ただ今、マルコによる福音書16章1節から8節までを、ご一緒にお聞きしました。
1節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った」とあります。「安息日が終わると」と始まっていますが、「安息日の終わり」とは、私たちの感覚で言うと、土曜日の夕方になって陽が沈み、一番星、二番星が出た頃のことを指しています。陽が沈んでもまだ幾分か日中の光が残っている、そういう時に、マグダラのマリアと主イエスの母マリア、そしてサロメが行動を起こし、油と香料を買ったことが語られています。夕暮れの薄暗い時間、しかも夜の闇が刻一刻と深まってくる時間帯にこの3人の婦人の弟子たちが行動を起こしたのは、翌日の日の出と共に主イエスの墓に詣でようと固く心に決めて、その備えをするためでした。
主イエスの死と葬りに際して、このような真心を持って事に臨んだ弟子たちは他にはいなかったと、よく言われます。ペトロやヤコブ、ヨハネを筆頭に、男の弟子たちは皆、主イエスの地上の御生涯の間、主イエスの側近くにいたにも拘らず、主イエスが逮捕された時、散り散りバラバラになって逃げ去って以来、姿を見せません。4つの福音書のどの記事を見ても、主イエスの亡骸に油と香料を塗り直して手厚く葬ろうと行動した弟子が他にいた形跡は見当りません。主イエスが十字架上に息を引き取られたのは3日前のことで、パレスチナの暖かい気候では、手をこまねいていると御遺体がすぐに腐敗して崩れてしまう恐れがあります。それで3人の婦人の弟子たちは、でき得る限り急いで、主イエスの御遺体の処置をするために行動したのでした。
そしてそれは、香料の入手だけに留まりません。安息日の翌日、週の初めの日、つまり日曜日の朝早くに、この3人は主イエスの墓に向かいました。2節に「朝ごく早く」と言われている時間は、夜明け前の3時から6時頃を表す言葉です。3人は夜が明けないうちに身仕度を整えて、夜明けと同時に主イエスの墓へ向かって行きました。
そのように準備を整えて墓に向かった3人でしたが、しかし直に主イエスの御体に香油を塗って差し上げるためには、彼女たちには如何ともしがたい大きな問題がありました。まだ薄暗い中、墓への道を急ぐ3人の話題は、自然と、その心に掛っていた問題へと向かいます。3節に「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた」とあります。
主イエスの御遺体を納めた墓の入り口には大きな石が置かれていて、誰も墓の中に立ち入ることができないように通せんぼしていました。元々は野犬や肉食性の荒い獣が墓穴に入って死体を貪り食い散らかすことがないようにとの、扉代わりの大石ですが、今やその石は3人の弟子たちをも寄せつけないような封印になっていました。どんなに人間の善意や好意が深く強くあっても、それは墓の手前の地上の世界の事柄に過ぎず、世を去った人たちについてはもはや一切の手出しが適わないことを思い知らせるかのように、大きく重い石が墓の入り口をピッタリと塞いで、墓の中と墓の手前を遮っていたのでした。3人の婦人の弟子たちは、その石をどうすれば転がせるだろうか、誰が自分たちのために働いてくれるだろうかと話し合いながら、墓への道を辿っていました。
ところが目指す墓に着いた時、彼女たちが直面したのは思いもよらない事態でした。このことを彼女たちは、恐ろしいと感じたと記されています。この出来事を恐ろしいと感じるかどうかは、これを受け取る人自身の受け取り方にもよるのですが、3人の婦人の弟子たちは途方もない恐ろしさを感じ、墓から逃げ去ったことが、8節に「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と語られています。
この3人の弟子たちは、他の弟子たちが到底あたわない程の真心を持って墓に出向き、主イエスの亡骸に向き合おうとしました。けれども、その3人ですら思いも寄らなかったようなことが実際には起きていました。それが「主イエスの復活」です。この出来事を3人の弟子たちは、どのように体験したのでしょうか。
彼女たちは、気掛かりな墓の入り口を塞ぐ大石のことを話しながら、墓への道を歩いて行きました。ところが着いてみると、石は既に転がしてあり、中に入ることができました。まるで、「どうぞお入りください」と招かれているかのようです。ところが墓の中に入った時、3人は全く予想していなかった経験をすることになりました。それは、この墓の中が死者を懐かしむ場ではなく、別の事実を、つまり「主イエスの復活の出来事」を聞かされ確認させられる場に変わっていたからです。その様子をマルコは、5節「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」と語っています。
