聖書のみことば
2024年2月
  2月4日 2月11日 2月18日 2月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

2月11日主日礼拝音声

 誘惑
2024年2月第2主日礼拝 2月11日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第4章1〜13節

<1節>さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、<2節>四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。<3節>そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」<4節>イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。<5節>更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。<6節>そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。<7節>だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」<8節>イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」<9節>そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。<10節>というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』<11節>また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」<12節>イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。<13節>悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

 ただ今、ルカによる福音書4章1節から13節までを、ご一緒にお聞きしました。1節2節に「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」とあります。主イエスが荒れ野で悪魔から誘惑をお受けになった記事です。
 この記事を聴く時に大切なことがあります。それは、主イエスを試みたのは悪魔なのですが、その試みを神が認めておられるということです。この荒れ野において直接に主イエスを試み誘惑しているのは悪魔ですが、しかしその悪魔のもとに主イエスを導き、様々な試練を経験させているのは聖霊なる神なのです。
 私たちも地上の人生の中で、時に試練とか試みという大変厳しく辛い経験をすることがあるかもしれません。そのようなことを考えますと大変怖がり、何とかしてそういう悪い出来事が自分の身の上に及んでこないようにということばかりを考えがちですが、試練に出遭い困難に直面する時にこそ、その厳しい経験の上にも尚、神がおられることを信じて、「試練を短くしてくださるように」と祈ることが大切なことではないでしょうか。試練に出遭わされる日にこそ、私たちはいよいよ神に深く信頼し、神にこそ固くとりすがる者とならせて頂きたいのです。

 もしかして、不思議にお感じになる方がいらっしゃるかもしません。神がもし本当に試練や苦難の上におられるのなら、どうして神はそういう辛い経験を私たちにお与えになるのでしょうか。「神がすべてを支配なさるなら、そこではもう、悪魔の出る幕はなくなるに違いないのだから、どうして神はそうなさらないのか」と思うかも知れません。
 確かに、神が御自身の力で悪魔の働きを抑え込もうとなさったなら、そこでは悪魔はもはや人間に手出しすることができなくなるでしょう。その結果、見た目には麗しい生活が訪れるだろうと思います。しかし神がそうなさらないのは、実は、私たち自身の中に深く根を降ろし私たちを蝕んでいる罪を、神が本気で退治しようとしておられるからなのです。
 確かに御力をもって神が悪に立ち向かい、これを抑え込んでくださるなら、上辺や見かけにおいては、私たちの生活は麗しく、また安楽なものになるだろうと思います。けれども、もしそのような仕方で神がすべての悪を抑え込んでしまわれたならば、その時私たち自身はどうなってしまうでしょうか。おそらく、神のなさりようにすっかり慣れっ子になってしまうでしょう。神が悪を抑え込んでくださっていることに感謝するどころか、神が働いて私たちの生きる世界を導いてくださっていることにすら、思いが至らなくなるのではないでしょうか。そして、神が様々に整えてくださり安楽な中に持ち運ばれていても、なお自分の置かれている境遇に不平や不満を並べて生きてしまうことになるでしょう。そしてまさに、それが私たち人間の罪の姿なのです。
 私たちは特にエゴイストと言われなくても、ごく当たり前に自分中心に物事を考え、自分の思い通りにならないと気が済まないような心の傾きがあります。神は、人間のそのような罪の現実を真剣にとり上げ、正面から向き合って、罪から私たちを離れさせようとなさいます。独り子である主イエスの御業を通して、人間の罪をすべて御自身の側に引き受け、清算をつけてくださろうとなさるのです。神がそのように御計画なさり、主イエスはまさにそのような救い主として行動なさいます。しかしその際には、激しい戦いが生じることが予想されます。それで神は、予め主イエスを荒れ野に導いて悪魔と直接対峠するようになさり、主イエスが人間の罪を背負って罪の悪と戦われるように訓練をなさいました。それがこの箇所、「荒れ野の誘惑」と呼ばれる出来事でした。主イエスが伝道の公生涯にお入りになり十字架への道のりを実際に歩み出される前に、神は主イエスを、悪魔と直接に向き合うように導き、悪魔の試みがどのようなものであるかを前もって経験させられたのでした。それは、これからの歩みの中で、悪魔にだまされたり、ごまかされたりしないためです。

