聖書のみことば
2023年9月
  9月3日 9月10日   9月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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9月10日主日礼拝音声

 言葉の罪
2023年9月第2主日礼拝 9月10日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/出エジプト記 第20章16節

<16節>隣人に関して偽証してはならない。

 ただ今、出エジプト記20章16節をご一緒にお聞きしました。「隣人に関して偽証してはならない」、モーセの十戒の第9番目の言葉です。「偽証」ということが問題となっていますが、これは一体どの程度の範囲のことが考えられているのでしょうか。
 仮に、法廷用語として用いられる「偽証」と考えるのであれば、私たちは滅多にこの戒めに触れるような過ちは犯さないかも知れません。というのも、私たちのほとんどの者は、裁判の証人として出廷するよう求められ、正式な証言をするような経験を持たないだろうからです。裁判で証言する機会がそもそもありませんから、偽証の罪を犯す可能性もほとんどないでしょう。もしも、ここに言われている偽証をそのように受け取るなら、私たち多くの者にとっては関わりのないことだと思います。
 しかし一方、この戒めの範囲を非常に広く受け取ろうとすることもあり得ます。たとえば宗教改革者マルティン・ルターが、小教理問答書を執筆した際、十戒のこの9番目の戒めは、嘘をついたり、他の人を中傷したり、悪口を言ったりすることへの戒めであると教えたことが知られています。仮に、この戒めをそこまで拡げて受け取るとすると、今度は、この戒めに抵触しないような人はどこにもいないということになるでしょう。嘘をついたり、適当な返事でその場をやりすごすようなことは、誰もがすることであろうからです。
 この戒めは、本来はどのようなものだったのでしょうか。

 そのことを知るためには、古代のイスラエルにおける裁判のやり方を思い起こすのが良いかもしれません。聖書にも幾つかの箇所が思い浮かびます。ソドムの町の門に座っていたロトを初めとして、たとえばルツ記の4章には、ボアズという紳士がルツの身の振り方をめぐって、ルツの親類筋に当たる人物との間で、今日風に言えば民事の裁判を開いて問題を決着させている場面が出てきます。ルツ記4章1節2節に「ボアズが町の門のところへ上って行って座ると、折よく、ボアズが話していた当の親戚の人が通り過ぎようとした。『引き返してここにお座りください』と言うと、その人は引き返してきて座った。ボアズは町の長老のうちから十人を選び、ここに座ってくださいと頼んだので、彼らも座った」とあります。これが古い時代のイスラエルにおいて、ごく普通に見られた裁判の風景です。当時は裁判のやり方が今日とは随分違っていました。この時の裁判は、モアブの野からやってきたルツという女性を、ボアズと一緒に座っている親戚の人が引きとって世話をするのか、それともボアズが妻として迎えて良いかどうかということを決めるために開かれたのですが、当時の裁判はここに言われているように門の内側にある広場で開かれ、居合わせた全員の前で行われました。ですから、ここには職業的専門家としての裁判官がいる訳ではなくて、見守る全会衆の前で民事であれ刑事事件であれ問題が取り扱われ、その時に証言台に立つ人の言葉によって判決が決まりました。ボアズの起こした裁判の場合には、親戚の人がルツと姑のナオミの世話をする責任を放棄したために、次にルツたちの家系に近いボアズがルツたちの面倒を見ることになり、親戚の人から履物を受け取ります。この履物が実際にボアズの手にわたり、町中の人々がそれを目撃するという仕方で、この民事裁判は決着したのですが、これは刑事事件でもほぼ同じであったようです。犯罪を犯したとされる容疑者が、町の門の広場に連れて来られると、その犯罪人について2人または3人の証人が有罪であることを証言して、町中の人々がそれを聞き、反対する証言が無ければ有罪か、あるいは無罪かが決められました。
 ですから、そこで語られる証言が偽りの証言、つまり偽証であっては困る訳です。第9番目の戒めの背後には、そうした当時の歴史的な生活状況があって、こういう戒めが語られているのです。

 するとこの戒めは、日常生活の中での小さな嘘を許さないというような厳めしい言葉ではないということになるでしょう。どちらかというと、裁判で証言をする際の偽証を禁止する戒めということになります。
 けれどもだからと言って、この戒めが私たちの日常生活とほとんど関わりがないとは言い切れません。何故なら、古代イスラエルの裁判では刑事事件や相続財産の争いのようなことから始まって、日常生活の中に起こる仔細な争い事まで、本当に様々な事柄が扱われていたからです。今日でも、親類同士や隣近所で、利害が衝突し合ったり意見の対立を生じるような場合があるかもしれません。そんな時には、物々しく法廷に持ち込むことはないでしょうが、私たちの場合にも、意見の対立し合う相手との話し合いを第三者に見守ってもらうようなことはあり得るのではないでしょうか。互いに立場の違う人同士は、最初はなるべく冷静に落ち着いて、相手を諭すように話し始めるでしょう。しかし、それでお互い同士の立場がうまく折り合えないとなると、時には相手を批判したり、攻撃したりするようになることがあり得るでしょう。遂には互いに罵り合ったり、非難し合うようなことも出てきます。まさにそういう場面が、この第9番目の戒めが語られる背景となっていることなのです。

