聖書のみことば
2024年7月
  7月7日 7月14日 7月21日 7月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月7日主日礼拝音声

 言葉と業
2024年7月第1主日礼拝 7月7日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第6章43〜49節

<43節>「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。<44節>木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。<45節>善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」<46節>「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。<47節>わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。<48節>それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。<49節>しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

 ただ今、ルカによる福音書6章43節から49節までを、ご一緒にお聞きしました。43節と44節に「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」とあります。主イエスはここで、木とそこになる実について、樹木とその木が生み出す果実についてお話しになります。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」、木はそれぞれ、その結ぶ実によって分かるのだとおっしゃいます。

 ここで、「木」即ち、樹木にたとえられているのは何でしょうか。また、そこに結ばれる「実」にたとえられているのは何でしょうか。これは、うっかり思い違いをしてはならないと思います。その思い違いとは、ここに言われている木、つまり樹木が私たち自身それぞれのことで、実と言われているのは私たち自身の行いや言葉、また心の内に抱く思いのことだと受け取ってしまうことです。仮にこの言葉をそのように受け止めてしまうならば、私たちは例外なく絶望する以外はなくなってしまいます。何故なら、私たちはそれぞれに肉の弱さを抱えながら地上を生きている人間だからです。私たちは天使ではありません。天使たちはひたすらに神の御心のみに従おうとして、一生懸命に働いても決して疲れることのない頑健で強靭な体を持っています。聖書のどのページを開いても、神の御業を行うことにくたびれて一息ついている天使の姿に出会うことはありません。天使たちは常に神の御心に仕えていて、大変な力を持っています。例えば、一人の天使が降って来て、墓穴を塞いでいる大きな石の上に座っただけで、岩のような大石が容易に横にずれて墓への出入りが自由になる程の力を備えています。
 ですから、この木と実のたとえを聞く時には、注意して聞かなくてはなりません。これは、「良い実を生むようにしなさい」という勧めではありません。主イエスは、「茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められないものだ」とおっしゃいます。このたとえ話を聞く時に、私たちは、この話をそれぞれ自分のことだと受け取って自分中心に理解しようとすると、きっと行き詰ってしまいます。何故なら、私たち自身が木であり、私たちの行いや心の思いが実だと受け取るならば、私たちの日毎に結ぶ実は、いつでも欠点があり欠けがあり、破れと痛みを宿しているようなところがあるからです。私たちは、行いの上でも言葉の上でも、また、心の内に抱く思いの上でも、多くの傷を持ち、そのためにトゲトゲしたり痛ましかったりします。私たちがもし自分の結ぶ実を見て、このたとえの言葉を受け取ろうとすると、そこに結んでいる実の痛ましさの故に、自分自身のことを悪い実しか結べない悪い木であると判断せざるを得ないことになるでしょう。
 しかしそうなってしまうのは、「ある一本の木に思いが至っていないため」なのです。私たちに良い実を結ばせるために、この世界の中にしっかりと根をおろして植えつけられている一本の木があります。私たちがこのたとえ話を聞く時に、ここに述べられている木は自分のことなのだと思いながら聞いてしまうように、主イエスもまた、御自身のことを憶えながら、この木のたとえをお話しになっておられます。元々の木が良ければ、その結ぶ実も良いのです。そして、ここに言われている「良の木」というのは、主イエス御自身をおいて他にはあり得ません。主イエスは弟子たちに、「あなたがたは、わたしにつながっているのだから、良い実を結ぶ者たちなのだ」ということを伝えようとして、このたとえを語っておられるのです。主イエスにつながっていれば、元々の幹が良い木なので良い実を結ぶことになります。主イエスから離れてしまえば、良い木は他にはありませんから、良い実を結べなくなります。幹である主イエスとのつながりが切れてしまえば、私たちは、いちじくやぶどうといった慈養のある実を結ぶ代わりに、次第にトゲトゲしくなって野バラやあざみのようになってしまいかねないのです。

