聖書のみことば
2025年3月
  3月2日 3月9日 3月16日 3月23日 3月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

3月2日主日礼拝音声

 時の訪れ
2025年3月第1主日礼拝 3月2日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第9章51〜56節

<51節>イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。<52節>そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。<53節>しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。<54節>弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。<55節>イエスは振り向いて二人を戒められた。<56節>そして、一行は別の村に行った。

 ただ今、ルカによる福音書9章51節から56節までをご一緒にお聞きしました。51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。何気なく読み進んでしまいそうな文章ですが、この1節の中には、非常に重要な3つの事柄が述べられています。

 その第一は、「時が満ちた」ということです。新共同訳聖書では「時期が近づいた」と訳されていますが、ここは原文で読みますと「日々が全て満ちた」と書いてあります。丁度、砂時計の砂が少しずつ落ち、やがて全て落ちて、遂にその時がやってきたというニュアンスの書き方になっています。

 第二番目は「取り上げられる」あるいは「取り去られる」という言葉がここに書かれています。新約聖書ではここだけに出てくる言葉で、新共同訳聖書では「天に上げられる」と訳されていますが、厳密に言えば「天に」という文字は元々の聖書にはありません。「上げられる」と書いてあるのです。「上げられる」というのは、神によって地上から取り去られ、上に上げられるという意味で、主イエスがこれからメシアとして果たされる十字架の御業と復活の出来事、さらには復活後、主イエスが天に昇られる昇天の出事事全体を指しています。
 私たちは、十字架の死の出来事と復活、さらには主イエスの昇天の出来事を、それぞれ別の時に起きた3つの出来事のように考えがちなのですが、神の側から御覧になった時、それらはすべて一つながりにつながっていて、主イエスを上へと招く、そういう出来事なのです。つまり、「救い主としての御業を果たす時がやって来た」と、主イエス御自身がこの時お感じになっておられたことを述べています。この、神によって取り去られ上へと上げられることは、旧約聖書の時代、預言者エリヤが神によって燃える炎の車に乗せられて天に上げられた出来事が知られています。
 前にお聞きしたことですが、主イエスが山に登って祈りをささげられた時、そこにモーセとエリヤが現れて、主イエスがまもなくエルサレムで遂げることになる最期について話し合っておられた出来事が語られていました。モーセとエリヤは、律法と預言者と呼ばれることがある旧約聖書全体を代表するような2人です。そしてその時に、「主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」と言われていたのは、「エクソダス」(脱出)という言葉でした。そして「脱出」は、主イエスの前に表れた2人の人物のうち、モーセが神に導かれてエジプトを脱出するという出来事を通して経験したことでした。そして今日のところでは、エリヤが経験した「神によって上へと上げられる」ということが、「時が満ちて」、今、起ころうとしています。モーセの経験した脱出の出来事も、エリヤが経験した上へと上げられる出来事も、主イエス御自身が今から経験しようとしておられる救い主であるメシアの御業の前には、比ぶべくもありません。スケールの大きさにおいても戦いの激しさにおいても、栄光の大きさにおいても、主イエスが今から実現しようとする御業は、モーセやエリヤの経験をはるかに凌駕しています。

 そして主イエスは、その御業の大きさと重大さを思って、御顔をエルサレムに向けられます。それが51節に言われている3つ目の重要な事柄です。新共同訳では、「エルサレムに向かう決意を固められた」と訳されています。「決意を固められた」と聞くと、主イエスが心の中で決心なさったかのような印象を受けますが、ここは実際には、「主イエスが御顔をエルサレムに向けられ、堅く据えられた」と記されています。もはやどんなことが起きても主イエスの視線はエルサレムから逸らされることはありません。主イエスはただエルサレムへ向かって、もっと丁寧な方をするならば、エルサレム郊外のゴルゴタの丘に立つ十字架に向かって、御自身の御顔を堅く据えられ、そこだけを見つめられます。脇目を振るようなことは決してありません。ただエルサレムを目指し、ゴルゴタの丘の中央に立てられた十字架に向かって歩んで行かれます。罵られても唾を吐きかけられても、平手打ちを喰っても、それどころか拳骨で殴られても尚、主イエスの視線は十字架から離れることはありません。御自身が果たさなくてはならないメシアの御業から決して逸れることのないように、十字架とその先にあるよみがえり、また上に上げられること、その3つを思って、主イエスはここから歩み始められます。いよいよ時が満ちてメシアとしての御業に主イエスが進み始めるという、まことに重大な始まりの出来事がここに語られているのです。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と言われている通りなのです。