 では、悪魔は一体どのように主イエスを試みようとするのでしょうか。最初の出会いにおいては、悪魔はまったく敵対的ではなく、それどころか心から主イエスのことを信頼し、崇拝しているようなそぶりで主イエスに近づきました。3節に「そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ』」とあります。私たちは、ここで語っているのが悪魔であると初めから分かっているので、この言葉を色メガネをかけて眺めてしまいがちです。即ち、最初から怪しげな言葉であると思って聞いてしまうのです。新共同訳聖書の翻訳も、幾分そういう気持ちを滲ませたような言い方になっています。けれども、もともとのギリシア語の聖書では、悪魔は思いの外、丁寧な言い方で主イエスに語りかけていることが分かります。悪魔は、「あなたは神の子です。神の子なのですから、この石にパンになるようおっしゃったらいかがですか」と言うのです。新共同訳聖書のように、「神の子なら」という少しそんざいにも聞こえる言い方であれば、乱暴で雑な言い方の陰に主イエスへの不信感や反発が潜んでいるようにも聞こえます。けれども「神の子なら」という言い方は、文法的には仮定を表す文ではなく、条件を言い表す条件文です。つまり「もしあなたが神の子であるなら」と言っているのではなくて、「あなたは神の独り子なのだから、石をパンに変えることなど造作もないことでしょう」という言い方なのです。更に、直前に主イエスが空腹を憶えておられたと言われていますので、まるで心の底から主イエスの空腹や健康状態を気遣っているような言い方になっているのです。

 ここでは、むしろ主イエスの方が、この一見親切そうにも感じられる悪魔の提案に対してつっけんどんで突き離すような返事をなさっておられます。4節に「イエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある』とお答えになった」とあります。主イエスは悪魔の正体を見抜いて話しておられるので、このような固い態度をとっておられるのですが、仮に私たちがこの場にいたなら、主イエスの態度があまりにもそっけないと思って悪魔の方に同情してしまうかもしれせん。空腹の主イエスを気遣ってせっかく優しげな言葉を掛けてくれているのに、それに対する主イエスの返事は何とも冷淡ではないかと思って、主イエスに反発を感じるかもしれません。
 けれども、このいかにも親切そうに聞こえる悪魔の語りかけの中に、主イエスに対する最初の罠が潜んでいるのです。悪魔は、「イエスよ、あなたは神の子だ。神の子なら何でもできるのだから、その力をあなた自身のために使ったらよろしかろう」と言います。これがまさしく罠なのですが、一体どこに落とし穴があるのでしょうか。
 「主イエスは神の独り子である」と、悪魔はまず認めます。これは実際その通りです。神御自身も、洗礼の水から上がり祈っていた主イエスに「あなたはわたしの愛する子である」と言われました。けれども、悪魔の罠はその先にあります。「神の御子であるあなたは、神の力によって何でもできる。だからその力をあなた自身のために、思い通りに使うがよい」と悪魔は囁きます。神から頂いている力を、神に従って生きるためでなく、自分のために使うようにと唆します。ここに落とし穴があるのです。

