聖書のみことば
2024年4月
  4月7日 4月14日 4月21日 4月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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4月28日主日礼拝音声

 あなたの罪は赦された
2024年4月第4主日礼拝 4月28日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第5章17〜26節

<17節>ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。<18節>すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。<19節>しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。<20節>イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。<21節>ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」<22節>イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。<23節>『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。<24節>人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。<25節>その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。<26節>人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

 ただ今、ルカによる福音書5章17節から26節までをご一緒にお聞きしました。17節に「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた」とあります。
 この福音書の中で、ファリサイ派の人々や律法学者たちが姿を現す最初の箇所が、今日のところです。この人たちは、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムからもやって来たと言われています。主イエスについての噂がエルサレムにまで伝わっていたことになりますが、この人々はいち早く、ガリラヤ地方で噂になっている若いラビがどんなことを教えているのかを聞きにやって来たものと思われます。ある説教者がこの箇所の説明をした中で、この人々が「険しい目つきでイエスの一挙手一投足を見つめている姿が目に浮かぶようだ」と語っています。既に何か不穏な出事事が起こりそうな気配が漂っていました。主イエス御自身はそのようなことにはちっとも頓着せず、普段通りに人々を教えておられました。主イエスの教えには不思議な権威があり、それを聞いた人たちは、その力強さに非常に驚いたと少し前の箇所に述べられていましたが、今日の箇所でも、主イエスが教えておられると神の力が働いて、病気が癒やされるということが起こっていたようです。
 主イエスが神の恵みの御支配を知らせた「神の国の訪れを告げる福音の教え」と、病んでいる人々、悪霊にとりつかれている人々を癒す「いやしの業」は、時に、2つの別々な主イエスの働きであるかのように受け取られる場合があります。しかし主イエス御自身としては、この2つの働きが別々の事柄でなかったことが今日の箇所から分かります。主イエスのなさる癒しや清めの奇跡というのは、主の教えられた神の御言が聞く人々に充分よく分かる言葉として受け止められ、まさに神の言葉が自分に語りかけられていると受け取った結果、そこで起こっている出来事だったのです。今日の箇所で、「主イエスがいつものように人々を教えておられると、そこで神の力が働いて、病気の癒しが起きた」と言われているとおりです。

 このことは、主イエスの伝道活動の初めから変わっていません。たとえば、ルカによる福音書4章31節から37節で、主イエスがカファルナウムの会堂で安息日に教えておられると、その教えを聞いた、悪霊にとりつかれた人が叫び出し、その結果、その人から霊が出て行くということが起こっています。主イエスは癒しをなさるために、礼拝が終わったところで診療所を開いた訳ではありませんでした。礼拝のただ中で、「神さまの憐れみと慈しみが、今、あなたの上にやって来ている」と教えられた、そのところで、そのことを本当に信じる信仰が生まれ、癒しや清めの奇跡が起こったのです。これは、これから先の箇所でも同じように語られます。たとえば9章11節では、ベトサイダに退いた主イエスを追いかけてきた群衆に対して、主イエスが何をなさったかが語られます。「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」とあります。主を必要とした人々に対して、主イエスは神の国の訪れを告げ知らせて、癒しもその中でなさったことが語られます。あるいは9章2節では、主イエスが弟子たちをお遣わしになるにあたって、「神の国を宣べ伝え、病人をいやすため」に遣わされたと言われてもいます。主イエスにとって癒しや悪霊を追い出す清めの御業は、それ自体が独立した一つの業だったのではなくて、「神の国、神の恵みの御支配が確かに今、やって来ている。信じる者は、神の恵みを受けて生きる者とされている」と伝える伝道の働きの一つの目に見える結果としてもたらされていたことが分かるのです。
 今日の箇所でも、主イエスはいつもと変わらず、「神の憐れみと慈しみがあなたの上にやって来ている」と語っておられました。その主イエスの前には、厳しい目を注ぎ、主イエスの教えの弱点や粗探しをしようと思ってやって来ていたファリサイ派や律法の教師たちが座っていましたが、そんなことにお構いなく、主イエスはいつも通り福音を告げ知らせていたのです。そして、その主イエスの言葉を素直に信じた人は、様々な病気や体の痛み、あるいは深刻な問題で悩みを抱えていても、不思議と、今置かれている状況から、もう一度歩んで行ってよいのだという思いを与えられ、癒しが与えられていたのでした。「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた」と言われているとおりだったのです。神の福音が語られ、それを信じた人が神の力に与って生きることを知らされ、癒しを経験させられていたこの場は、確かに大変幸いな場であったに違いありません。