 この始まりの出来事が、今日の私たちにとっては、まことに大きな結果をもたらしてくれています。仮に主イエスがこの日、エルサレムに向かって歩んでゆくことをためらい、旅立たれなかったなら、その先の十字架の出来事も起こりませんし、私たちにとって神と私たちの仲立ちに主イエスが立ってくださる救いの出来事だって、何もなくなってしまったに違いないからです。この出立の意味を、主イエスはよく承知しておられました。それで、御顔を堅くエルサレムに向けて、十字架の立つゴルゴタを見つめながら歩み出されたのです。
 このことは、今日の箇所に語られているだけではありません。今日の箇所は、はるかなガリラヤの地にあってエルサレムに向かって行く旅立ちの場面ですが、この旅を主イエスがずっと続けて行かれ、いよいよエルサレムに到着する旅の終わりのところでも、やはり主イエスが注いでおられる眼差し、主の視線を表す言い方が出て来ます。ルカによる福音書19章28節に、「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」とあります。まさに、主イエスが実際にエルサレムに入ってゆかれる場面です。そしてここでも、主イエスは「先に立って進まれた」と言われています。この「先に立って」と訳されている言葉も、「目の前にあるものに向かって」と訳すことのできる言葉なのです。つまり、主イエスは旅の初めにエルサレムの十字架に向かって顔を堅く向けられ歩み出され、そしていよいよ旅の終わりにも、「目の前にある」エルサレムの十字架に向かって先頭に立って進んで行かれます。主イエスの視線は、ずっと変わらずにエルサレムに向かっているのです。主イエスが十字架から片時も目を逸らさずエルサレムに入ってくださったおかげで、私たちは今日、その主イエスの十字架の御業による罪のとりなしを受け、神の赦しと慈しみの下に置かれて、日毎に勇気づけられ、慰められ力を与えられて生活できるようにされているのです。

 ところで、主イエスがそのように御顔を堅くエルサレムに向けてひたすらエルサレムに向けて歩み始めた時、主イエスに従っていた弟子たちの様子はどんなだったのでしょうか。主イエスに従う者たちとして、やはりエルサレムに熱心に視線を向けながら歩んでいたのでしょうか。それとも、主イエスと同じように遥かエルサレムを望むことはできないとしても、ひたすら道を進む主イエスに目を注ぎ、その背中に着いてゆこうとしていたのでしょうか。そうではなかったことがここに語られています。
 ひたすらエルサレムに目を注ぎ、目的地を目指して直進しようとする主イエスに対して、進む道の行く手に、険しい目で主イエスを見る人たちが現れます。サマリアの人々です。53節に、「しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」と、サマリアの村人たちが主イエスを歓迎しなかったことが述べられます。サマリアの人たちは、この時、主イエスの一行を歓迎して迎えませんでした。「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」と述べられています。どうしてでしょうか。サマリアの人たちは、元々はユダ王国の北隣の北イスラエル王国の地域に暮らしていた人々を先祖に持っていて、ユダヤ人たちから見れば、本来は最も近しい兄弟筋に当たるような人々です。ところが、北イスラエル王国が南ユダ王国よりも一足早くアッシリア帝国に侵略されて滅亡した時、征服国であったアッシリアは、北イスラエルの国民をアッシリア帝国内の様々な土地に移住させ、元々イスラエル王国のあった土地には、逆にアッシリア帝国内の各地から外国人たちを移入させて、北イスラエルの人たちが外国人たちと混ざり合い、民族的なアイデンティティーを失わせようとする政策を取りました。アッシリアのそんな政策の結果、北イスラエル人たちは、多くの人が外国人と混血して混じり合い、そして生まれたのがサマリア人と呼ばれる人たちの始まりとされています。
 また時代が少し下がり紀元前4世紀頃に、マケドニアのアレクサンドロス大王がパレスチナ地方を荒らし回った時、南ユダの祭司マナセという人物がユダを追放されて北イスラエルに逃れ、そこでサマリアの総督サンバラトの娘と結婚し、舅となったサンバラトの後押しでサマリア側でのし上がり、アレクサンドロスに取り入り、ゲリジム山にユダヤ教とは違う、サマリアの人々のための神殿を建てることを認めてもらい、ユダヤ教とは別の宗教集団を立ち上げることに成功します。ところがこのゲリジム山に建てられたサマリアの人たちの神殿は、アレクサンドロス王の死後、南ユダのヨハネ・ヒルカヌスが率いる南ユダの軍隊によって侵略されてしまいます。神殿だけでなく、そこに人が住んでいた形跡すら何も残らないように徹底的に破壊され、最後はそこに運河が掘られて川の水が引かれ、すべてが押し流されるということも起こったことが、「ユダヤ古代史」という本の中に記されています。
 このような歴史的な経緯がありましたので、サマリアの人たちは、元々はユダヤ人と兄弟筋だったにも拘らず、ユダの人々を、特にエルサレム神殿を酷く憎むようになっていました。主イエスがエルサレムを目指して進んでいると知って、冷やかな扱いをしたのは、そのためだったのです。