「婦人たちはひどく驚いた」と言われています。墓の中で、白く長い衣を着た若者が座っているのに出会ったからです。マルコは、この若者が天使であると、はっきりとは語りません。けれども若者の出で立ちを語ることで、この人物が何者であるかを悟るような書き方をしています。「白い」というのは「清さ」を表し、「白い長い衣を着た若者」とは、当時「天使」を表わす常套表現なのです。ですから婦人の弟子たちは、ただ単に墓の中に人がいたので驚いたというのではなく、自分たちが今、天使に出会っていることに気がついて、これ以上ない程に驚いているのです。この墓は一見ごく普通の墓であり、特に変わったところもないようでありながら、この婦人たちが気づいたように、明らかに平素の日常が破られ、汚れた者が触れてはならない聖なる力がそこに満ちていました。3人の婦人が途方もない恐れを憶えたのは、そういう清らかさに打たれたからです。ごく普通の人間に過ぎない、他の人と何も変わらない自分たちが、思いがけなくも真に清らかな神の世界の現実と触れ合うことになった、それが彼女たちの恐れの源でした。本当に清らかな神の現実に直面する時、人間は、自分が神の御前に到底通用しない、汚れに満ち、破れている者でしかないことを知るようにされるのです。
墓の中で3人の婦人の弟子たちが経験したことは、丁度、旧約の預言者イザヤが、神殿で直接神御自身と出会ってしまった時の出来事によく似ているように思います。イザヤ書6章で、イザヤは神が天の御座についておられる様子を目にして、思わずこう言っています。イザヤ書6章2節から5節「上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。』この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た』」。預言者イザヤは、神の清らかさが辺り一帯に満ちている場に足を踏み入れ、自分がその場に似つかわしくない汚れた者であることを知って、深く恐れます。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た」と言って怖じ惑うのです。しかし、そうした深い恐れを味わい知ったイザヤが、神の良い知らせを伝える使者として遣わされて行くことになりました。
今日のところも同じではないでしょうか。3人の婦人の弟子たちは、主イエスが復活された墓の中で、天使がそこに遣わされ、3人を待っている様子を示されます。3人の婦人たちが見たのは天使であって、神御自身でも主イエスでもありません。それでもこの場所が、「主イエスの復活によって、もはや死を憶える場所ではなく、復活の命に生かされる神の支配する場所に変えられている」ことを示されるのです。そして、主イエスの死ばかりに心を奪われていた自分たちが、何ともこの場所に似つかわしくない者であることに気がついて、深く恐れたのでした。
けれども、預言者イザヤが深い恐れを経験させられながらも、そこから神の御言葉を伝える務めに召し出されたように、この3人の婦人たちも、まさにこの墓の中で、天使から主イエスの復活の出来事を知らされ、そしてそれを伝える働き人として召されて行くことになるのです。6節7節に「若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれると。」』」とあります。
この婦人たちは、人間的には誰よりも深い思いを持って、またそれだけに深い嘆きをもって主イエスの墓にやって来ました。しかしそこで天使から聞かされたことは、「あなたがたは十字架につけられ、死体となったナザレのイエスを捜しに、この墓に来た。しかし、あの方は復活なさって、ここにはおられない」ということでした。いったい、「主イエスが復活しておられる」ということは、実際にはどういうことなのでしょうか。私たちは、そう思い込まなければならないのでしょうか。
私たちは普段、主イエスがどこにおられると思っているでしょうか。私たちは、主イエスが悲しんでいる人たちや苦しんでいる人たちと共におられるのだと思って生活しています。私たち自身も、自分が辛い時、苦しい時、悲しい時に、「どうか主イエスがここに来て、共に歩んでくださいますように」と祈ります。そして、そのように祈る祈りは、確かに主イエスによって聞き届けられます。実際に主イエスが私たちの傍らに来て守って下さり、導き支えて下さいます。そういう経験がありますから、私たちは、「主イエスは確かに復活なさって、わたしと共に居て下さる方なのだ」という思いを深くしてゆきます。
