聖書のみことば
2024年2月
  2月4日 2月11日 2月18日 2月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月7日主日礼拝音声

 立ち上がる主イエス
2024年2月第3主日礼拝 2月18日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第4章14〜30節

<14節>イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。<15節>イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。<16節>イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。<17節>預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。<18節>「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、<19節>主の恵みの年を告げるためである。」<20節>イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。<21節>そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。<22節>皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」<23節>イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」<24節>そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。<25節>確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、<26節>エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。<27節>また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」<28節>これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、<29節>総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。<30節>しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 ただ今、ルカによる福音書4章14節から30節までご一緒にお聞きしました。14節15節に「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」とあります。
 “霊”の力に満ちて、主イエスがガリラヤにお帰りになったと言われています。どこからお帰りになったのでしょうか。荒れ野からです。この前の4章1節2節には「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」とあります。1節では、主イエスが「聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」と言われ、そして今日のところでも、主イエスが「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」と言われています。1節と14節で、とてもよく似た言い方が出て来ます。共に主イエスが「聖霊に満ちていた」と言われています。
 けれどもある説教者は、この2つの場面、ヨルダン川から帰られた時と荒れ野から帰られた時の主イエスのお姿は、果たして同じだったのだろうかと問いかけました。その説教者によると、いずれも主イエスが聖霊に満ちていると言われているけれども、外から見たところの主イエスの様子は随分違っていたのではないだろうかと、想像を逞しくしているのです。どう違ったのでしょうか。ヨルダン川で洗礼を受け、神に祈りをささげる中で「神に愛され御心に適う働きをする僕である」という御言をいただいてヨルダン川から帰って来られた時には、主イエスは溌剌として、神の求める働きにこれからお仕えするのだと、気力も充実していたに違いないと言うのです。それに対して、ガリラヤに戻られた時というのは、荒れ野で40日間悪魔から誘惑を受け、空腹にもなられた後ですから、見かけの上ではとてもお疲れになっているように見えたのではないかと言うのです。しかし、肉体的精神的には疲れを憶えておられても、「神の僕としての働きに召されている、その事実によって、主イエスは大いに励まされ、慰めと勇気を与えられ支えられている。従って、ガリラヤに戻られた主イエスは神の力によって支えられている力強さがあったのではないだろうか」と、そのように想像しています。
 こういう話から考えさせられるのですが、神の御業にお仕えするのだという喜び一杯の思いが与えられている時にも、私たちには様々な境遇が有り得るのだと教えられます。これから神にお仕えするのだと大変明るい思いでいる時もありますが、悪魔からの試練というような激しい経験に出遭って、自分自身の弱さ、貧しさを嫌という程味わいながら、しかし弱い自分をなお神が憶えていてくださり、「あなたは今日ここで生きるのだ」と御言をかけていただいている、そういう時もあります。人間の姿は様々になる時がありますが、いずれも聖霊の働きの下に置かれ、神から力を与えられて生きてゆく幸いな僕の姿である点には違いがありません。
 教会にも様々な時期があり、キリスト者個人個人の生涯においても、いろいろな経験をする時があります。けれども私たちは、置かれた状況の中で、「聖霊がこのわたしの上に臨んでいて、慰めと勇気と力を与えてくださる。主イエスも弱い私たちを導いて先へと歩ませてくださる」、そういう幸いな者たちであることに気付かされるのです。健やかな時も病む時も、若い時にも年をとってからも、また、順調な境遇の中を導かれている時も、逆境の中に置かれる時も、聖霊が私たちの上に注がれ、主イエスがキリスト者一人ひとりに常に伴っていてくださいます。私たちが様々な経験をする時にも、なおその生活に、「“霊”の力に満ちておられる主イエスが、私たちと共に歩んでくださる」ことを、今日の箇所の最初の部分から聞き取りたいと思います。