 神は、私たちの日々の実際の行いだけでなく、私たちが生活の中で語ること、隣人についてどのように語るかにも関心を寄せられます。私たちが日々口に出す言葉も、神にとっては大事な事柄であり、とりわけ一緒に生きる人々、即ちここで「隣人」と呼ばれる人々と交わす言葉について、神はこれを重大なことと見なされます。私たちが互いにコミュニケーションし合い言葉を交わすようにされていることは、神から御覧になる場合、とても重大な秘義の一つと言ってもよいほどです。
 思えば、人間ほど器用に言葉を操る動物は他にはいません。最近の動物学の研究者たちは、たとえばイルカやクジラたちも海の中で言葉を使ってコミュニケーションし、エサや天敵の存在を知らせ合っているらしいことを教えてくれます。しかし、それらのコミュニケーションは、人間の使う言葉には、はるかに及びません。人間は本当に細かなことまで、言葉によってお互いの必要を伝え、個人ではなし得ないような大きな業を協力し合って成し遂げます。言葉は人間が助け合い支え合う上で、大変有用に働いています。

 しかし同時に、それと同じぐらい言葉には破壊的な力もあり、私たちも身に覚えがあるのではないでしょうか。不用意に、また軽はずみに口にしてしまった言葉のために、人間同士のせっかく築いた良い関係があっという間に台無しになることがあります。ヤコブの手紙には一度聞いたら忘れないような、私たちの真実を言い当てているような言葉が記されています。ヤコブの手紙3章5節6節に「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」とあります。ここに述べられていることは、まさにそのとおり、真実だと言わざるを得ないのではないでしょうか。
 今日、異常気象による森林火災が世界中で報告されていますが、その始まりはいずれも人間が起こした小さな失火です。しかし、人の手が誤って火を燃え広がらせるだけではありません。私たちの口から出てくる言葉も、小さな火をもたらし、それがどんどん言い立てられ、あおり立てられてゆくうちに、取り返しのつかない程大きくなり、もはやお互いの間柄の中で手の施しようがなくなり険悪な状況になるということがあるのです。
 しかも、それでお互いが懲りて終わってくれれば良いのですが、そうではなく、燃え広がると収まりがつかなくなります。最初は軽い思いで発せられた言葉でも、やがては悪意をもって相手のことを悪く言い立てる中傷合戦となり、遂には、有ること無いことを言い立てて相手を攻撃しないと気が済まなくなるのです。私たちにはこういう愚かさがあります。そして、こういう人間の愚かさに対して第9の戒めは語りかけているのです。「隣人に関して偽証してはならない。あなたの隣り人について、偽証してはならないのだ」と言われています。気持ちがいくら逆立ったからと言って、有ること無いこと、相手について言い立ててはならないのです。

 しかしそれならば、本当のことであれば隣人のことを悪く言っても良いのでしょうか。新約聖書には、ちょうどこの第9番目の戒めと同じ事柄が逆の方向から教えられている箇所があります。エフェソの信徒への手紙4章25節です。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」。私たちの舌が大言壮語して炎で隣人を傷つけるような場合、そこで傷つく隣人が自分の体の一部であることを、私たちは普段気づいていないのではないでしょうか。しかし、聖書は教えるのです。「あなたがたは、互いにキリストの体の一部であり、主にあって兄弟姉妹である。だから、隣人については偽りを語らず、真実を語るようにしなさい」と勧めます。