しかし主イエス・キリストがそのように、嘆き悲しみ、苦しむ者の許にまでやって来て下さることができるのは、一体どうしてでしょうか。
それは、主イエスが十字架の死から復活なさって、もはや死の中に捕らえられておられないからです。主イエスが死の中に捕らえられておられないのであれば、墓の中に主イエスの面影を捜し求めても、お会いすることができないのは道理です。主イエスは復活なさり、自由に私たちの許を訪れてくださるのです。私たちが苦しい時、辛い時、悲しい時、主イエスは私たちの許を訪れてくださいますが、それは主イエスが、苦しみ嘆く私たちと同じようにしてそこに居てくださるというのではなく、復活されたお方として、「苦しみ痛む者の許に、神の命をもたらすために」訪れてくださるのです。主イエスは苦しむ者に対して、一緒に苦しんで一緒に死のうとおっしゃるのではありません。様々な苦しみや嘆きに出会い、自分の弱さと限界を感じてすっかり疲れている私たちの許を、主イエスは訪れてくださいます。そして、御自身の十字架を示しながら、「あなたもわたしの十字架の死の下に共にいる。そして、あなたも神の憐れみと慈しみの下に置かれている」と知らせてくださるのです。主イエスの十字架から私たちの上に、命の光が差し込んでくるのです。
主イエスは、苦しみや痛みや悲しみにすっかり捕らえられてしまい、もはや後は死ぬだけだと思い込んでいる人間の許を訪ね、御自身の十字架を示されます。「あなたが自分の前にあると思っているあなたの死、あなたの罪は清算されている。だからあなたはもう一度、ここから生きて良い」と宣言してくださって、弱く乏しい私たちを慰め支え、生かそうとするお方として、私たちの許を訪れてくださるのです。「主イエスが復活しておられる」ということは、そのように私たちの許を訪れてくださるお方として、復活しておられるのです。
天使はさらに、主イエスが確かに復活しておられることを確認するために、イエスが横たえられていた岩の窪みを見るようにと、3人の婦人の弟子たちに呼びかけます。6節後半「御覧なさい。お納めした場所である」。しかし主イエスは、そこにはおられませんでした。
けれども実は、主イエスの横たえられていた場所に亡骸が無いことを確認するだけでは、まだ、主の復活が確かなことだと言うには不充分です。何故なら、主イエスの亡骸が墓の中に無いことは確かめられるとしても、それが、主イエスが復活なさったからとは限らないからです。本当に復活しておられるのか、それとも、ただ遺体が持ち去られて別の場所に移されたのか、分かりません。主イエスが確かに復活しておられること、そしてどんな時にも、どんな状況においても私たちの許を訪れ、神の命の力を与えて下さるようになっているということは、復活の主イエスとの交わりを経験しなければ、確かにはっきりとは分からないことなのです。
それで主イエスは、天使の口を通して、どこに行けば主イエスとお会いできるのかという知らせを他の弟子たちとぺトロの許に持ち運んでゆくようにと、3人の婦人たちに求められました。7節に「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」とあります。
「ガリラヤ」というのは、弟子たちが元々、主イエスから弟子に招かれた最初の土地です。そして主イエスが親しく弟子たちと交わり、御自身が何者であるかを告げて下さった、そういう土地です。その一番最初の場所にもう一度立ち戻るようにと、天使は主イエスの御言葉を告げてくれました。「あなたがたがガリラヤに戻ったら、そこで主イエスはもう待っていて下さる。あなたがたよりも先にガリラヤに行き、そこでお目にかかれるようになっている」と言われます。
私たちは繰り返し繰り返し、自分がどのようにして主イエスと出会ったのか、どのようにして招かれたのかを思い返すようにと導かれています。そのことを忘れて、自分がただ神のものだということだけを考えてしまうと、私たちはいつの間にか、高慢になることがあるかもしれないと思います。主イエスが招いてくださったことを忘れてしまうと、私たちは、自分の方が主イエスに従ってきたのだという、まるで主イエスの助太刀をしているというような尊大な思いになってしまうかも知れません。
