた72人の使いの者たちは、その収穫が主イエスの十字架の御業によってもたらされることを伝える喜びの使者なのです。

 この72人は2人ずつの組になって、主イエスがこれから行こうとしておられる町や村に送られました。2人が一組で送られたということには、2人が互いに主イエスの出来事の証人としての役目を与えられているということが示されています。当時のユダヤでは、一人きりの証言は証拠としての能力を認められませんでした。2人または3人がそろって同じ証言をすることで初めて、そこに述べられていることは本当のことであると認められたのでした。ですので、弟子たちが2人ずつの組で遣わされるということには、「主イエスの出来事について証しをする証人」の役割が期待されていたのです。弟子たちが遣わされて出向いた先でなすべきなのは、今の時代に関する自分自身の考えを吹聴したり自分の思いを吐露することではありせん。そうではなくて、旧約の預言者たちが神より託された言葉を忠実に語り続けたように、弟子たちもまた、メシアであり、本当の意味で神と私たち人間との橋渡しとなってくださる方、「主イエス・キリストというお方が確かにいらっしゃるのだ」ということを伝えることこそが、遣わされてゆく者たちとしてのなすべき務めなのです。
 そしてその務めを忠実に果たしているならば、伝え方や言葉の上手下手ということは、あまり重要ではないかも知れません。何故なら、弟子たちが遣わされて行く先というのは、主イエス御自身もこれから行くつもりにしておられる土地だからです。弟子たちが下手な言葉でしか伝えられないとしても、その言葉はやがて、主イエスが実際に来てくださる時には、「本当のことだ」とはっきり分かるようになります。ですから、「主イエスがおられる」ことを伝える言葉は、上手に伝えなくても良いのです。
 私たちは礼拝が終わると銘々の生活に戻って行きます。一週間、それぞれに与えられている生活の持ち場へと帰って行きます。けれども、私たちが主から送り出され遣わされて一巡りの生活に向かっていくというのであれば、私たちが今から過ごそうとしている一週間の生活の中に、主イエス・キリスト御自身も来てくださろうとしているということになるのではないでしょうか。時おり、こんなお祈りの言葉を耳にすることがあります。「今日の礼拝で聞いたことを心に留め、この先一週間の生活の中に生かすことができますように」と。主イエス・キリストという方は、私たちがここから携えて持ち歩くような何かの知識なのでしょうか。主イエスが私たちが遣わされていく場所に来てくださる、弟子たちがこれから主イエスが行こうとしておられる場所に遣わされるという時には、私たちがここで与えられた知識や示唆やインスピレーションのようなものをここから持ち運んで行って、そしてこれから一週間の生活の中で誰かにそれを示して見せるということなのでしょうか。確かに、そういう仕方でも、主イエスが私たちに御自身を示してくださるという場合もあるかも知れません。
 けれども、主イエス・キリストというお方は、私たちの知識の中に収まるようなお方ではありません。私たちが思いもしていない時、まったく予想もしていなかった場所で、主イエスが私たちの生活の中を訪れてくださり、確かに生きておられ、命を生きることを支え応援してくださっていることを知らされて、私たちは大いに慰められ、勇気と力を与えられて、またそこから生き直し始めるような仕方で、主との喜びに満ちた出会いを経験させられることがあり得るのではないでしょうか。

 主イエスは、御自身の十字架の先に生じる、そんな喜びに満ちた豊かな実りを見通して2節のようにおっしゃいます。「そして、彼らに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」。主イエスは「収穫は多い」とおっしゃっています。
 けれどももしかすると、私たちは日頃、この主の言葉とは裏腹なことを考えてしまうことも多いかも知れません。即ち、「収穫と言っても、わたしにはごく僅かしかない。一体、自分の生活のどこに豊かな収穫が与えられているというのか」と考えて、不平や不満を抱き、投げ遣りなあり方になってしまうようなことがあるかも知れません。けれども、たとえ私たちが神の御業を分からなくなって投げ遣りに流されてしまうような時にも、実はそういう私たち自身は、そのような中で神の御手に支えられることで確かに生かされているのです。私たちはどうして今日生きているのか。それは、今日必要なものが神から確かに与えられているからです。そうであれば、考えようによっては、私たちにそれぞれ与えられている今の生活そのものが、収穫として、私たちの目の前に示されているのではないでしょうか。せっかく豊かな収穫が現に目の前に与えられているのに、私たちはそれを感謝して受け取ろうとせず、感謝の収穫のために働こうという気持ちにならないということが、私たちには案外多いのです。私たちは銘々に与えられ遣わされている生活の中で、収穫の主に祈り、与えられている収穫に喜んで仕える良い働き手としてくださるように祈ることが許されているのではないでしょうか。そしてまた、それが勧められているのではないでしょうか。
 「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と主イエスは教えられましたが、これは、私たち一人ひとりの信仰生活について当てはまる言葉であるように聞こえます。
 太平洋戦争が始まる前に山梨英和女学校で英語の教鞭をとっていた村岡花子先生が、「少女パレアナ」を翻訳した話は有名です。あの小説の中で、主人公のパレアナは、幼い時に両親と死別し、しかし父親の遺言であった「幸せ探し」をしながら、周りの人たちと成長してゆきます。あのお話はフィクションではありますが、豊かな収穫を前にして働き人となる可能性を私たちに教えてくれているように感じます。
 命の造り主である神が私たちの生活を顧みてくださり、支えてくださる以上、私たちの生活には、日々、豊かな収穫が与えられているに違いありません。主イエスも、そのような神の配慮と保護を御覧になって、豊かな収穫の話を弟子たちにしておられることを、私たちはここで覚えたいのです。