 今日お聞きした箇所には、主イエスが故郷であるナザレの村にお帰りになり、子どもの頃から親しんでおられた会堂での礼拝に参加された時に起こった一つの事件が語られています。その前半には、会堂での礼拝の中で起こった出来事が語られ、また後半では、その出来事を目撃したナザレの人々の態度が語られています。
 そして、これは指摘されないとなかなか気づけないことですが、初めの方では、主イエスが「立ち上がって」聖書の御言を朗読し会堂にいた人たちに聞かせてくださるのに対して、後の方では、会堂内にいたナザレの人々が「総立ちになって」主イエスを町の外に追い出し崖から突き落とそうとしています。今日の記事は、2つの「立ち上がる」という動作に挟まれるようにして記されているのです。
 まず、主イエスが礼拝の中で「立ち上がって」くださったとは、どういうことでしょうか。この時、主イエスは御言を読み聞かせ、福音を告げ知らせ、神の恵みの力、神の愛の力で人間を支え力づけて、正しいあり方をさせようと行動してくださいました。ところが後半になると、それを聞いた人たちが、そのような主イエスのなさりようを素直に受け止めることができないという姿が語られています。ナザレの人たちは、主イエスを崖から突き落とそうとしましたが、主イエスは、そういう人たちによって葬り去られはしません。たとえ多勢に無勢のように感じられ、いかにも弱々しく心細く思えるとしても、神の力は人間の力よりもはるかに勝って強いということを、この箇所は示しています。主イエスはナザレの人々の真ん中を通り抜けて立ち去られ、人々をなお教え、福音を語る生活をお続けになるのです。
 主イエスはお育ちになったナザレの町に戻って来られました。ルカによる福音書には、主イエスがガリラヤにお帰りになってすぐにナザレの村に来られたような書き方になっていますが、おそらくはカファルナウムを始めとしたガリラヤ湖の北岸一帯で神の事柄を宣べ伝えておられた、その合間に、ナザレにも立ち寄られたものと思われます。ですから、これは家族の顔を見に帰ったとか、懐かしい人に会いに戻ったということではないのです。主イエスはこの日、故郷の会堂の礼拝に参加して旧約聖書の朗読をなさり、その聖書の言葉によって神の恵みと働きを、また神の永遠の御計画を宣べ伝えようとなさったのでした。つまり、故郷のナザレにも神の御計画を伝えるため、伝道の一環として戻って来られたのです。
 ですから、会堂で主イエスが聖書を朗読しようとして立ち上がられた時には、主はどんなに人々から激しい抵抗を受けることになろうとも、神の御計画を伝えなくてはならないという決心を持って立ち上がられたのです。16節に「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあります。
 主イエスは「いつものとおり安息日に会堂に入り」、そして「聖書を朗読しようとしてお立ちになった」と言われています。ここから主イエスが安息日には会堂での礼拝に欠かさず参加しておられたことが分かります。伝道のために様々な土地を回っておられる時にも、行く先々で、安息日には礼拝の場に参加しておられる、そういう主イエスの姿が語られています。そして、旧約聖書の御言を神の言葉として大事にしておられたことも、ここから聞こえてくることです。主イエスは、御自身が神の独り子でいらっしゃいますから、その気であれば、旧約聖書に頼らずとも、「このわたしが神の子である救い主である」とおっしゃることもできたに違いありません。けれども、そのような方法を主イエスはお選びになりませんでした。主イエスは聖書の言葉の内に語られている神の恵みと働きをお示しになって、それが御自身によって文字通り実現されていることを伝えようとなさいます。

