ただ今、出エジプト記20章15節をご一緒にお聞きしました。
ここには、「盗んではならない」とあります。大変明瞭な言葉です。この言葉は、モーセが神から頂いた十戒の2枚の石の板の2枚目、即ち、人間同士の事柄、社会生活が本来どのようなものであるかを教えている板の3番目に刻まれています。ちょっと聞くと、この言葉は、2つ前に出てくる「殺してはならない」という言葉と同様、普遍的で当たり前のことを語っているように聞こえます。わざわざ十戒に書かれるまでもなく、これは人間が一緒に生きてゆくためには当然守られなくてはならない事柄であると思えるのです。どうして、そんなにも当たり前なことがわざわざ言われなくてはならないのでしょうか。
その理由は、この戒めが警告している「盗み」という罪について、私たちは普段よくそのことを承知しているつもりでいるのですが、しかしつきつめて考えますと、本当にはよく分かっていないということがあるためかも知れません。即ち、私たちは「盗んではならない」と言われればそれは全くその通りだと賛成するのですが、しかしそうでありながら、世の中で「盗み」が起こらない日は一日もないという現実があります。それだけ盗みの罪というのは、私たちの身近にも起こる出来事です。
しかし身近に起こり得る出来事だから、私たちは盗みの罪をよく知っているかと考えてみますと、一筋縄ではいかないような気がします。「盗んではならない」という言葉からまず私たちが連想するのは、他人の物を持ち去ってしまう、いわゆる窃盗の罪でしょう。これは明らかに罪であることが分かると思います。他の人の見ていないところでこっそり他人の物を持ち去り、自分の物としようとする行為は、誰の目から見ても正しくないことが分かります。
しかし盗みの罪は、そんな程度では終わりません。他人のものを取り上げておきながら、そのことへの反論をさせないように力ずくで相手を黙らせるような手口があります。また、これは旧約聖書でダビデ王が犯したことで知られる有名な罪ですが、ダビデ王は他人の妻を我がものにしようと思いたち、その夫である部下を激戦地に派遣して殺させた後、未亡人となった女性を妻に迎えています。これは姦淫の罪ですが、同時に盗みの罪でもあるのです。外側から見れば、夫を失った哀れな未亡人を王が思い遣りをもって迎えたように思われたかもしれません。力づくではなく、この場合ダビデは、計略によって他人の妻を盗んだのでした。
あるいは、私たちの身近な歴史の出来事を考えますと、第2次世界大戦の時、ヒトラーは戦争を遂行するための財源とドイツ民衆からの人気取りのため、ユダヤ人の私有財産を禁じてこれを全て国庫に入れ、兵器を作らせ、またドイツ人には様々な形でお金を分配するという政策を行いました。国の法律を作ったり変えたりすることで、いわば国家ぐるみの盗みを行い、そのためにドイツ人すべてが共犯者にされてしまいました。
このように考えますと、盗みの罪というのは、いつでも簡単に指摘できるような分かり易いものばかりではなくて、その装いは様々であることに思い当たるのではないでしょうか。今日の日本の状況で言えば、掛かってくる電話一本を受けることも、配達物を受け取る時にも、もしかするとこれは犯罪の一場面ではないかと疑ってかからなければならないほど巧妙な形で、盗みは私たちの身近にあるように思えるのです。しかも、戦時下のドイツの例を考えると分かりますが、私たちはよほど注意深く目覚めていないと、盗みの罪の被害者になるだけでなく、気づかないうちに共犯者・加害者にされてしまう恐れもあるのです。そんなことを思いますと、やはりこの戒めは十戒の中に書かれなくてはならなかったのだということがよく分かるように思います。「思い違ってはならない。身近によくあることかも知れないけれど、この罪についてはよくよく注意するように」と、十戒は私たちに促し、教えているのです。
しかし注意すると言っても、そもそも盗みの罪というのは一体どういうものなのでしょうか。先程も少し考えたように、盗みの罪の装いは様々です。時にはまことに巧妙に装っていて、初めのうちは盗みが起きていることに気づかないこともあるかも知れない程です。
しかしそれでも、盗みの罪には、あるはっきりとした特徴があると思います。それは、盗みという罪が犯される場合には、地上の富や豊かさが狙われるということです。空き巣が家に入ったけれども、盗られたものは約束手形の証紙だった。そして、その手形に記されていた負債の借金はすべて泥棒の側が支払ってくれたというようなことは、まず起こりません。盗みが起こる場合に狙われるのは、借金や手形のようなマイナスの資産ではなく、お金や豊かさをもたらしてくれそうなプラスの資産です。いわゆるこの世の富や財産をめぐって盗みが働かれ、罪が犯されます。
従って「盗んではならない」という言葉の中身を考える上では、狙われることになるこの世の富や財のことを考えてみるのが良いのではないでしょうか。世の富や豊かさを、聖書がどのように語っているかということを思い返してみたいのです。
まず世の富について、主イエスが弟子たちにおっしゃった、大変厳しいはっきりとした言葉が思い出されます。マタイによる福音書6章24節に「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とあります。