 さてここに、そのような福音を聞いて与えられる癒しに、是非とも友人が与るようにされたいと願う人たちがいました。ルカはこの人たちの人数を記していませんが、他の福音書を見ると4人だったと言われています。この4人は、戸板のような床に中風を患って麻痺している友人を乗せて、主イエスの許に連れて行こうとしました。ところが主イエスのおられた家には、すでに大勢の人々が詰めかけていて、とても戸板に乗せたまま家の中に入れそうにありません。そこで彼らは、ある思いきった行動に出ました。当時ガリラヤの家は、あまり雨の降らない地域でしたから、粘土で造った平屋の家ばかりでしたが、それでもたまに雨が降ると、粘土の屋根に雨が浸みて雨漏りする場合がありました。その際の補修を行うために、家の外側に階段がつけられていて屋根の上に登れるようになっていたのですが、彼らは麻痺している友人を担いで屋根の上に登り、主イエスが話しておられる辺りの屋根をスコップのようなもので掘って穴を開け、そこから戸板に乗せて、病んでいる友を主イエスの前に吊り降ろしました。このようにされた家は4人にとっては他人の家だったに違いなく、大変乱暴な行いのようにも思えます。
 4人は後でこの穴を埋め合わせるつもりで行動したのですが、4人の願いはただ一つ、病んでいる友を主イエスの前に置き、主イエスの語る福音を聞かせたいということだけでした。主イエスの教えを聞いて、それを素直に受け取り信じることができたなら、この中風に侵されている友に、きっと何かの形での癒しがなされるに違いないと4人は考え、まっすぐに行動したのです。18節9節に「すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」とあります。家の中にいた人たちは、きっとびっくりしただろうと思いますが、主イエスはすぐに起こった状況を理解されました。そして、連れて来た4人の人たちの一心に主イエスに信頼し期待している様子を御覧になって、この人々の中に素朴な信仰が確かにあることを見て取って、おっしゃいました。20節に「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」とあります。主イエスはこの時、病人に向かって「あなたの罪は無くなった」とおっしゃったのではありません。「罪はあるし、病気の困難もあるけれども、あなたの罪は赦された。あなたは今、確かに罪の赦しの下にあるのだ」とおっしゃいました。
 何故、主はそうおっしゃったのでしょうか。4人の友人たちが確かにこの病んでいる友を憶えて、何とかして主イエスによって癒して頂きたいと願っている、その信仰を御覧になって、主イエスは、「あなたの罪は赦された」と言われました。この主イエスの言葉を聞いて考えさせられます。信仰とは一体何でしょうか。信仰とは思いの強さではありません。強いか弱いかではなく、大きいか小さいかでもなく、厚いか薄いかでもありません。ただ、信仰は、「そこにあること」が大事なのです。主イエスがそれを御覧になってくださるからです。

 今日の記事で、4人の友人の行動を御覧になった主イエスが、そこに確かに信仰を認めてくださり、その信仰ゆえに、中風の患者に向かって「あなたの罪は赦された」とおっしゃってくださっていることは、 ここにいる私たちにとって、殊に、私たちが誰かを憶えて執りなしを祈る際には、慰めとなり励みになることです。執りなしの祈りとは、苦境にありながらも自分では祈ることができずにいる人に代わって、他の人を憶えて祈るお祈りのことです。家族や親しい友人、知人たちが信仰を持つことができますようにとお祈りしたことはないでしょうか。それが執り成しの祈りです。自然災害や戦争や疫病のために元気を失い、意欲を喪失してしまっている人たちに、どうか主が共にいて助けて下さいますようにと、お祈りしたことはないでしょうか。それも執り成しの祈りです。社会の歩みの中で、リーダーとなっている立場の人々が投げやりになったり、いい加減になったりせず、負っている重い責任を果たして歩んでゆくことができますようにとお祈りしたことはないでしょうか。それも執り成しの祈りです。誰かを憶えて、自分自身で祈ることができずにいる状況の人々を憶えて代わりに祈り、あるいは祈る人たちの祈りに祈りを合わせることが執りなしの業であり、祈りなのです。
 そして、このような祈りは、大きいか小さいか、強いか弱いか、賢いか愚かかというようなことは決定的な事柄ではありません。祈りが祈られたかどうかが問題です。そして、真剣にささげられた祈りは、どんなに素朴な祈りであっても、主イエスはきっとそれを御覧になり、祈りに耳を傾けてくださいます。
 日本語の辞書には、祈りについて、「何かの願いや思いを強く念じることが祈りである」と、まず書かれています。2番目に、「キリスト教の祈り」と書いてあるものもあります。ですから日本人の多くは、自分の思いを強く持つことが祈りだと思いがちですが、お祈りは、私たちの強い思いを誰かに及ぼすような魔法ではありません。あくまでも罪を赦す権威をお持ちなのは主イエスです。主イエスが私たちに代わって十字架にお掛かりになり、私たちの罪を精算してくださった方として、赦しを与えてくださるのです。その主イエスの働きを抜きにして、一足飛びに私たちが自分の祈りを、誰かに影響を及ぼす便利な道具のように思い違えてはなりません。あくまでも罪の赦しを宣言して、赦しの下に人間を招き持ち運んで下さるのは、主イエスなのです。
 けれどもこの方は、私たちの罪が赦されるために十字架に掛かってくださった方ですから、私たちがその赦しを信じて生きることを切に願うならば、きっと赦しに与らせてくださいますし、同じように、私たちが誰かを憶えて真剣に祈るならば、主イエスは、その人のこともきっと、赦しの中に導いて下さるのです。