 神は、神の御子である主イエスを、また御自身の子らとしてくださった私たちを深く愛してくださり、そして神の御力に与らせてくださいます。主イエスがその生涯を、神の御心を尋ね求め従って歩まれ、力に満ちておられたように、私たちキリスト者も、神の御言葉を聞き、祈りつつ神と共にある時には、常に慰められ励ましを受け、力を頂いて歩むことができます。ところが悪魔は、「あなたは神の子だ」と言って、主イエスを、また私たちを嬉しい気持ちにさせた後、間髪入れずに「あなたにはそういう者として特別な力が与えられているのだから、何であれ、思い通りに生きたらよい。あなたの力をあなたの必要に応じて思い通りに使ったらよい」と囁くのです。今日風に言えば、「自己実現しなさい」と言っているのです。
 ところが、まさにそれが落とし穴です。私たちは、神に愛されているのだから神を抜きにして何でも自分の思い通りにすればよいということにはなりません。何と言っても、私たちに与えられている力の源は、神御自身だからです。神を差し置いて、神を抜きにしたところで、力がある訳ではないのです。悪魔の策略は、「あなたは神の子なのだ」と言って相手を喜ばせ、しかしそこで主イエスが空腹なのにつけ込んで、神と主イエスとの間柄を引き裂いてしまおうというものでした。そのためにまずは、「神の子なら」という本当のことを口にして、主イエスを油断させようとしたのです。
 しかし、主イエスはその手には乗りませんでした。「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と、聖書を引用してお答えになります。これは申命記の言葉です。申命記8章3節に「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とあります。ここは、神が荒れ野で40年間イスラエルの民をマナによって養ってくださったことを思い出すよう促されている箇所です。イスラエルの人々は常に安楽で安全な旅をしてきたのではありません。時に苦しみや飢えといった困難に直面することがありました。けれどもそういう厳しい経験を通して、彼らは、どのような場合にも主なる神が共にいてくださり、神が与えてくださる食物によって生きることができる、常に御言と霊によって導かれることこそが確かであることを知るようにされたのでした。
 主イエスは現に今、荒れ野におられ、ひもじい思いもしておられますけれども、そのような厳しい経験は、これから困難に出遭う時にも「神に信頼して生きることが間違いでない」ことを知るための訓練です。主イエスはまさに、今の状況にぴったりと当てはまる旧約聖書の言葉を引用しながら、悪魔の誘惑を退けられました。この最初の問答だけでなく、この後に2度くり返される悪魔とのやりとりにおいても、主イエスは旧約聖書の御言を思い起こして、御自身が父なる神から離れることがないようにして身を守られます。
 このような主イエスの姿勢からは、大いに聴くべきものがあるのです。悪魔が神と神の子らの間柄を引き離し、神から切れさせてしまおうとする誘惑がやってくる時、私たちは、聖書の御言を思い返し、その中に逃げ込むことが許されています。主イエスが御自身の置かれていた状況を御言によって思い巡らし、理解しておられたように、私たちも聖書の言葉の光に照らされるようにして、自分自身のあり方や今の状態を知る者とされたいのです。そして、そのようにされるためにも、聖書の言葉に親しみ、私たち自身の中に御言を蓄えるようにされたいのです。

 御言に聞き、御言によって身を守るというあり方を主イエスがなさったのを見て、悪魔は次の誘惑を仕掛けました。世界中の人々の暮らしを主イエスに見せながら、そのすべての繁栄と栄華を与えると語りかけたのです。5節以下に「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる』」とあります。
 この2つ目の言葉には、どこに落とし穴が隠れているのでしょうか。悪魔は主イエスに十字架とは別の道を提案しています。十字架のような厳しい道に向かわなくても、もっと手軽に、簡単にこの世の支配者となることができる、と主イエスに囁きます。一切の権力と繁栄をあげようと言っているのは、そこで暴君になれと言っているのではありません。主イエスが手にした権力や繁栄を人々に分け与えることができれば、それによって幸せになった人々は主イエスを恩人のように感じ、喜ぶことになるでしょう。それで良いではないかと悪魔は言うのです。悪魔と手を組んで、悪魔を拝みさえすれば、立ちどころにこの世は楽園のようになる、「イエスよ、ぜひそうするのがよかろう」と悪魔は言います。
 しかし、悪魔が語る楽園は、悪魔にとっての楽園ではあっても人間にとって本当の楽園となるとは限りません。仮に十字架抜きで救いの業がなされるとしたら、主イエスが十字架にお掛かりになるのでなければ、そこでは人間の罪は清算されることなく、ずっと残り続けることになります。罪が残り続けるということは、神との深いつながりも信頼も失われたままだということです。神への信頼によって慰めと力を与えられて生きていくという生活も始まりません。そういう状況で、ただ上辺だけが幸せそうに装われることがあるとしても、そこでは人は本当に心の底から安心して生活することができるのでしょうか。神がわたしのことを知っていてくださり、神が共にいて「生きるように」と絶えず呼びかけ、必要なものを与えて支えてくださると信じればこそ、私たちの人生は初めて平安に生きることができるのです。
 主イエスはここでも、聖書の言葉によって悪魔の誘惑を退けられます。8節に「イエスはお答えになった。『「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある』」とあります。これも申命記の言葉です。申命記6章で、神は唯一の主であることが教えられるのに引き続いて、次のように教えられています。申命記6章13節に「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」。畏れて従い、お仕えする相手はただお一人だけであると聖書が教えている言葉です。主イエスはこの聖書の言葉によって、悪魔にひれ伏しその軍門に降って形だけの幸せを築くことに抵抗なさいました。主イエスはあくまでも、神の御計画に従って救いの業を実現しようとなさいます。すなわち御自身が十字架にお掛かりになり、人間の罪を御自身の死と苦しみによって清算するという仕方で、人間を新しい者、清められた者としようとしてくださるのです。