 時おり教会の中で、こんなため息のよう声が聞かれる場合があります。「新型感染症がまん延する前は今よりもずっと良かった。あの頃自分は、教会の交わりに入ることをちっとも恐れなかったし、むしろ礼拝堂が満席の状態にあったら良いのにと無邪気に考えていた。けれども感染症のために足止めされる時間がしばらくあってから、様子がすっかり変わってしまった。大勢の中に入って良いのかというためらいが、いつもどこかにあるし、それに以前のように、礼拝に出掛けてゆくことが自分の一週間の始まりだという習慣も弱まってしまったように感じる」と、辛い気持ちを言葉にしてくださる方々が複数いらっしゃいます。御本人とすれば辛い思いを正直に打ち明けてくださっている訳で、牧師としては「よくおっしゃってくださいました」と思いながらお聞きするのですけれども、しかし、こういう辛い思いが兆すのは一体どうしてでしょうか。それは、その方がまさに主イエスにつながっているからなのです。辛く苦しい思いを持つとしても、そういう仕方で、あるいはそういう形で、そこに結んでいる実は決して悪い実ではありません。そうではなくて、実は、良い実が結ばれているのです。
 今ではもう慣れてしまったことですが、愛宕町教会の牧師として赴任した時、大変驚かされたことがありました。愛宕町教会では、何らかの事情で礼拝をお休みされる方が欠席届を出して痛みを表すという習慣があり、それに驚いたのです。私がこれまでお仕えしてきた教会では、いずれもそういう習慣はなかったので、びっくりました。びっくりしたのですが、まさに礼拝に欠席届を出して痛みを表すことは、そういう仕方で、その人が主イエスにつながっていることを表しているわけで、良い実が結ばれている一つの形だと今では思っています。主イエスにつながっているからこそ、礼拝に欠席することに痛みを感じるのです。
 どんな形であれ、主イエスにつながっている以外に、私たちが良い木でいることはできないことを憶えたいのです。良い木につながっていればこそ、良い実を結べることを憶えて、時が良くても悪くても、「主のものとされてつながっていることができますように」と祈り合い、また兄姉たちや隣人の一人ひとりを主イエスの働きに委ねる、執り成しの祈りをささげる者へと育てられてゆきたいと願います。

 次の45節では、このことが特に、心の思いと口から出てくる言葉を中心に、もう一度重ねて教えられています。45節に「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」とあります。良い幹につながっている人は、その人の内に良い思いで満たされている心の倉を持つようになります。そしてこの倉には、幹である主イエスによって次々と善いものがもたらされ、その人の内に蓄えられるようになります。
 主イエスがもたらしてくださる清らかな霊の実とは、一体何でしょうか。それは、まず何よりも主イエスによって私たちに知らされている十字架の愛であり、そこから様々なものが更に生まれてきます。それは慰めであり、希望であり、平和への志であり、落ちつきであり、親切心や誠実さ、柔和や節制といったことが数えられるでしょう。
 ここ何週間かをかけて、ルカによる福音書6章に記されている主イエスの平地の説教と呼ばれる一連の言葉を少しずつ聞いてきまして、今日はその結びのところを聞いているのですが、思い返しますと、この説教の最初のところで、主イエスは4つの幸いと不幸のことを語っておられました。「貧しさの中にある人たちは幸いだ。神の国はその人たちのものである」と、一番初めに主イエスはおっしゃいました。「真実な神の御国が貧しい者たちに与えられる。その人は、貧しさの中にあってもいつも神が共にいてくださり支えてくださる生活を生きるようにされる。だからその人は、貧しくても幸いなのだ」という、そういう幸いが約束されていました。そして、主イエスがこの平地の説教の終わりのところで考えておられる「人の心の倉」の中には、私たちが神の国の一員とされ顧みられているという神の真実も日毎に運び込まれ、蓄えられていくのです。「今飢えているあなたがたは幸いである。あなたがたは満たされる。今嘆いているあなたがたは幸いである。あなたがたは笑うようにされる。そして主への信仰のために迫害されているあなたも幸いである。神さまがいつも共にいて支えてくださる、大きな報いがある」とも約束されていました。これらの約束も、主イエスとつながっている人々の心の倉の中に、日毎に蓄えられてゆきます。

 そしてそのようにして、心の内に主イエスが建ててくださった倉の中に豊かな蓄えがもたらされることで、キリスト者にはある落ち着きが与えられるようになります。罵られてもすぐに罵り返したりせず、塩で味つけられた言葉を語ったりするようになります。それは、心の中に信仰という倉が建てられていることの直接のしるしだと主イエスはおっしゃるのです。「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と主はおっしゃいます。心の中に、神が建ててくださる倉を持っている人は、ただその人の心が救われるだけではなく、その人の生活が変わってくるのです。
 世の中には、心の内に主イエスとの結びつきを持たず、従ってその心の内にある倉を持っていない人たちも大勢います。そういう人たちの場合には、御言や主イエスによる神の慰めや希望を蓄えておく場所がありません。主イエスを知らずにいる人たちも、心の内に思うことを口にしますけれども、その場合には、人生を生きてきた中で出会った人間の知恵を手当たり次第に口にしたり、あるいは自分自身の中に兆した怒りや憎しみや嘆きや絶望といった感情をそのまま口に出して、周りの人々にぶつけたりする他はありません。痛ましいことですが、もちろんそうした行動も本人としては大変真剣に行っている訳ですから、馬鹿にはできないのです。しかし、主イエスが共に歩んでくださるという信頼のない所では、人間の一生はただ死に向かってゆくだけのことになってしまい、悲惨なものにならざるを得ないのです。
 主イエスがおっしゃる良い物が収められている心の倉とは、はっきり言えば、「永遠の命を生きておられる主イエス・キリストがわたしと共に歩んでいてくださる」と信じる信仰のことです。主イエス・キリストがいつも共にいてくださり、人生の後ろ盾となってくださっているという信頼が私たちを支えるのだということを憶えたいと思います。