 この日、主イエスに手渡されたのはイザヤ書の巻物でした。17節から19節に「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである』」とあります。
 ここで主イエスが朗読なさったのは、イザヤ書でも後ろの方の61章1節2節の言葉でした。主イエスに渡されたのは今日のような本の形ではなく、巻物が手渡されたと言われています。全部で66章もある長い書物ですから、この巻物はかなり太かったことでしょう。太くて重たい巻物を、開いた状態で手渡すことはできません。この箇所は巻物の終わりの方ですから、たまたまこの箇所が開かれたというのではなくて、主イエスがこの箇所をお選びになり、巻物の終わりの方まで開いて行って最初の方は巻き取った上で、この箇所を読まれたことになります。なぜこの箇所を選ばれたのでしょうか。それはまさしく、旧約聖書に言われている通りのことが今ここに生じている、即ち、聖霊に導かれた主イエスが貧しい人に福音を伝えるためにこの場所に遣わされているからです。主は、「捕らわれている人、見通しを持てずにいる圧迫されている人々に、神さまによる解放の救いを告げ知らせるために、ここに遣わされている」と、御自身が何者なのかを自ら名乗って出ておられるのです。
 ですから、主イエスが聖書を朗読するために立ち上がられたというのは、単に起立したということではなくて、この時すでに、「神の御業が、この場所にも起ころうとしている。主イエスが共にいてくださることによって、神の御業が始められようとしている」ことを宣べ伝えようとする決意を持って立ち上がっておられるのです。そして、聖書の言葉を説き明かすための席に着かれると、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始めておられるのです。
 主イエスはここで、御自身がまったく神の霊に支えられ、また神の御心に従って働く僕でいらっしゃることを言い表しました。主イエスの働きは、「神の恵みの年が今ここに訪れて来ている」ことを告げ知らせ、それを信じる人を、生活の中にある抑圧や圧迫から自由にして解放する働きなのです。
 これは2000年前のナザレでも、それから2000年後の今日でも同じです。私たちの肉眼には見えませんが、キリスト教の礼拝には、主イエスが今日も私たちの礼拝に出席しておられます。そして、聖書が読まれ説き明かされる中で、まさに今日が恵みの年の訪れの時であり、私たちのあらゆる思い患いや生活の苦労は神によって憶えられていて、「あなたがたは、そこから解き放たれて、神の子としての新しい生活を生きる者となる。そのことを信じるように」と呼びかけられるのです。
 ですから、主イエスがお語りになった言葉は、もしそれが本当のことであると信じられ、本当のことであるならば、聞く人たちは、これを大いに歓迎して受け止めるに違いない言葉です。主イエスが知らせてくださる福音は、様々な問題に直面して思い患いの虜になっている人には、悩みや嘆きからの解放を告げ知らせます。「あなたは今、神さまに憶えられ、神さまの御業の中におかれている。あなたは自分の思い通りにならないことに困っているようだけれど、神さまが道を備え歩むようにと導いておられる。ここから新しく生きる時には、あなたはもはや自分が自分の人生の主人なのではなく、神さまが与えてくださる道に進むことになる」と、主イエスは語りかけてくださるのです。そしてまた、神の御業を見ることができなくなって神によそよそしさを憶え辛い思いをしている人には、神の働きが見えるようにしてくださり、この世界の中に居場所がないと感じて苦しむ人たちには、生きるための居場所を与え「ここで生きてよい」ことを教えてくださるのです。主イエスはまさに、そういうお方としてナザレを訪れてくださいました。

 ところでナザレの人たちは、そのような主イエスの言葉をどのように受け止めたのでしょうか。残念なことに、主イエスの告げ知らせておられる事柄それ自体を喜んで受け取ろうとしたのではなくて、自分たちが幼い時からよく見知っている若者が、途方もないほらを吹いていると考えてしまったのでした。22節に「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。
 ナザレの人々は、主イエスが告げ知らせた言葉に神の深い恵みが表されているということは分かったようなのです。ところが、その言葉をそのまま信じて感謝したのではなくて、別のところに思いが向いてしまいました。そして彼らは「この人はヨセフの子ではないか」と言って、主イエスにつまずきました。もしも彼らが主イエスの言葉を聞いたままに受け止めて喜んだのなら、主イエスのことを「ダビデの子にホサナ。どうかわたしたちを神の御前に生きる者としてください」と願ってもおかしくありません。しかしナザレの人たちの口から出た言葉は、「おまえはヨセフの子だ」という言葉でした。こう言って、ナザレの人々は、自分たちに出逢おうとしてくださる神の前に腰を屈めようとしなかったのでした。