この言葉は、これを聞く人を挑発せずにはおかないような言葉だと思います。主イエスは、まるで富の豊かさが神と並び立って人を誘惑し、神から人を引き離す生きた力であるかのような言い方をなさいます。世の富や財産が、単なる貨幣や不動産の権利書や株や債券のような紙であるならば問題はないのです。ところが問題なのは、そのような品物や書きつけや、あるいは電子データのようなものによって表されるこの世の富が人間を支配し、ある種の行動を人に促すような不気味な力を帯びているという点です。主イエスはこの世の富が持っているそうした得体の知れない力に気がついていて、人々に警告をなさいます。「あなたがたは決して、世の富を侮ってはならない。富の豊かさには、人間の心を強く惹きつけ惑わすような力がある。その力に捕らえられたら、あなたがたは本当の自由を失い、自分が豊かになるにはどうしたら良いか、どうあらねばならないかというところに心が持っていかれて、富の惑わしに従うようになってしまう。従って、神とこの世の富とに同時に仕えることはできない」とおっしゃるのです。
そして、「盗みの罪がどうして起こるのか」という原因も、その起こり方や具体的な状況の違いは様々であっても、つきつめて言えばその大元には、この富の力の惑わしが働いているからに他ならないのです。
富の力については時代によっていろいろな受け止め方がされてきたように思います。40年50年くらい前には、人間の蓄える富の中には良い富と悪い富があるのだというような議論が大真面目に交わされていました。資本家が蓄財に励み貯め込んでいる富は悪い富で、これは是否とも民衆の手に分配されなくてはならない。しかし民衆が自分たちで汗水たらして働き社会全体に貯える富は良い富で、これはすべての人々のために平等に用いられるというようなことが、今日から思うと大変に無邪気な議論と思えるのですが、社会の中で大真面目に交わされていたことを覚えています。その時代には、人間の理性と知性が万能であるかのよう思われていて、人間が豊かさを合理的に使えば皆の幸せのために用いることができると思われていました。
しかし主イエスは、それよりはるか昔に教えておられます。「人間は、富の持つ誘惑に大変弱い。富の豊かさを人間が冷静に管理することは大変に難しく、むしろ豊かさへの誘惑に負けてしまって、豊かさに支配されるようになる」とおっしゃるのです。そういう人間の弱さ、富の惑わしに振り回されて一生を棒に振ってしまう哀れな人間の姿を、主イエスは一つの譬え話を通して教えられました。ルカによる福音書1章13節〜21節にかけて記されている「愚かな農夫」のたとえ、あるいは「愚かな金持ち」のたとえと言われる譬え話です。
そこに出てくる農夫は、決して貧しい農夫ではなく、初めから「金持ちであった」と紹介されています。その裕福な農夫の畑が豊作になるのです。豊作になったのには、農夫自身も懸命に働いたかも知れませんが、それ以上に天候の影響が関係します。日照りが続いたり、収穫の季節に大嵐に見舞われたりすれば、期待していた収穫物はたちまち失われてしまいます。畑の豊作の陰には、神の憐れみと慈しみが間違いなくあるのです。
ところがこの農夫は、与えられた収穫が神の恵みによることに少しも気づきません。恵みに感謝して、与えられた豊かさを周りの人たちと分け合おうという思いにもなりません。この農夫は尚あくせくと働いて、自分の家にある倉を更に大きくし、そこに収穫物や財産を全部しまい込もうと決めます。そう決めて、この農夫は、彼自身とすれば安らかな眠りにつくのですが、しかし、その農夫はその晩のうちに命を召されてしまいました。ブラックユーモアの利いた譬え話です。その譬えの最後、12章21節で主イエスは、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とおっしゃいました。ちょっと聞いただけでは、この譬え話は「盗んではならない」という戒めとつながりがある話には思えないかも知れません。この農夫は誰かから盗んで裕福になっているわけではありません。けれども、先程も少し考えましたが、この世の豊かさや富というものは決して人間が主人となって、それらを管理して持てるというのではなくて、むしろ富の豊かさの方が人間を圧倒し、支配して働き、動かすような不気味な力を持っているのです。盗みの罪というのは、どんな形であれ、これに手を染める人は必ず自分が豊かになりたいという思いに衝き動かされているのですから、この農夫も富の力に振り回されているという点で、実際に盗んでいるわけではありませんが、よく似た危うさの中にあるのです。
実際に盗むという行為に至らなくても、世の富の惑わしに心を奪われてしまい、そのことで心の内がいっぱいである時には、他のことはすべて仔細な事柄のように思ってしまうということがあるかも知れません。「お金さえあれば自分は何とでもできる。富こそが大事だ。だから他のことは捨て去っても仕方ない」と考える人は案外多くいるのではないでしょうか。