 「人よ、あなたの罪は赦された。あなたは今、たとえ困難の中に置かれているとしても、間違いなく神の赦しのもとに置かれている」と主イエスが宣言して、中風の人を確かに赦しの中に置いてくださったところまでは、この場の出来事は大変麗しく持ち運ばれていました。主イエスが共に歩んでくださり、御言を語りかけてくださる中で、その御言が実現されると信じられるところでは、たとえ困難な状況があるとしても、事柄はきっと好ましく持ち運ばれて行きます。まさに主にある平安がもたらされるのです。主への信仰は、私たちに幸いを与えてくれるのです。
 ところが、この日この場所には、主イエスの言葉を決して信じようとしない人々、主イエスの罪を赦す権威を決して認めようとしない人々が座っていました。ファリサイ派の人々と律法学者たちです。彼らは、主イエスの言葉を信じません。21節のように心の中でつぶやきます。「ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。『神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか』」。この人々は、主イエスが罪の赦しを持ち運んでくださることを認めません。主イエスによる赦しの宣言を聞いて、神を冒瀆する言葉だと受け止め、信じて一緒に喜ぶことをしないのです。彼らはこの場所に共にいたのですから、主イエスの言葉を聞いて共に喜ぶこともできた筈です。ところが主イエスの言葉を信じることができなかったために、神の救いの御業を喜んで讃えることができなかったのです。
 このことは、主イエスに反発を感じた当人たちにとっても残念なことだったと言わざるを得ません。主イエスによって罪が赦されている、そのことが宣言されているその場に同席しながら、そのことを信じなかったからです。主イエスが神の慈しみの御支配を宣べ伝え、そのしるしとして癒しの出来事が起こり、人間の罪が赦されて神が共にいてくださることがせっかく伝えられても、そのことを喜んで信じ受け入れるのではなくて、冷ややかに背を向けてしまう可能性も人間にはあることを、今日の記事は物語っています。神が主イエスを通して私たちを深く愛していてくださることを、せっかく耳にしても、その良い知らせを自分の身に受け取ることなく立ち去る場合だってあるのです。