 主イエスは、そんな人々の様子を御覧になって、ひとつの諺を思い出されます。「医者よ、自分自身を治せ」という諺です。これは、ナザレの人たちが、主イエスのことを自分たちの同類と見て、「身内の者のためになることをせよ」と言っている様子を表しています。カファルナウムで多くの病人を癒したように、郷里のこの土地でも病んでいる人や困っている人を助けて当然だと思っている人たちに向かって、主イエスは更に、旧約聖書の出来事を二つ語って聞かせました。
 一つは、列王記上17章に出てくる古い時代の出来事です。それは預言者エリヤの時代に、エリヤが人々の都合によって働いたのではなく、ただ神の御心に従って働いたために、ユダヤの人たちのもとに赴くのではなく、遠くフェニキア人の町シンのサレプタのやもめのところにだけ遣わされたという話です。またもう一つは預言者エリシャの話です。列王記下5章に出てくる預言者エリシャが、やはり近しいイスラエルの病人ではなくて、敵国であるシリアのナアマン将軍の重い皮膚病を癒したという話です。いずれの話も、血縁の近さによって神の御業が行われるのではなくて、神がお選びになった人々が神からの恵みを受けるのだということを表しています。神は御自身が恵もうとする人を恵み、憐れもうとする人を憐れまれるのだということを、主イエスは教えられました。
 そして今、ナザレの会堂で主イエスが教えてくださったことは、「ここに主の恵みの年が訪れようとしている。あなたは神さまの言葉を聞いて、神さまがあなたを顧みてくださっていることを信じるならば、新しく生きることができる」ということです。つまり、主イエスのおっしゃった言葉を信じるならば、神の憐れみを受け、慈しみの下に、今日ここからもう一度、神の御業の中を持ち運ばれて生活するようになるということを伝えようとなさいました。
 ところが、ナザレの人々は、この主イエスの言葉に憤慨しました。この人たちは、自分たちの求める形での英雄的な救い主を欲しがったのです。自分たちの求める奇跡を行う人物として主イエスをほめそやし、担ぎ上げようとします。しかし自分たちの思い通りに働かないのなら、そういう救い主は要らないと考えました。そこで皆が総立ちになって、主イエスを町のはずれの崖まで連れて行って突き落とそうとしたのでした。
 主イエスがナザレの人たちに宣べ伝えようとしたのは、彼らが神の働きの下に生きるようになる将来です。それは別の言い方をするなら、神と人間の間を隔てている罪の壁が取り払われて、神と共に生きるようになるという将来です。ところがナザレの人々は、総立ちになって、そういう将来を告げ知らせ与えようとしてくださった主イエスを亡き者としようとしました。主イエス無しでも自分たちは生きているし、これからも生きることができると考えました。主イエスの伝えるような将来は、別に自分たちには必要ないと、ナザレの人々は考えたのでした。

 しかしまさに、「罪が赦され、神が共に歩んでくださる」という言葉など聞かなくてもよい、主イエスなど要らないという考え方の行き着く先がどこにあるのかというと、これはまだ先のことですが、それが形になって実現したのが、エルサレム郊外のゴルゴダの丘に立つことになる主の十字架なのです。
 主イエスは公生涯の始めの時に、故郷ナザレを訪れて、神の許に生きる生活を宣べ伝えました。罪が赦されて立ち返り、神の許に生きる生活を伝えられました。けれども郷里の人々は、その呼びかけに耳を貸そうとしなかったのです。自分の願うことであれば喜んで聞き従うけれど、神に従うということなど聞かされなくてもよいと考えました。

 しかし主イエスは、そういう彼らの只中を通り抜けて先へと進まれました。主イエスは粘り腰で事に当たられるのです。一度聞いても耳を貸そうとしない人々の間をいったん立ち去られ、やがてまた、再び、福音を告げ知らせようと戻って来てくださいます。そういう粘り強い主イエスの伝道の働きがあって、このルカによる福音書の第2巻である使徒言行録の時代になると、今日の箇所では主イエスの働きを拒んだ郷里の人たちの中から、主イエスを信じてキリスト者になった人たちが現れます。主イエスの母マリアや主イエスの弟たちを始めとするナザレの人たちの中にも、主イエスの言葉を信じて救われ、神の子らとして生活する人々が生まれるようになっています。それは、主イエスが粘り腰で、なお郷里の人たちを憶えてくださり出逢おうとしてくださったからです。

 私たちは、今日この聖書の言葉を聞きながら、私たち一人ひとりにも主イエスがそのように伴ってくださっているのだということを知る者とされたいと願います。主イエスが繰り返し御言を語りかけてくださることに感謝して、私たちもまた、愛する隣人たちのために粘り強く祈り、主イエスの救いを持ち運んでいく生活を続ける幸いな者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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