 ただし、そのような自分自身にとっての収穫や幸いを探し求めるようなあり方に危険が伴うことも、主イエスはよく承知しておられます。それで、豊かな収穫のあることを示して弟子たちを励ますと共に、戒めの言葉もお語りになります。3節4節に「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな」とあります。不思議な言葉にも聞こえます。主イエスは人間不信をあおっているのでしょうか。「他人を見たら泥棒と思え」とおっしゃっているのでしょうか。遣わされる弟子たちが小羊で、狼はそれ以外の者だと言っておられるのでしょうか。仮にそうであるとするならば、小羊には勝ち目はないでしょう。しかし、ここに言われている狼は、実は遣わされてゆく弟子たち自身の中にも潜んでいるのではないでしょうか。
 礼拝が終わった直後、私たちには新しい志が与えられる場合があります。「これからの一巡りの間、神にお仕えする僕として歩もう」と思う良い志が与えられるのですが、せっかく与えられたその志を、私たち自身の中に潜む狼があっという間に喰い尽くしてしまって、一週間の生活は感謝や喜びを数えるのではなくて、不平不満と怒りばかりを数えて不機嫌に過ごしてしまうということがあるのではないでしょうか。
 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と主イエスはおっしゃいます。主イエスがおっしゃる小羊というのは、十字架の上で自らを犠牲としてささげた、その小羊ではないでしょうか。弟子たちは主イエスから一つの約束を与えられています。「あなたがたが赴く、その先に必ずわたしも行くことにする」という約束です。けれどもそれだけではなくて、弟子たち一人ひとりには、「小羊である主イエス」が与えられています。弟子たちは、「十字架の上に御自身を捧げてくださった主イエス御自身が弟子たちと共にいる」という御言も与えられて、それぞれの生活へと遣わされていきます。そしてそれは、主を知らない人たちだけでなく、キリスト者自身の中にも渦巻いている貪欲の世界の中に、小羊を伴って歩んでゆくような生活なのです。気をつけていないと私たちは、狼のような貪欲さに負けて流されてしまい、あっという間に、私たちを神の赦しと祝福の下に置いてくださったお方、小羊を見失ってしまいかねない、そういう危険を常にはらんでいるのです。ですから主イエスは、「行きなさい。しかしそれは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」とおっしゃるのです。

 そういう中で、主イエスは弟子たちに、なお実際的な忠告をしてくださいます。「財布も袋も履物も持って行くな」とおっしゃるのです。財布と袋というのは、貪欲との関わりで警戒すべきであることは分かり易いでしょう。金銭であれ品物であれ、それ以外の名誉や精神的な事柄であれ、私たちは自分が豊かになりたい気持ちを、いくつになっても持っています。そのような物的あるいは精神的執着に対する戒めが、「財布と袋を待つな」ということを通して教えられています。「あなたには小羊がついている。そのことを忘れるな」と言われています。
 最後の履物ですが、これは「履くな」と言われているのではなくて、「持って行くな」と言われています。ですからこれは、「今足に履いている履物とは別の、予備の履物を持って行ってはいけない」と言っているのです。今履いているその履物で一巡りの時を生きるようにという勧めです。そしてこの履物は、私たちにとっては、主イエスの福音なのです。もしも一巡りの間に、福音が分からなくなったり信じられなくなった時に、別の教えに乗り換えようとして、たとえば律法の行いであったり偶像のようなものを、小羊と共に持ち運んではならないのです。
 そしてさらに、持ち物への警告に加えて、「途中でだれにも挨拶するな」と教えられています。これは決して、無愛想に生きよということではありません。挨拶や世間話に紛れてしまって、小羊が与えられていることを、主イエスが共に歩んでくださることを忘れないようにという戒めです、私たちはともすると、毎日の暮らしの中で、他の人との他愛のないおしゃべりや交わりが楽しければ、もうそれで良いと思ってしまう心の隙を持ちがちです。人並みに生きればそれで良いと思ってしまうのです。教会生活を続けていると、御言を聞かされて「新しく生きなければならない」という気持ちを持ち続けることが比較的できるのですが、何らかの事情で教会生活から引き離されてしまうと、私たちは、いつの間にかこの世の生活にすっかり埋没してしまい、自分が主イエスから招かれ選ばれて弟子にしていただき、主イエスに伴われてこの人生を歩んでいるのだという感覚を忘れてしまうという危険をはらんでいます。「途中で挨拶するな」と教えられているのは、「主イエスが共におられることを忘れないように歩みなさい」と勧められているのです。

 その上で、主イエスはキリスト者一人ひとりが、神の平和をもたらす務めを与えられていることを教えられます。どこの家に入っても、キリスト者がなすべきことは平和を祈ることです。この平和は、単に争い事や戦がなくなれば良いというのではありません。上辺の静かさではなくて、本当の意味で主に支えられ満たされて生きる生活が「平和」という言葉で教えられています。それは、私たちが自分の欲求や欲望に駆り立てられるように生きて自己実現を願う時には、決して実現しないものです。ですが、主に心から信頼し、主イエスと共に生きることを祈り願い、そのことを純真に望んで生きる生活の中では、確かに与えられるものなのです。ですので、主から遣わされ、主に従い信頼して信仰生活を生きる人は、その生活の中で、充分な報酬を受けて生きるようになるのです。

 私たちは、今日この礼拝から銘々の生活へと遣わされていきます。その時、私たちの歩みを背後から見守ってくださっている眼差しがあるということを覚えたいのです。私たちの仰ぎ望む遥か先の将来まで見通される方が、私たちのことを御覧になってくださって、私たちの出遭う一つ一つのことに御言葉をもって導きを備えてくださる、私たちの後ろ盾となってくださいます。
 この主に見守られ、配慮を受けて歩んでゆく幸いを感謝したいのです。お祈りをささげましょう。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