 注意深く今日の記事を聞き取りたいのですが、主イエスの言葉を信じられず、神を冒瀆する言葉だと感じた人たちは、ただ心の中でそう思いめぐらしただけで、その思いを口に出した訳ではありません。即ち、思いを口に出して、はっきりと主イエスを非難し、公衆の面前で主イエスに反論したり攻撃したりはしていません。ですから、もし主イエスがこのことを放っておかれたならば、今日の箇所の21節から後の出来事は何も起こらなかったに違いないのです。
 ところが主イエスは、この人々の心の内にある思いに気づかれ、そして、主の方からこれを問題になさるのです。22節から24節に「イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。『何を心の中で考えているのか。「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう』そして、中風の人に、『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた」とあります。主イエスの方が、彼らの心の内を見抜いて先に問題になさったということは、どういうことでしょうか。主イエスは、この人々にも彼らの目の前で起きている出来事がまことに罪の赦しの出来事であることを はっきりと知らせたかったのではないでしょうか。そのために主イエスがなさったことは、思いかけない問いかけでした。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と、主イエスはお尋ねになります。この問いかけは実は難問だと思います。「罪が赦される」というのは、文字どおり赦しの事柄ですが、「起きて歩く」というのは、この場合、病気が癒やされて歩き出すことであって、癒しの事柄だからです。罪が赦されるという、神だけがなさる事柄と、病気が主イエスによって癒やされるという、これも神の憐れみと慈しみの業として起こることを並べて、どちらが易しいかと尋ねられても、私たちには、すぐに答えることはできないでしょう。
 教会の歴史の中では、この時主イエスが口になさった問いに真険に向き合い、答えようとした真面目な神学的営みのあったことが知られています。しかしその答えは、時代によって違っているようです。そしてそれは、疫病や伝染病の流行に影響されるようです。私たちも経験した感染症の初期には、もしかすると、この病が社会や教会に対する神の裁きを表していると考えるようなことがあったかもしれません。そこでは「罪の赦し」を考えることができず、裁きを受けないためにどうしたらよいかという思いが先立ったかもしれません。
 しかしそもそも主イエスは、何らかの返事を求めてこの問いかけをなさったのでしょうか。罪の赦しも、不思議な仕方で麻痺が癒やされる奇跡も、どちらも「人間にはできないけれども、神はおできになるのだ」ということをおっしゃろうとして、こういう問いかけをなさったのではないでしょうか。
 私たちは「罪を赦され、生かされている」ということを信じてはいますけれども、それ自体は、何かの形で見ることはできないような事柄です。一方、病気の癒しの方は、不思議なことであるには違いありませんが、個人の前に事実として起きればその出来事を見ることができます。主イエスは病気の癒しという不思議な出来事を通して、罪の赦しという神の御業も本当に起きていることであることを信じて欲しいと願い、この問いかけをなさり、そしてこの人を癒やされたのではないでしょうか。
 主イエスのそういう思いは、24節で主イエスがおっしゃっている言葉からも感じ取ることができます。「『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』…と言われた」とあります。ここで主は、御自身のことを「人の子」と名乗っておられます。人間は皆、人間から生まれますから、その意味では、誰も彼もが「人の子」なのですが、そういう一般的な意味合いの先に、主イエスは旧約聖書ダニエル書7章13第の言葉を下敷きにしながら、御自身が何者であるかを教えておられるのです。ダニエル書7章13節では「人の子のような者」が、神の御前に進んで、この世界を最終的に治める権威を与えられます。今はまだ多くの獣が我がもの顔に行動し、戦や争いや流血といった混乱が絶えないこの地上ですが、最後には神から権威を認められた「人の子」がすべての荒廃と混乱を慎め、清らかな支配を確立するという預言が、ダニエル書に語られています。
 主イエスは、そういう最終的に権威を表すことになる「人の子」が、地上で罪を赦す権威も持っている、そのことを示すのだとおっしゃって、中風の人の麻痺を癒やされるのです。ですからこれは、「罪を赦す」ことと「病気を癒す」ことと、どちらが易しく、どちらが難しいかということを問うているのではなくて、「あなたがたの目の前で行われたこの癒しの業を見て、主イエスが罪を赦す権威をお持ちであることを信じるようになりなさい」という、信仰への招きの御業なのです。「見ないで信じないのではなく、見て信じる者になりなさい」と、主イエスはそうおっしゃりながら、今日の箇所で、中風の人を癒やされたのでした。

 今日の記事は、私たちにも、「信じる者となるように」と語ってくれているのではないでしょうか。主イエスは中風の人に向かって、その4人の友人の信仰を御覧になり、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。4人の友人たちは病ある友を憶えて、真っ直ぐに主イエスに期待を寄せて、「主イエスがきっとこの人を癒してくださる、赦してくださる」と信じて、主イエスのもとにこの人を連れて来ました。
 「人よ、あなたの罪は赦された」という主イエスの言葉は、この人だけに向けられた言葉ではなくて、私たちにも同じ言葉が語りかけられ、宣言されているのではないでしょうか。私たちはどういう者でしょうか。私たちは例外なく、教会の交わりの中に受け止められ、憶えられ、抱かれている者たちです。主イエスは、その教会の信仰を御覧になって、私たちにも同じように「人よ、あなたの罪は赦された。あなたは今、赦しの中にいる。神さまが共に歩んでくださり、憐れみと慈しみを注いでおられる。あなたは神に憶えられ愛されている者として、今日ここから歩み出してよい」と呼びかけてくださっているのではないでしょうか。

 私たちは実にしばしば、信仰を自分の持ち物の一つであるかのように錯覚して、自分の信仰の薄さ、弱さ、小ささを嘆きます。けれども、私たちを支える信仰は、自分自身の思いの強さや熱心さではなくて、私たちを神に委ね、信頼と希望をもって主を見上げる教会の営みの中で与えられているものなのです。そして主イエスも、その教会の信仰を御覧になって、私たちに罪の赦しと新しい命を宣言してくださるのです。
 私たちは、自分が多くの人たちの執りなしによって、今、神のものとされていることを憶えたいのです。そして、教会の群全体の歩みに抱かれている者にふさわしく、私たち自身もまた、自分の身の上に清めが訪れますように、兄弟姉妹や隣人たちが主イエスの赦しのもとに置かれ、神に清められ、それぞれの歩みを進めていくことができますようにと祈る、執りなす者としてのあり方を新しく与えられてゆきたいのです。お祈りをお捧げしましょう。

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