2023年4月 |
||||||
4月2日 | 4月9日 | 4月16日 | 4月23日 | 4月30日 | ||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
■「聖書のみことば一覧表」はこちら | ■音声でお聞きになる方は |
ピラトの裁判 | 2023年4月第1主日礼拝 4月2日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
|
聖書/ヨハネによる福音書 第18章28節〜19章1節 |
|
18章<28節>人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。<29節>そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。<30節>彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。<31節>ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。<32節>それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。<33節>そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。<34節>イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」<35節>ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」<36節>イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」<37節>そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」<38節>ピラトは言った。「真理とは何か。」 |
|
ただ今、ヨハネによる福音書18章28節から19章1節までをご一緒にお聞きしました。 ところでピラトは、口ではそのように尋ねながらも、縄を打たれている見知らぬ男がどのように答えるかを予め想像もしています。もし本気でローマに対する謀反を企てているならば、素直に自分は王であるとは答えないだろうと分かっています。そのように答えれば、たちどころに危険分子として処刑されてしまうことは分かりきったことだからです。ですから、「お前がユダヤ人の王なのか」という尋問に対しては、「違う。わたしはそんなことは言っていない」という答えが返ってくるに違いありません。問題は、そのようにこの男が答える際の態度や仕草や様子です。それによってある程度のことが分かるだろうと思って、ピラトは直にこの男を尋問したのでした。 ところが、この尋問中にピラトは幾つもの思いがけない返事を耳にすることになります。最初の返事は、ピラトが口にした「ユダヤ人の王」ということについて、それはピラト自身がそう思って尋ねているのか、それともピラトはただ、その呼び名を他の人から聞かされたのでそう尋ねているのか、という問い返しです。ピラトはローマ総督ですから、人間を処刑する権限を持っています。そういうピラトに対して、このように問い返し、逆に質問するような囚人は滅多にいません。この男は、まるで自分の方が裁き手であって、ピラトのあり方、考え方を問うているかのようです。これでは、どちらが尋問し裁きを行っているのか、まるであべこべです。自分が今置かれている立場をまったく理解していないかのように感じられるこの男に対して、ピラトは、「わたしは、お前から裁かれたり判断されたりしなくてはならないユダヤ人なのか。お前はお前の同胞であるユダヤ人たちや祭司長たちによってわたしの前に引き立てられ、今、この裁きの席に立たされているのだ。どうしてこのようなことになったのか、申し開きをするように」と言い返しました。するとピラトは、その答えとして、さらに全く予想もしていなかったような言葉を耳にしたのでした。 先にも触れましたように、ピラトは、この男が「ユダヤ人の王である」ということを否定するような答えをするに違いないと予想していました。ところがこの男の口からは、大変思いがけない返事が返ってきたのです。36節に「イエスはお答えになった。『わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない』」とあります。この男は、「この世に属していない国、そして自分を守ってくれる部下が一人もいない国の君主である」と言い放ちます。不思議なことに、そんな大それたことを、しかもローマ総督であるピラトの前で言うことがどんなに危険なことであるかを分かっていそうなものなのに、この男にはまったく取り乱した様子が見られません。縄で縛り上げられ、端目からはひどく惨めな境遇に置かれているようでありながら、その話し振りには、むしろ一切が順調に進んでいて特に困難なことは何も起こっていないかのような落ち着きが感じられます。この男を警護し身を守ってくれる部下が一人もいないとしても、それがこの国では当たり前のことであるかのように、平然としているのです。 こういう男の様子に接して、ピラトはどう考えてよいのか分からなくなります。「一つの国がこの男に従っているらしい」ということと、「それなのに、この男を守ろうとする一人の部下もおらず、今、現に縄を打たれて引き据えられている惨めな有り様」という二つの事柄の間に、決して相容れることのできない大きな隔たりがあるように感じて、ピラトはこの男の言い分に合点がいかないのです。 それに対して主イエスは、「わたしが王だとは、あなたが言っていることだ」とお答えになりました。実際、新約聖書の中には、主イエスが御自身のことを王であると名乗っている箇所は一箇所もありません。主イエスは、王以上の方だからです。それこそ、主イエスは神の御国の主人であり、「救い主キリスト」とお呼びするのが相応しい方です。主イエスはそのことをピラトに告げられます。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。主イエスは、「神の御国、神の御支配が真実にあるのだという真理を証しし、それを現すために」この世においでになったのだとおっしゃいます。そのことを信じる人は皆、主の言葉によって力づけられ、勇気を与えられて生きてゆくことができるようにされるのです。 今日は「ピラトの裁判」と題しましたが、この裁きの場は、ごく普通に考えれば、裁く側の裁判官はピラトであり、裁きを言い渡され裁かれる側の被告は主イエスです。しかしこの尋問の最初のところから、ピラトはあべこべなものを感じていました。目の前に引き出され縄を打たれ、囚人であるにも拘らず妙に落ち着き払っている男、主イエスの姿から、言葉から、ピラトの方がむしろ問い質され、尋問されているような不思議な思いを感じていました。 そしてそのことは、この朝、主イエスをピラトの許に引いて来て、そして、自分たちはこの裁きに一切関わりがないような顔をしていた人々についても言えることでした。 最初にピラトがこのユダヤ人たちに向かって、「あなたがたの律法に従って裁け」と申し渡した時、彼らは、「私たちには人を死刑にする権限がない」と言って、ピラトの裁判を求めました。ということは、裁判をするまでもなく、彼らは主イエスを殺そうとする気持ちだったということです。そういう彼らの惨めな姿が語られているのですが、実は注目したいのは、その後の32節の言葉です。「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」とあります。 本当に人間を清くするのは、主イエス・キリストの血潮です。主イエス・キリストがすべての人々を思って十字架に架かり血を流してくださる、それが神の御計画であって、主イエスが苦しみ十字架で亡くなられることが神の御心でした。ですから主イエスはピラトの前で、何の障害もなく問題も起こっていないように堂々として尋問に答えられました。 主イエスの十字架の死こそ、人間の醜い争いも罪も清算してくださる、神の慈しみに満ちた御業です。そして、この御業が自分のため行われたと信じる人、「あの主イエスの十字架によって流された血が、わたしのための過ぎ越しの血なのだ」と信じる人は、たとえどんな過ちを犯していても、この地上でどのような問題に直面し辛さを覚える時にも、尚、「神さまがそれでもこのわたしを御心の内に深く覚えてくださり、生かそうとしてくださっている」ことを知るようにされるのです。そして、どのような時にも生きることができるようにされるのです。 今日から受難週ですが、私たちが今日生かされている生活の背後に、また私たちの人生の土台に、こういう、主イエス・キリストを通しての神の御業があることを改めて憶えたいと思います。困難や辛い出来事に出会っても、主イエスが私たちを憶えて十字架に向かって歩んでくださっていることを信じて、「わたしの罪は十字架によって赦されている。ここからもう一度生きてよい」と呼びかけられていることを信じて、生きる者とされたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。 |
このページのトップへ | 愛宕町教会トップページへ |