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2025年12月 |
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| 12月7日 | 12月14日 | 12月21日 | 12月28日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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| 奉献 | 2025年歳晩礼拝 12月28日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第2章22〜38節 |
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<22節>さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。<23節>それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。<24節>また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。<25節>そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。<26節>そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。<27節>シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。<28節>シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。<29節>「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。<30節>わたしはこの目であなたの救いを見たからです。<31節>これは万民のために整えてくださった救いで、<32節>異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」<33節>父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。<34節>シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。<35節>――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」<36節>また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、<37節>夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、<38節>そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。 |
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ただ今、ルカによる福音書2章22節から38節までをご一緒にお聞きしました。主イエスの両親が生まれたばかりの嬰児主イエスにつての献げ物をするためにエルサレム神殿に詣で、そこでシメオンとアンナという2人の預言者と出会い祝福を受けたという出来事は、このルカによる福音書だけが伝えている貴重な証言です。 そのシメオンについて、25・26節に紹介されています。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」。シメオンは「正しい人」と言われていますので、その行いに後ろ指を指されるところがなかったのでしょう。その意味では、彼はファリサイ派的な一面があったと言えます。ただ、その次に「信仰があつかった」と言われていますから、非常に敬虔なところがあり、そして「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」というのは、現在のイスラエルのあり方を手放しで良いとは考えていなかったことになります。その意味ではファリサイ派的ではありましても、サドカイ派や長老たちと一緒になって最高法院の議員となり、後に主イエスを迫害し十字架につけて殺そうと画策した人たちとは違うあり方をしている人物のようです。ファリサイ派にもいろいろな人がいたようです。自分の国や社会のありように深い嘆きと憂いを感じ、またそのような時代にあって、何とか自分は正しく生きたいと願って生活していたのがシメオンであったように思われます。 こういうシメオンの生き方の姿勢から、私たちは大いに教えられるのではないでしょうか。朝のテレビドラマの主題歌で、こんな歌詞を耳にします。「毎日難儀なことばかり、泣き疲れ眠るだけ、そんなじゃダメだと怒ったり、これでも良いかと思ったり」、あるいは「日に日に世界が悪くなる、気のせいか、そうじゃない、そんなじゃダメだと焦ったり、生活しなきゃと座ったり」。こういう歌は、今の世相を確かに反映しているのではないでしょうか。今の時代、世界について毎日ニュースを聞く度に、明るく嬉しい気持ちになるよりはむしろ、これで本当に良いのだろうかと考えさせられることの方が多いように思うのです。日に日に世界は悪い方に向かっているのではないだろうかと不安がよぎったりします。 そしてシメオンは、その希望どおりの現実を目にして、安らかに生涯を終えてゆく者とされます。シメオンが目にしたのはどんな光景でしょうか。ユダヤの民がローマ帝国に対して立ち上がり、ローマ軍を散々に蹴散らして勝利する場面でしょうか。違います。彼が目にしたのは、生まれてからたかだか40日しか経っていない本当に小さい嬰児が母マリアに抱かれて安らかに憩っている光景でした。それが、シメオンに与えられたしるしでした。 私たちは今、ここで歳晩礼拝をささげています。歳晩というのは文字の上では一年の一番終わりということですが、この日に私たちが憶えるべき事柄は、年の終わり、あるいは新年を迎えるということではありません。そうではなくて、今日、私たちがささげているこの礼拝自体が、クリスマスにこの世に来てくださり十字架にかかられ復活して永遠に生きておられる主イエス・キリストを指し示すしるしなのです。教会全体研修会で「教会は何を記念するのか」を学びました。教会自体がキリストがおられることのしるしであり、キリストを記念するものとして建てられています。私たちのささげる礼拝は、どの礼拝であっても、「主イエス・キリストが私たちのために来てくださり、救いの御業を果たしてくださり、今私たちと共にいてくださることを表すしるし」なのです。ですから、この礼拝の中に、シメオンが赤ん坊の主イエスに出会って喜んだのと同じ喜びが満ちているということをこそ、憶えなくてはなりません。クリスマスが終わったらその次には年の瀬を憶え、続いて新年を憶えるということではなく、私たちの場合は、クリスマスに嬰児としてやって来てくださった永遠の方が年の終わりにも新年にも変わらず私たちと一緒にいてくださることを憶えるのです。 主イエスが常に一緒にいてくださり、私たちを神に執りなしてくださるので、私たちは、どんな状況に陥る時にも、神の御手の内に保護され、憐れみと慈しみを受ける者とされています。一見難儀ことばかりが続くように思えてならない日々にも、また、世界が日ましに悪くなり遂には滅びに直面してしまいそうな時にも、主イエスの執りなしがあるので、私たちは守られ、支えられて歩むことができます。地上の生活の終わりまで、私たちはそのような希望を持って持ち運ばれ、永遠の領域へと移されてゆきます。そして、そのように神に持ち運ばれ支えられている、その永遠の現実を表す示すしるしが、私たちの今ささげているこの礼拝なのです。 私たちが毎週ささげている礼拝が、そのように、一回毎にどの礼拝も、主イエスが共に歩んでくださる今日を憶えるものであることを理解する人は、教会の礼拝に集うことを喜びとして、そして自分自身に与えられている人生の日々も喜びとすることを知るようになるでしょう。たとえ困難に直面するときにも、神によって保護され守られ、持ち運ばれてゆくからです。人生が自分一人きりで生き抜く道のりではなく、常に主が伴ってくださり、その主の執りなしの故に神の憐れみと慈しみの下にある、主イエスに伴われた命を、私たちは生きるのです。 |
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