2024年7月 |
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7月7日 | 7月14日 | 7月21日 | 7月28日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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主の権威 | 2024年7月第3主日礼拝 7月21日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第7章1〜10節 |
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<1節>イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。<2節>ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。<3節>イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。<4節>長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。<5節>わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」<6節>そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。<7節>ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。<8節>わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」<9節>イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」<10節>使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。 |
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ただ今、ルカによる福音書7章1節から10節までをご一緒にお聞きしました。1節に「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」とあります。「これらの言葉をすべて話し終えた」というのは、6章17節から始まっていた、いわゆる「平地の説教」と言い倣わされている一連の説教をすべて語り終えたということです。主イエスは一仕事を済ませて、カファルナウムの町にお入りになりました。この町にはシモン・ペトロの家がありましたから、あるいはペトロが案内して、主イエスを自分の家に招き入れたのかも知れません。一連の説教をなさった後ですから、弟子たちを始め主イエスのことを好意的に受け止め気遣う人たちは、主に少しの休息を取っていただこうと考えたとしても不思議ではありません。 ですが主イエスはこの時、休む訳にはいきませんでした。カファルナウムに主イエスが戻って来たらしいという噂が広がり、それを聞きつけた人が主イエスの許にやって来たのでした。2節3節に「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」とあります。ある百人隊長の部下が病に冒されて死にかかっていました。この部下は、百人隊長にとって信頼のおける有能な人物だったのでしょう。病状は思わしくなく予断を許しませんけれども、百人隊長はどこかで主イエスが癒しをなさる方だと聞きつけ、主イエスに頼ろうとしました。そこで、日頃から交流のあったユダヤ人の長老たちに頼んで主イエスとの間を取り持ってもらおうとした、そのようにこの記事は聞こえるでしょう。 当時一般的には、ユダヤ人たちは異邦人とは交際しませんでした。たとえ隣に暮らしていても、水と油のように「隣は何をする人ぞ」といった調子で、没交渉、あるいはすれ違いの生活を送るのが当たり前でした。ところが例外的にこの百人隊長は、カファルナウムにいるユダヤ人たちから歓迎され交わりの中に置かれていました。それは一体どうしてだったかというと、4節5節で、ユダヤ人の長老たちが語っている言葉にそれを理解する手掛かりがあります。4節5節に「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです』」とあります。「会堂」ということが、この百人隊長とユダヤ人たちとの接点でした。百人隊長がお金を出して会堂を建ててくれた、そのことに、ユダヤ人の長老たちはいたく感激して、この百人隊長のためであれば是非とも役に立ちたいと考えて、主イエスの許に勇んでやって来ているのです。「あの方はそうしていただくのにふさわしい。神を思い、敬って、自分たちユダヤ人のために多額の会堂献金をささげて会堂を建てることができるようにしてくれたのだ」と言います。カファルナウムの会堂というのですから、ことによると、主イエスもそこに出入りなさったかもしれません。主イエスが悪霊を叱りつけ追い出された、あの時の会堂が、この百人隊長によって建てられたのかも知れません。 ところで、ここを読んでいて特に3節と6節の言葉を聞きますと、百人隊長の願っていることに矛盾した点があるように感じられます。まず3節に「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」とあります。ここには百人隊長が部下の命を救うため、主イエスに、「来て助けて欲しい」と願ったことが述べられています。ところが、その願いを聞いて腰を上げ、百人隊長の家に主イエスが向かおうとした、その道中で、「おいで頂くには及ばない」という知らせがもたらされます。ここに矛盾があるように感じるのです。6節には「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません』」とあります。「そこで、イエスは出かけられた」と言われているのは、明らかに百人隊長が主イエスに、「部下を助けに来てください」と頼んだためでしょう。一方で、是非助けに来て欲しいと頼んでおきながら、実際に主イエスがその家に向かうと、「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下へお迎えできるような者ではありません」と言わせて、主がおいでになることを断わろうとするのです。「助けに来て欲しい」と願いながら、「御足労には及ばない」という、この百人隊長の態度を、どう考えたらよいのでしょうか。 主イエスは、そういう長老たちの懇願を聞き入れて百人隊長の家に向かいました。ところが百人隊長はそのことを知って慌てます。百人隊長が先に知ったのは、おそらく「主イエスがそちらに向かったので、迎える用意をするように」と先触れに走った人がいたからでしょう。しかし、異邦人である百人隊長の家にユダヤ人である主イエスが入るということは、当時の一般的な考え方からすると、あり得ないことでした。先にも話しましたように、ユダヤ人は異邦人と交際することがありませんでした。 後の方を読みますと、彼は、自分が軍隊の統帥という一つの権威の下に置かれている者だと自分のことを紹介します。しかし権威の下に生きるという生活を知っているだけに、却って、主イエスの権威を理解したのです。百人隊長の仕える軍隊という統帥の権威は、暴力の力で人民を抑えつけ王や領主の下に従わせるためのものです。しかし、百人隊長は考えるのです。「今、死にかかっている大切な部下に救いをもたらす権威は自分にはない。死にゆく人を生かすことのできる権威は、一体どこにあるのだろうか」と。そして、自分が監視する対象であるユダヤ人たちが、神の御言に従って、御言に力をいただいて生活している様子を見て、ユダヤ人の中で癒しをするらしいと噂の立っていた主イエスに頼ろうとして、「助けてください。救いをもたらしてください」と願ったのでした。 彼が従っている権威は刀で人を殺すことはできても、死にそうになっている人を救うことはできません。軍隊やこの世の権威は、死にゆく人々については、ただ指をくわえて見送ることしかできません。 百人隊長は立場上、礼拝に参加することはできません。神の民の交わりの中に身を置くこともできません。ユダヤ人の長老たちは彼のために一肌脱ごうとしましたけれど、しかしそれほど親しく言葉を交わす間柄ではありませんでした。ですからそれが、百人隊長の家に主イエスを連れて行こうとしたことに繋がっています。しかし百人隊長が願っていたのは、主イエスに直にお会いすることではなく、主イエスの言葉をいただきたいということでした。ユダヤ人たちが神の言葉によって生きているように、この部下も神の言葉によって生きる者としていただきたいと願ったのです。驚くべきことに、この百人隊長は礼拝に出席していなくても、こういう思いをいただいています。 私たちは、こういう姿から考えさせられるのではないでしょうか。この人と私たちでは状況は違いますが、私たちもまた、この地上に働く老いの力や、家庭また周囲の事情によって礼拝への参加が妨げられる時が来るかも知れません。その時、私たちはどうなるでしょうか。礼拝から切り離されたようになるとしても、自分自身を、「たとえそれでもわたしは神の御言の支配の下にある者。神さまがわたしを覚えていてくださり、言葉をくださる。その中でわたしは生きる」という思いを与えられるならば、その人は幸いなのです。 今日の記事では、死にかかっていた人が神の御言によって生かされたという信仰の奇跡が語られていました。私たちは、たとえ人間的には死の床に置かれていると思われるような時にも、なおそこで神の御言によって力を与えられ、そして主イエスによって罪を確かに赦され、まことに清い者として生きることが赦されていることを覚えたいと思います。 |
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