2023年4月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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捕縛 | 2023年4月第4主日礼拝 4月23日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第14章43〜50節 |
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<43節>さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。<44節>イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。<45節>ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。<46節>人々は、イエスに手をかけて捕らえた。<47節>居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。<48節>そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。<49節>わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」<50節>弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。 |
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ただ今、マルコによる福音書14章43節から50節までを、ご一緒にお聞きしました。主イエスが弟子たちに裏切られ、見捨てられて逮捕されていく時の様子が語られています。まず43節に「さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」とあります。 主イエスを裏切ったユダは十二弟子の一人、即ち、主イエスに最も近しく交わっていた12人のうちの一人でした。このことは、私たち人間の交わりや結びつきというものが決して盤石なものではなく、もろくも終えてしまう場合があり得ることを示しています。「人間関係が近しく仲が良ければ裏切りは起こらない。起こりようはずがない」、「裏切りのような惨めな人間関係は、その間柄が見せかけのもの、上辺だけのことなので生じる。本当に心を通わすような人間関係があれば、裏切りなどは起こるはずがない」と、私たちはふだん思っているのではないでしょうか。しかし、そうではないのです。主イエスとユダとの間柄が見せかけの空虚なものに過ぎなかったので裏切りが起こったのではありません。十二弟子の一人が主イエスを裏切ったということを直視するならば、大変恐ろしいことですが、私たち人間は、イスカリオテのユダに限らずどなたであっても、平気で他人を裏切ってしまうような油断のならないところがあるのです。そのことが、今日の箇所では主イエスが敵の手に捕らえられてしまう場面で、殊のほか明瞭に示されています。 そしてこの裏切りは、ユダー人だけの例外的な出来事ではなかったことが、この後分かってきます。50節に「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあります。即ち、ユダ以外の弟子たちも、ユダとやり方こそ違いますが、皆一人の例外もなく、主イエスを見捨て、裏切ってしまったことが語られています。人間関係が真実ならば裏切りは起こらないということではないのです。そこに活き活きとした間柄があれば、どんな時にも相手のことを考え行動することができるというのは幻想であると聖書は語ります。深く相手を愛し、どこまでも一緒にいようと心に決めているつもりでも、私たちの心の中にはいつでもあやふやなところがあり、ままならない不気味さがあるのです。「絶対に裏切らない。いつも共に居続ける」とは言えない、そういう弱さがあることを、この逮捕の場面は非常に鮮やかな形で私たちに語ってくれています。 そして、私たち人間の決断が、いつでもそのようにあやふやなところをはらんでいるだけに、先週「ゲツセマネの祈り」の箇所で聞いた、42節の主イエスの招きの言葉、「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」という言葉は、私たちが心に留めるべき言葉であろうと思います。主イエスは弟子たちに、「立て、行こう」と呼びかけてくださいました。英語で言えば「レッツゴー」です。そこで呼びかけられた弟子たちは、寸前まで横になって眠り込んでいました。ところが主イエスは、そういう弟子たちに向かって、「わたしと一緒に行こう」と呼びかけてくださいました。 さてそのように、主イエスはユダの裏切りも他の弟子たちの弱さも承知しておられたのですが、当のユダは、そのように主イエスから見抜かれていることを気づいていなかったようです。イスカリオテのユダは、最後まで自分が主イエスに対して敬意を払っていると思わせようとしていました。もしかするとユダ自身は、自分が主イエスを欺いていることを分からないほどに混乱していたのかもしれません。よく知られていることですが、ユダは接吻をもって主イエスを裏切りました。この接吻という所作は、当時は弟子が先生に対する敬愛の気持ちを表す振る舞いだったようです。 ユダが主イエスに接吻したのは、それによって先生に対する敬愛の気持ちを表したことになります。しかしそれは偽りの、見せかけの敬愛でした。上辺を取り繕っているに過ぎない、形ばかりの敬愛でしたが、しかしユダは、そのごまかしが通ると思っていたようなのです。 ところが、一切を見抜いておられながら、主イエスはむざむざと敵の手に落ちてしまいます。46節に「人々は、イエスに手をかけて捕らえた」とあります。「主イエスの逮捕」ということであれば、この記事はここまでで、ある意味完結しています。46節の言葉は暗澹たる思いにさせられるような言葉です。主イエスは思いがけず裏切られているのではありません。主イエスはユダの裏切りを承知しておられます。ユダの敬愛の所作が上辺だけの見せかけにすぎないことを分かっておられます。ところが、そうであるのに捕らえられてしまうのです。私たちの生活にも、時にこのようなことがあるのではないかと思います。分かっていても避けることができず悪いことが起こってしまう、分かっていても災いを避けられないのだとしたら、それは無力だということではないでしょうか。つまり主イエスは、無力だったのではないでしょうか。 ところで、まさにこのように主イエスが捕らえられていく場面で、主イエスのなさろうとしている御業を理解できない一人の人物が登場します。この人物は、ヨハネによる福音書18章10節によれば「ペトロであった」とはっきり名指しされています。けれども、今日の箇所では名前が出てこず伏せられています。47節に「居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした」とあります。ヨハネによる福音書の記事では、剣を抜いて斬りかかったのはペトロであり、耳を切り落とされた人物はマルコスであったと言われています。剣を抜いたのがペトロであることは、ほぼ間違いないのです。けれどもここでは、名前ばかりか弟子であることも伏せられ、たまたま居合わせた第三者のような口ぶりで出てきます。 ペトロはここで動転し逆上して、意味のない行いをしてしまいました。けれども主イエスは違います。力ずくで従わせ、自分の思いを実現しようとはなさいません。むしろ、ユダの裏切りも弟子たちの罪も、ペトロの過ちも、御自身の側に引き受けられます。最初から主イエスに敵対してきた人々やその下役たちの罪を暴き出し、そしてそれも御自身の身に引き受けて、その罪を滅ぼされます。48節49節に「そこで、イエスは彼らに言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。』」とあります。 マルコによる福音書は、その始まりの1章1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあり、これはこの福音書全体の標題です。「神の御子である主イエスこそ、救い主、メシアである。それが福音である」とマルコ福音書は語ります。「主イエスこそが、私たちのための救い主、キリストである」と私たちが信じ、告白して生活できるようになることが福音であり救いなのだという言葉で始まっています。 この主イエスの捕縛の場面は、人間の弱さと罪がすべてを覆っています。けれどもそれにいささかもひるむことなく、ここには、救い主としての御業に向かってゆかれる主イエスがおられるのです。そしてこの主は、今日も尚、私たちのただ中にあって共に歩んでいて下さいます。私たちの信仰がどんなに覚束なく頼りなく感じられる時にも、あるいは私たちがいつも、気がつくと主イエスを忘れ神抜きで生活してしまっていて、自分は一体どこが神の民の一員なのだろうかと思うことがあるとしても、主イエスはそういう私たちのただ中に立ってくださり、「共に歩んで行こう」と呼びかけてくださり、御業を進めてゆかれるのです。 ここに語られている人間の弱さも偽りも、主イエス・キリストを通して神がなさろうとする救いの御業を押し止めることはできません。私たちがどれほど弱く、あやふやな者であるとしても、主イエスが今日も私たちの間に立っていてくださり、私たちと共に歩んでいて下さることを覚えたいのです。この主の招きに慰められ勇気を与えられながら、私たちも、神の救いの御業を賛美して晴れやかに人生を生きる、幸いな者たちとされたいのです。お祈りをささげましょう。 |
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