しかしよく考えますと、元々の私たちは皆、例外なく、主イエスという方を知らず、主イエス抜きで生活をしていた者たちであり、自分の思いを満足させるためにあくせくと暮らしていたような者たちでした。けれどもそんな私たちの許に主イエスの方から歩み寄って来て下さり、「あなたと一緒に生きてあげよう。あなたはわたしについて来なさい」と招いてくださったのでした。
そして今、復活された主イエスは、もう一度その始まりを思い出すようにと、全ての弟子たちにお求めになります。「ガリラヤへ来なさい。そうすれば、わたしもあなたと共に歩んであげよう」とおっしゃるのです。
この福音書は、8節に「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とあり、「恐ろしかったからである」という言葉で、突然断ち切られるように終わっています。次回は9節からを聞きますが、9節から20節は、最初のマルコによる福音書には無かった言葉だと言われています。「恐ろしかったからである」という言葉は、福音書の終わり方からすれば大変唐突な感じを受けるのです。
けれどもよく考えますと、この福音書の始まりは、「神の子イエス・キリストの福音の始め」という言葉で書き出されていました。マルコによる福音書は言ってみれば最初から、「主イエスは神の御子、神の独り子なのだ」ということが宣言された中で、全ての記事がその上に語られています。
ところが、「神の独り子である主イエスがおられる」と言い始めた福音書をずっと読み進めても、人間は自分たちの許に来てくださった方がどういうお方なのかということを、なかなか認めることができないのです。弟子たちであっても、主イエスを本当に神の独り子であると信頼できないまま歩み、主イエスの逮捕によって散り散りバラバラになってしまいました。ただ一人、人間で最初に主イエスのことを、「神の子」と告白できたのは、十字架の見張り番をしていたローマの百人隊長でした。主イエスが十字架上でどのようにして亡くなって行ったかを見ながら、「本当にこの人は神の子だった」という言葉を語ります。
私たち人間は、主イエスの十字架を見なければ、主イエスが神の子だと分からないのです。
今日の箇所は、神の子である主イエスが、もう一度出発点に戻り、「共に歩こう」と招いてくださる、そういう箇所です。今度こそ、「主イエスは神の子であり、神さまと等しい方だ」という信仰を持って、弟子たちが平安の中を生きるようにと招いて下さるのです。
そして、そのような主イエスの招きを最初に知らされ、皆に伝えるようにと用いられたのが、3人の婦人の弟子たちでした。彼女たちの信心が素晴らしく、あるいは信仰理解が鋭かったので、主イエスの復活が分かり、主イエスと共に歩んで行ったということではありません。彼女たちは恐れていました。本当に信仰が弱く小さな者でしかないために、捕らわれ、恐れ、誰にも何も言えないような弱い僕でしたが、そのような者たちを主イエスが用いて下さり、聖霊が励ましてくださって、「主イエスは確かに私たちと共に生きておられる」と知り、伝える者としてくださっていることを、この福音書は語っています。
「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」、このような婦人の弟子たちでも用いられたのであれば、その先に続くのは、この福音書を聞いている私たち一人ひとりなのです。私たちはしばしば高慢になって、主イエスや神のことを忘れてしまう弱い者です。あるいは、主イエスが共にいてくださることが分からなくなって、恐れに捕らえられてしまう者です。それでも主イエスは、そういう小さい弟子の一人ひとりを、「あなたはわたしのものだ。共に歩んであげよう」とおっしゃって下さいます。そして、この主と共に歩んで、「主イエスこそ救い主である」ことを深く味わう幸いな者となるようにと、私たちは招かれています。
墓の石を取り除けたのは、人間ではありませんでした。神が3人の婦人の弟子たちのために取り除けてくださったのでした。彼女たちは、石を取り除けることなど出来るはずはないと思っていました。私たちも同様に、自分の弱さを思う時には、「わたしが神さまのものとして生きられるはずはない」と思ってしまうのですが、しかし神は、そのような頑なな岩を取り除けてくださるのです。
私たちは今日、「あなたは御復活の主イエスと共に生きることができるようにされている。あなたはここから、主と共に歩んでいきなさい」と招かれていることを聞き取りたいと願います。お祈りを捧げましょう。 |