 こういう主イエスへの信仰や信頼は、ただ聖書の言葉を読んだり、その御言を思い巡らしさえすれば、ひとりでに私たちの中に生じるというものではありません。主イエスは46節で「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とおっしゃって、御言に耳を傾けて感心したり喜んだりするだけではなくて、御言によって知らされた主イエスを信じて、実際に主イエスと共にある生活をすることを教えられました。信仰はひとりでに生まれ育つのではありません。御言を聞いて、そこにおられる主イエス・キリストを自分自身の中にお迎えして、主が共にいてくださることを信じて生活するところに信仰は育ってゆきます。

 そのことを、主イエスは最後に一つのたとえによってお語りになりました。土台のある家と無い家のたとえです。47節48節に「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった」とあります。主イエスの許にやって来て、その御言を聞き、信じて行う人、つまり自分の生活の中に主イエスをお迎えして、主イエスが文字どおり、その人の主となっている人こそが幸いなのです。主イエスというお方は、決して押し流されることのない岩の土台だからです。主イエスの土台の上に自分の人生を建てている人は、人生の試練や誘惑が洪水のように押し寄せてくることがあっても、揺り動かされず流されることがなかったと、たとえの中で主イエスはおっしゃいます。流されないということは、主イエスの許に留まり続けたということでしょう。

 ここは注意して聞きたいのですが、主イエスを土台として生活をし、心の内に信仰の倉を持ってさえいれば、もうその人は試練に出遭わなくなるということが言われているのではありません。岩の上に土台を置いて家を建てている人にも、洪水の水は襲いかかるのです。
 この洪水は、私たちの生活に引き寄せて考えるならば、例えば、これまで忠実な礼拝生活を送ってこられた方が、ある時体の衰えや周囲の環境の変化のために、礼拝にやって来ることが難しくなってしまうようなことです。するとその人は、礼拝の生活から遠ざかっている自分自身を責め始めるのです。礼拝に参加できないのは自分の信仰が弱いためだと思って、自分で自分を責めてしまいます。
 けれども、今日の箇所の家と土台のたとえを元にして考えるなら、主イエスはきっと、こうおっしゃるのではないでしょうか。「礼拝に加わることができずに、何とも居心地の悪い思いをしている、そのような痛みこそが、洪水に呑み込まれそうになりながらも、尚、土台の上に留まり続け、土台の上に建てられている家の姿なのだ」とおっしゃって、私たちを慰め、力づけてくださるのではないでしょうか。人生の中で、私たちが置かれている環境や、私たちがどのように生きていくかということは、それぞれに変わっていく場合があります。しかしそれにも拘らず、主イエスは「あなたはわたしのものである。あなたはわたしを土台として、そこに立っている。あなたの心には倉が建てられていて、そこにわたしは良い物を与えようとしている。あなたは良い木につながっている良い枝なのだから、良い実を結びながら人生を生きているのだ」と、このように主イエスが言ってくださることを憶えたいと思います。

 大切なのは、御言をもって養ってくださる主と共に、私たちが与えられている日々の生活を生き抜いてゆくことです。信仰を実際の生活の中で表現してゆくのには、良い折も悪い折もあります。私たちの人生は決して一本調子に、まるで私たちが天使でもあるかのように、いつでも信仰を表し、神を賛美して歩める時ばかりとは限りません。入院して長い間礼拝から遠ざけられた方が久しぶりに教会に来て、本当に喜んでおられる、そういう兄弟姉妹の姿を、何度も何度も私たちは目にしているのではないでしょうか。たとえしばらく礼拝から遠ざけられたとしても、それでも主イエスは、私たちの信仰の土台となっていてくださり、絶えず御言を聞かせて、御自身の十字架の御業のもとに私たちを置いていてくださっています。

 私たちには肉の弱さがあるために、主イエスや神を忘れてしまう時もあるでしょう。でも主イエスは、そんな私たちにがっかりして、私たちが主を忘れているところでは十字架を降りて一休みしたりはなさいません。主イエスは常に、私たちのために十字架にかかり、復活して私たちと共に歩み、「あなたは今日、ここで、わたしのものとなって生きるのだ。あなたは良い木に結ばれている、良い実を結ぶ者なのだ」と言ってくださるのです。私たちの信仰の土台には、主イエス・キリストがおられます。そして、どんな嵐に出遭う時にも、確かに私たちを支え続けていてくださいます。
 この主に伴われて信仰を支えられ、神の慈しみを憶え、私たちのできる範囲で愛と慈しみを行って生きる生活へと招かれていることに感謝したいのです。
 主の言葉に聞き従う幸いな生活へと、ここからまた、遣わされてゆきたいのです。お祈りを捧げましょう。

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