 このサマリアの人たちの冷淡な扱いを見て、弟子たちは大変に立腹しました。そして主イエスに、サマリア人の村を焼き滅ぼすようにという、とんでもない提案をしたのでした。54節に「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った」とあります。ヤコブとヨハネは、天から火を降らせることができたのでしょうか。出来るはずがありません。にも拘らず、このような提案します。この時、なぜ彼らがこんなことを言ったのか、私は長い間、不思議に思っていましたが、最近になって、こんなことを2人が言った理由に思い当たるようになりました。彼らは、旧約聖書に出てくるエリヤの出来事を思い返しながら、このように言ったものと思われます。旧約聖書の列王記上18章で、預言者エリヤが450人のバアルの預言者、また400人のアシェラの預言者たちと力比べをする場面が描かれます。その時、エリヤは神に天からの火を降してくださるように祈って、バアルやアシェラの預言者に勝利しました。列王記上18章38節から40節に「すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です』と言った。エリヤは、『バアルの預言者どもを捕らえよ。一人も逃がしてはならない』と民に命じた。民が彼らを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて行って殺した」とあります。また、列王記下1章9節から12節では、イスラエルの王アハズヤがエリヤを捕らえて運行させようとして50人の兵士と50人隊長を2度も送った話が出て来ますが、その時エリヤは50人の兵士と50人隊長をもろとも天からの火によって焼き尽くしてしまうということをしています。おそらく、ヤコブとヨハネはそういう旧約聖書の出来事を思い出して、また、山の上で主イエスがエリヤと親しく語り合っていた様子も思い出して、このような乱暴なことを思いついたものと思われます。
 主イエスは確かに山の上での祈りの時、エリヤとお語りになり、大いに力づけられておられました。けれどもそれは、メシアとしての一連の救いの出来事が、「天に上げられる」という神の御心に添う出来事であることを聞かされて、力づけられたのです。そして、その御業のために、堅くエルサレムの方に御顔を向け、脇目も振らずに進み出されたのでした。ですから、主イエスにとってのエリヤは、決して、天からの火によって自分の気にくわないものを自由に焼き滅ぼすことをするような、そういう存在ではなかったのです。

 見当違いなことを言う2人の弟子を、主イエスは「振り向いて」戒められたと、55節に語られています。エルサレムに御顔を据えて進んでおられた主イエスが、「振り向いて」2人をお叱りになったのは、この2人がとんでもない思い違いをしていたからでしょう。主イエスはこの時、足を止めて2人を戒められました。そして、それから顔を再び前に向けて進んで行かれます。
 主イエスが果たそうとしておられる御業が、どんなに真剣なものだったかということが、今日の箇所からは聞こえてくるのではないでしょうか。そして、そのように前に向かっておられた主イエスが、ひと時、足を止められ、振り向いて2人の弟子を戒めておられる姿に、主イエスがこの2人についても、御自身の救いの御業の許に真剣に導こうとしておられる様子を聞き取ることができるのではないでしょうか。主イエスは同じように、私たちのためにも十字架にも向かってくださり、私たちを救いへと招こう、導こうとしてくださいます。私たちのために心を決めて十字架に向かってくださり、そして私たちがこの世の思い煩いや誘惑に心を奪われてしまい、主イエスの救いの御業に思いを向けなくなってしまう時には、足を止めて、私たちを顧みてくださり、再び主に従うようにと呼びかけてくださるのです。そして御業を続けていってくださいます。

 私たちは、主イエスから戒めを聞かされるとき、それは再び主に従ってここから歩んでいくようにと招かれているのです。この主に伴われ、また、主が願い喜ばれる愛の業へと、私たちはここから押し出され、尚、各々の道を進む幸いな者たちとされたいのです。お祈りを捧げましょう。
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