 では、「隣人である兄弟姉妹について語るべき真実」とは、一体何なのでしょうか。「隣人について真実を語りなさい」という言葉を聞かされると、ふと気づかされることがあるのではないでしょうか。まずそれは、私たちは、隣人である人について一体何を知っているだろうかということです。本当はあまり良く知らないのだと思わされます。長年連れ添っている夫婦でも、お互い同士のことを何から何まで全て分かっているかと言えば、そんなことはないでしょう。自分自身のことを相手にもっと分かって欲しいと思うならば、それと同じことを相手も思っているかも知れません。もう分かってもらわなくて結構だと思うとすれば、相手のことをほとんど分かっていないのです。
 聖書が「隣人について真実を語りなさい」と語る場合、それは決して漠然とした概念のようなものではありません。聖書が私たちに「真実」ということを語る場合、それは常に実際の生活と密接に関わっています。主イエスは「真実」について、ヨハネによる福音書の中で、弟子たちに別れの説教をなさった時におっしゃいました。ヨハネによる福音書16章13節に「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とあります。「真理の霊」と言われているのは聖霊のことですが、その聖霊が来ると、「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と述べられています。この真理というのは、私たちの真実の姿であり、私たちについての真相と言っても良いでしょう。私たち一人ひとりが本当には何者であるのかということが、聖霊がやって来ると分かるというのです。しかし、聖霊がやって来ると、私たちの一体何が分かるのでしょうか。
 この「真理の霊」の働き方について、主イエスは少し前の15章26節のところで、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」とも言われました。「真理の霊」である聖霊は、「あなたがた一人ひとりのための弁護者である」と言われています。聖霊が私たちを庇って弁護するというのですが、では一体、どういう弁護をするのでしょうか。「この人は欠点もあるけれど取り柄もある」とか、「この人の欠点や過ちはこの人自身のせいではなく周りからそうなるように強いられたもので、この人自身は本当は悪い人ではない」という弁護をするのでしょうか。そうではありません。
 この「弁護者、真理の霊」は、私たちそれぞれのことではなくて、「主イエスを指し示して弁護する」と言われています。即ち聖霊の弁護とは、私たち一人ひとりについて、取り柄があるとか、この人の欠点には同情の余地があるとか言うのではなくて、「ただ主イエスだけを指し示す」というのです。主イエスは十字架に掛かり、罪深く過ち多く何の取り柄もなく滅ぼされても仕方のない私たち人間の罪をすべて背負って身代わりとなり、私たち人間を虜にしていた呪いを全部肩代わりして下さいました。「だからこの人たち一人ひとりは依然として過ちや失敗を多く犯すけれども、しかし、主イエスの十字架によってその罪が完全に清算されて赦された者とされている。この人は主イエスによる赦しの下に置かれている人だ」という弁護を、真理の霊、聖霊がして下さるのです。そして、このように「主イエスの赦しの中に生きるようにされている」ということが「人間について聖霊が教える真理」であり、「人間一人ひとりの真実の姿なのだ」と主イエスは教えられました。

 そうだとすると、先程のエフェソの信徒への手紙はどういうことになるでしょうか。主イエスの言葉を頭に置きながら考えてみたいのです。もう一度お聞きします。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」。私たちの舌は小さな器官ですが、時にそれはお互い同士の人間関係をすべて灰にしてしまう程の深刻な火災を起こしかねない危険を持っています。そのような辛いことが起こらないように、隣人それぞれについて偽りを捨て真実を語るようにというのですが、この真実というのは、「主イエスがこの隣人のためにも十字架に掛かって下さり、この人の罪も過ちも、その一切を御自身に引き受けて、十字架上に滅ぼしておられる」ということになるのではないでしょうか。そして私たちの目の前にいる隣人は、その罪を主イエスによって確かに赦していただき、清められた者として、「もう一度ここから生きて良い」と言われている、そういう人だということになるのではないでしょうか。
 日々の生活の中で、私たちが隣人について見い出す欠点や罪の破れは、確かに今はそれが目について気になることであるかもしれません。けれどもその欠点や罪は、主イエスが既に御自身の側に引き取り十字架の上で滅ぼして下さった罪であり、欠けなのです。主イエスが十字架に掛かり、人間一人ひとりの罪に清算をつけてくださいました。私たちは皆、そういう主イエスの十字架の出来事を知らされ、ここで生活するようにと招かれています。
 それにも拘らず、自分の目の前の隣人について、「確かにこの人には罪があり、欠けがある」と言い続ける人は、主イエスがその人の罪を引き受けて十字架に掛かって下さったことの意味がまだ良く分かっていないということになります。そういう人は、隣人の罪や欠けや過ちのことを言い立てるだけではなくて、実は、自分自身が主イエスの十字架の苦しみと死に執り成されて罪を清められ、新しく生きる者とされているということも分からずにいるということになるでしょう。そういうことが私たちにもあるかも知れません。
 しかしそうであるとしても、事実として、主イエスは十字架に掛かってくださいました。主イエスの十字架は「わたしの罪を赦す」だけではなく、「目の前の隣人の罪も清算し、赦して下さっている」、そして「私たちは互いに生きる者とされている」ことを知らなくてはなりません。

 そして、そういう主イエスの赦しの許で「喜びながら生きる」、それがキリスト者の日々の実際の生活なのです。もちろん私たち自身の生活実感としては、なお過ちが多く、失敗もするのです。自分がそうであるだけでなく、隣人もそうです。しかしそういう一人ひとりが、主イエスの十字架に執りなされて、「あなたの罪は清算された。あなたはここからもう一度生きて良い」と宣言され、呼びかけられ、そういう生活の中へと招かれています。

 ですから、「隣人について偽証してはならない」と呼びかけられている私たちは、兄弟姉妹たちの落ち度や欠けや過ちを攻撃する代わりに、「罪を赦され、ここからもう一度、漬められた者として生きる者とされている」ことをお互いに語り合い、喜び合う者たちとされたいと願います。
 主イエス・キリストの十字架から、私たちの新しい命が芽生えていることを覚えたいのです。お祈りを捧げましょう。

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