2024年4月 |
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4月7日 | 4月14日 | 4月21日 | 4月28日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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神の国の福音 | 2024年4月第1主日礼拝 4月7日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第4章42〜44節 |
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<42節>朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。<43節>しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」<44節>そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。 |
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ただ今、ルカによる福音書4章42節から44節までを、ご一緒にお聞きしました。42節に「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」とあります。 一方、群衆は主イエスを必要としていました。日が昇ってからペトロの家に押しかけ、主イエスがもはやそこにはおられないと知ると、主イエスを捜し始めました。やがてとうとう荒れ果てた淋しい場所で祈りをささげておられる主イエスを発見します。主イエスの許までやって来ると、彼らは、主イエスが自分たちを離れて遠くに行ってしまわないようにと、「しきりに引き止めた」と述べられています。群衆が主イエスを引き止めにかかった理由は明らかです。それは、主イエスが万能な癒やし手として、彼らにとって極めて役に立ってくださったからでした。「このような癒やし手がすぐ近くにいてくれれば、どんな病気も心の病も悪霊の業も恐れるには及ばない。困った時は、この方に頼ればよい」という思いから、カファルナウムの町の人々は、熱心に主イエスを引き止めようとしたのでした。主イエスはカファルナウムの町の人々によってその働きを大いに認められ、この町に滞在してほしいと求められます。人間的に言えば、主イエスのカファルナウムでの働きは大きな成功を収めているように思われます。 実はこの福音書では、今日の箇所の出来事よりも前に、ナザレの会堂での出来事が語られていました。主イエスは故郷の人々に言われました。4章23節に「イエスは言われた。『きっと、あなたがたは、「医者よ、自分自身を治せ」ということわざを引いて、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うにちがいない』」とあります。ここで、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが」と言われていることは、実際には今日聞いている出来事です。まさに今日聞いている出来事が噂としてガリラヤ地方に広がり、ナザレの人たちの耳にも届いていたのでした。ですから、ルカによる福音書では、時間軸で考えると順序が逆転しています。ナザレの会堂で主イエスのおっしゃった出来事が先に書かれていますが、しかしナザレの会堂で主イエスのおっしゃっていることは、今日のところで主イエスがカファルナウムの人たちから大いに頼りにされて自分たちの許から離れて行かないで欲しいと言われている噂がナザレの人たちの耳にも届いたことを示していますから、ルカは、今日聞いているカファルナウムでの出来事とナザレの会堂での出来事を、実際に出来事が起こった時の順序を変えて、わざとナザレの会堂の出来事を先に、そして今日の出来事を後に記しているということになります。一体どうしてルカは、このように順序を逆にするような書き方をしたのでしょうか。 そこで、ふと思い出されることがあります。それは、この福音書を著したルカが、自分は主イエスの事柄について詳しく調べたことを「順序正しく書くことにした」と言っていたことです。1章3節に「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」とあります。ルカはこの福音書を著すにあたって、特に「順序正しく書きます」と宣言しています。その言葉を聞けば、何も考えなければ普通は出来事の起こった順番に従って、即ち、時系列の順序に従って記しますと言っているように聞こえます。ところが実際にこの福音書を読んでみますと、今日の箇所のように、時間の順序とは違う仕方で出来事が並べられて書かれていることに気づかされるのです。これは一体、どうしてでしょうか。ルカが考える順序正しさというのは、出来事の起こった順番ということではなくて、何か他の順序を考えているのでしょうか。どうもそうであるようです。 そこで、今日の箇所での主イエスと人々のやりとりを理解するためにも、もう一度、あのナザレの会堂で主イエスがおっしゃった最初の言葉に立ち戻って、主イエスが何と言っておられたかを思い返したいのです。ルカによる福音書4章17節から19節に「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである』」とあります。 そして、このナザレの出来事に続く4章の記事では、主イエスがカファルナウムの会堂で、悪霊にとりつかれていた男の人から何の傷も負わせずに悪霊を追い出したことや、その日の午後にシモンの家で、姑の熱を叱りつけて熱病を去らせたこと、さらに夜になって町中の人々の病気や心の病いの苦しみ一つひとつに手を置いて癒しをなさった出来事が記されていました。カファルナウムの町の人々は、主イエスによって起こされた出来事を自己中心的に受け取って、このように不思議な力で病気や悩みを追い出して下さる方を、自分たちの許に何とかして引き止めようと考えました。それが今日の場面です。しかし、主イエスによる癒やしの業は、単純に病気が治ったり、悩みや嘆きがなくなったりする点に目的があるのではなくて、イザヤ書に言われていたように、「神の恵みが今ここにやって来ていることを知らせる」ことにあったのです。 そしてこの町を出て、周辺の町々村々にも出かけ、宣教なさいます。44節に、そんな主イエスの姿が記されます。「そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。」とあります。主イエスは、「神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」と、おっしゃいました。カファルナウムの人々は、幸いなことに、そんな主イエスの働きの一端に触れる機会を与えられました。そして、多くの癒やしや慰め、勇気を与えられるという経験をしました。 しかし、主イエス御自身の働きは、単なる癒やしや慰めを与えることだけに留まりません。主イエスのまなざしは、病や様々な問題と関わられる時、常に、その背後にあって私たち人間を虜にしようとする勢力に向けられています。即ち、病気やこの世の様々な苦労や困難の背後に身を潜めながら、私たち人間の生きようとする思いを意気阻喪させて諦めさせ、虜にしょうとうごめいている罪と死の勢力に向けられています。そして主イエスはその勢力と戦われ、私たちを最終的に、死に向かって生きることから解き放とうとしておられるのです。それが、主イエスの言われる「神の恵みの時が今ここに訪れている」ということです。 主イエスは、そのように私たちが自分中心になり神との間柄が切れた状態になって、最終的には絶望的な中を生きるのではなくて、たとえ弱さや小ささを憶えることがあっても、なおそこに神の恵みと慈しみが一人ひとりの上に注がれていることを知らせようとなさいます。一人ひとりの上に手を置いて「あなたは神さまに顧みられているのだ」と伝えてくださいます。そして、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」とおっしゃるのです。 実は、主イエスがカファルナウムの町に安住することなく、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせるのだ」とおっしゃったことが、今日ここにいる私たちには本当に幸いな結果につながっています。主イエスがこうおっしゃったからこそ、ほかの町に福音が伝えられています。そしてだからこそ、今日、日本に住む私たちにも神の慈しみと憐れみが訪れ、私たちは、神を讃えて生きる者とされているのです。 |
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