 上手く主イエスを懐柔できなかった悪魔は、3番目に、今度は悪魔の方から聖書の言葉を持ち出して、主イエスを惑わし引っ掛けようと試みました。9節以下に「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。」また、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」』」とあります。悪魔は十字架抜きの救いを望まない主イエスを、エルサレムに連れて行ったと言われています。このエルサレム郊外のゴルゴタの丘で、やがて十字架刑が執行されるのです。神殿の屋根の端の高いところに立たされた主イエスの目には、ゴルゴタの丘の様子が見えたのではないでしょうか。そこに主イエスを連れて行って、悪魔は最後の誘惑を行います。
 「ここから飛び降りたらどうだ」というのは、主イエスに十字架の場所を見せながら囁いている言葉です。「十字架に掛かるのを思い留まるなら今だぞ」と言って脅します。主イエスがもし神殿の屋根から飛び降りたら、神が天使たちに命じて主が地面にぶつからないように支えさせるということが起こるかもしれません。するとそれを見た人たちが大いに驚いて主イエスを特別な方だと信じるようになる、そういう仕方でも、十字架抜きでエルサレムの王になることができると、悪魔は主イエスを唆しました。普通の人にはできない不思議な行いをしてみせて人々を大いに驚かせ、それによって支配者になれと、悪魔は聖書の言葉を持ち出して主イエスに誘いをかけました。
 この言葉は、もともとは詩編91編11節12節の言葉なのですが、この詩自体は神への信頼を言い表している信頼の詩編です。そしてこの詩の中で悪魔が引用した箇所は、神が、御自身に信頼する人がどんな境遇にあっても守り導いて下さるという信頼を言い表した言葉なのです。この詩はどんな危難に遭遇しても、きっと神が守って下さると詩人が神への信頼を語っている言葉です。ところが悪魔は、この言葉を曲げて使います。神に信頼するのではなくて、実際に人々の前で不思議な行いを見せれば、奇跡を見た人々は驚いてあなたに従うようになるだろうと言ったのでした。これは聖書の言葉を用いているようでありながら、実際にはもともと聖書が語ろうとしている事柄をねじ曲げて語っていることになります。
 主イエスのもたらす救いは、人間が罪を清算されたことを信じて悔い改め、そして神に信頼を寄せて生きる者となるという救いです。それで主イエスは悪魔の申し出を、もう一度申命記6章16節の言葉を引用して退けられました。12節に「イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」と言われている』とお答えになった」とあります。

 悪魔は、主イエスがどうしても神の御計画から離れない様子を見て誘惑をあきらめ、主から離れ去りました。しかしここには尚、気掛かりな言葉が語られています。悪魔が「時が来るまでイエスを離れた」と言われている言葉です。「時が来るまで」というのですから、やがてもう一度悪魔が本気で主イエスに襲いかかり、今度は試みや誘惑ではなくて、真剣勝負を挑んでくる時が来るのです。それは、主イエスが実際に十字架にお掛かりになる時です。その日には悪魔は、主イエスの命を脅やして、最後まで主イエスが十字架の道を歩まれるのか、神の御計画に従って歩まれるのかを眺めるようになります。しかしまさに、十字架への道を進むという仕方で、主イエスは神の御心に従い続けられたのでした。

 主イエスが洗礼をお受けになり、そして私たちのためにとりなしを祈ってくださった時に天から聞かれた声を思い出させられます。御声はこう言っていました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。主イエスはまさに神の御心に適う者として、悪魔からの誘惑や脅しにも拘らず、十字架への道を進んでくださいました。そしてその先に、確かに私たちの罪を十字架上で清算してくださり、私たちには「神に信頼して生きる、新しい命」が与えられたのです。

 今日、私たちがここに集められ、神をたたえて賛美をささげ、また祈るのは、まさに、この主イエス・キリストが神と私たちの仲立ちとしていらっしゃるからです。主イエスに感謝し、御業をたたえて生きてゆく幸いな者たちとされたいのです。お祈りを捧げましょう。

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