「盗んではならない」という戒めについて考えていますが、ではこれを逆側から言うと、「盗まなければ良い」ということになるのでしょうか。そうではないでしょう。盗みという具体的な失敗に陥らなくても、富の惑わしに振り回されて一生を過ごしてしまう危険は常に私たちの周りにあります。「盗んではならない」ということの反対は、「与えられた人生を感謝し喜んで生活し、与えられているものをできる限り隣人と共に生きるために用いる、隣人を助けて生きる」ということになるのではないでしょうか。私たちは互いに支え合い、助け合って共に生きるように神から命を頂いているのです。これは「姦淫してはならない」ということとも通じますが、お互いの信頼関係の上を生きる私たちですから、私たちは互いに支え合って生きるために命を与えられているのです。
「盗んではならない」というのは、単に犯罪としての盗みをしないということ以上に、お互いが相手のことを思い遣りながら一緒に行きてゆくというところまで拡がってゆくような射程を持っているように思います。けれども、私たちの現実はどうかというと、私たちは天使ではないため、つい過ちを犯してしまう場合もあります。そのように失敗する場合は、どうなるのでしょうか。
古代世界の法律では、「盗んではならない」という決まりは多くあったようです。そして盗みを非難するのですが、その後、「盗まれないことに気をつける」ように教えて、盗難事件が起こり易い場所があげられている法律があります。例えば運動場や公衆浴場や港では盗みや抜き荷が多く発生するから気をつけるように注意を促した後、盗人が捕まえられた時は処刑されるというのが多くの法律でした。盗みを働くような者は自分たちの間から取り除くという考えです。ハムラビ法典は、そういう中では比較的緩やかで、盗みを働いた手を切り落とすという定めがあったようです。
しかし、そういう古い時代の様々な法律の中にあって、聖書の法には独特な要素があると言われます。盗みを強く非難することは同じです。けれども、悪人が処罰される様子を見て溜飲を下げるというのではなく、聖書でまず第一に考えられることは、「被害を受けた人が贖われること」と言われています。その場合、ただ盗まれた物が元の所有者の許に戻るというだけでなく、その人が受けた精神的なダメージに対しても、その賠償を加えて返すように決められていました。盗みが起こった場合に、処罰よりも先に、盗まれた物が盗まれた人の元に戻る、しかも元の物よりも豊かに返すということが第一に考えられていたようです。
その例は、出エジプト記21章37節以下に「人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。彼は必ず償わなければならない。もし、彼が何も持っていない場合は、その盗みの代償として身売りせねばならない。もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わねばならない」とあります。ここから聞こえてくるのは、盗人を犯罪者として重く罰することよりも、生きて罪を償わせるという考え方です。その場合、被害者の救済が考えられ、被害者は元よりも裕福な状況になるように配慮されます。そのように償うことが何よりも大事で、その上で、盗人が心から悔い改め、正しい歩みに立ち返ろうとするなら、その人は必ず生きることになると言われています。これは、古代の刑法の中では大変珍しいことです。エゼキエル書33章14節から16節にそのことが出てきます。これは法律の言葉ではないのですが、そこには「また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる」とあります。ここから聞こえてくることは、一度の失敗で犯罪者を重く処罰するというよりも、生きて罪を償わせるという考え方です。被害者の救済はもちろんのことですが、犯罪人もまた悔い改めるならば生きる者なると言われます。神は、一人一人が生きるということを望んでおられるのです。
私たちは、神の前に義人はいないと言われるように、誰も正しくはありません。行いとして盗むかどうかは分かりませんが、私たちの内には様々な誘惑が働いて、どうしても失敗をしてしまうこともあり得るのです。けれども神は、そういう私たちが皆、生きていけることを望んでくださいます。一人一人が与えられている生活を生きるために必要なものは、守られます。他人の物を盗むことは許されません。しかしそれで終わりではなく、神は過ちを犯した罪人であっても、その人が正しい道に立ち返り、命の掟に従って生きる者となることをこそ望まれます。
そして、そういう神の憐れみの延長線上に、主イエス・キリストの十字架が立てられています。私たちは、主イエスの十字架によって罪を赦され、新しいものとされました。それは、罪あるそのままでよいということではありません。主イエスが私たちのために十字架にかかり、その罪の代償をすべて支払ってくださった、「だから、あなたは赦された者としてもう一度、ここから生きて良い」と語り掛けられています。
私たちは、それぞれに罪の誘惑と戦いながら、罪を離れ、命の道に生きるように求められていることを覚えたいと思います。そのように生きることを通して、この命が本当に喜びと感謝に満ちたものとされることを願いながら、歩む者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。 |