聖書のみことば
2023年3月
  3月5日 3月12日 3月19日 3月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月19日主日礼拝音声

 主の日の訪れ
2023年3月第3主日礼拝 3月19日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第13章28〜37節

<28節>「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。<29節>それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。<30節>はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。<31節>天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」<32節>「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。<33節>気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。<34節>それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。<35節>だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。<36節>主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。<37節>あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 ただ今、マルコによる福音書13章28節から37節までを、ご一緒にお聞きしました。
 28節29節に「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」とあります。「いちじくの木から学ぶように」と主イエスはおっしゃいますが、一体何を学ぶようにと言われるのでしょうか。続けて、「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と言われます。何だか腑に落ちないおっしゃりようのように感じます。いちじくの枝が柔らかくなって葉が伸びると夏が近づくというところまでは、よく分かります。それは自然の理であって、私たちも一年を通して経験しているからです。教会の西側にも一本のいちじくの木が植わっていますので、昨日、改めてしげしげと眺めましたが、まだ葉は芽吹いていませんでした。夏にはもう少し間があるということだろうと思います。
 いちじくの木のことは分かるとしても、しかし分からないのは、その先の主イエスの言葉です。「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」。いちじくは、季節によって葉を芽吹かせたり落としたりします。けれども、「人の子の訪れ」はそれと同じなのでしょうか。そこがよく分からないところです。主イエスはどうして、いちじくの木を示しながら「人の子の訪れを悟れ」と言われるのでしょうか。

 そもそも、「人の子が戸口に近づいている」とは、どういうことでしょうか。「人の子が戸口に近づいている、戸口までやって来ている」と主は言われますが、いきなりこのように聞かされますと戸惑いを感じます。しかし、ふと知ったことなのですが、讃美歌240番の歌詞を聞くと、この言葉の意味が少し分かるように思えるかも知れません。讃美歌240番は、わたしたちのために十字架にお架かりになった主イエス・キリストが、わたしたちの戸口までやって来て、閉ざされている戸口をノックしておられるという歌詞の讃美歌です。その3節には、「あなたのために十字架に架かったわたしを、どうして拒むのか」と主イエスがお訊ねになる言葉が出てきます。
 「人の子が戸口に近づいている」という言葉は、主イエスが御自身の十字架が間近に迫っていることを思いながらおっしゃっている言葉です。主イエスはもう間もなく捕らえられ、大変に不当なことですが、無実の罪を着せられ十字架に掛けられ、処刑されてしまいます。主イエスの敵はそれによって主を葬り去ろうと考えるのです。そして実際に思い通りに行うのですが、一方、神の側は、そういう人間の行いによって、御自身が持っておられるもう一つ別の計画をなし遂げようとなさいます。即ち、無実の罪で殺されていく主イエスの十字架を用いながら、その主イエスに、すべての人間の罪を肩代わりさせようとお考えになるのです。主イエスを、人間の罪の肩代わりとして血を流す犠牲の小羊となさって、主の十字架の死によって私たち人間の罪を清算しようとして下さるのです。

 そのような十字架の出来事の後に、私たちの戸口にやって来て扉を叩かれる主イエス・キリストは、一体何のために、戸口までおいでになるのでしょうか。私たち人間の無情さ、冷酷さをなじろうとして来られるのでしょうか。そうではありません。
 主イエスが仮にそうなさるのであれば、それは決して不当な行いではありません。私たちは、いつでも当たり前のように自分中心に物事を考えますし、その結果、隣人に対して冷酷になったり、心ない仕打ちをしてしまう場合があります。自分で分かっていてそうする場合もありますが、気づかないで他人を傷つけたり、踏みつけている場合もあります。あるいは、自分を守りたいあまりに不当なことを語ったり行ったりすることもあるかも知れません。そういうみっともない惨めな姿は、人間同士の間では、一時隠し立てすることができるとしても、神の御前には、ごまかしは通用しません。私たちが分かって行っていること、分からずに行っていることの一切を神は御存知であって、そのことの責任を私たちに問おうとすれば、そのようにして裁くことがおできになるのです。
 そして主イエスもまた、私たちの心の内と行いをすべて御存知ですから、私たちの罪を暴いて責任を問おうとなさるなら、それがおできになるのです。そして、もしもそのようにされるのであれば、私たちの側には反論したり弁解する余地はありません。まさしく私たちが生きている通りの姿を突きつけられていることになるからです。

 しかし、主イエスが私たちの戸口においでになって扉を叩かれるのは、裁きをなさり、滅びを宣告するためではありません。先ほどの讃美歌の歌詞には「あなたのために十字架に架かったわたしを、どうして拒むのか」とありますが、主イエスが戸口に立たれるのは、私たちを裁くためではなく、その逆です。私たちが犯した罪のために、主イエス御自身が十字架にお架かり下さり、そのことにとって「あなたの罪の裁きは、過ぎ越されている」ということを告げ知らせるために、主イエスは戸口においでになるのです。そのことを主イエスは、いちじくの木のたとえを通して教えようとなさいました。

 今日は初めに、いちじくの木に葉が茂り始めると夏が近いということは、自然の理なのだと申しました。しかし主イエスは、自然の理や季節の移り変わりを知るために「いちじくの木を眺めるように」と教えられたのではありません。単なる自然界の移り変わりということならば、確かにいちじくは夏が近づくと葉を茂らせ、そして実をつけますけれども、しかしまたその逆のことも起こります。即ち、夏の暑い盛りにたわわに実をつけたいちじくは、秋の訪れと共に葉を落とし、また枯木のような姿に戻ってしまいます。そして私たちは、そのように「枯れてしまう」ということによっても、時の移り変わりを感じるのです。
 しかし、ここで主イエスが弟子たちに心を向け学び取るようにと教えられたいちじくの木の姿というのは、厳しい冬の寒さの間、神がその命を守ってくださり、そしてまもなく芽吹きを迎える、そういう姿です。冬の厳しい生活の末に芽生えが与えられ、更に収穫ももたらされていく、その姿を学び、心に留めるようにと教えられます。そういう姿をお示しになって、主イエスは、「あなたがたの戸口に、今、人の子が訪れようとしている。わたしが十字架に架かり、あなたがたの罪を清算しようとしている。あなたの犯す罪がどんなに深刻であっても、あなたがたの陥っている過ちがどんなに深く大きなものであっても、わたしが十字架に架かってその罪を清算する。そしてそれによって、あなたがたに新しい命の始まりを与える。このことを、いちじくの芽吹きを見る度に思い起こしなさい」とおっしゃるのです。

 そして、そのようにして救われる命が私たち一人一人に与えられるという知らせを踏まえた上で、大切なことをお語りになる時にいつもおっしゃる前置きの言葉と共に、主イエスは弟子たちに教えられました。30節31節に「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とあります。
 主イエスは「天地は滅びる」と言われました。天地が滅びる時には、天から光が消え失せ、大地は形を失うことになります。私たちをいつも明るく朗らかに照らしてくれている天体の光が永遠に存続すると思っていても突然取り去られ、また私たちが頼もしく思い常に依り頼み避け所になり得ると思ってきた大地が急に形を失い消え去るのです。
 そういうことは、この地上の生活の中で確かに起こり得ることです。天変地異が起こらなくても、私たちは自分の人生に大きな動揺を感じ、自分の存在が根底から問われてしまう、そういう思いを経験することがあり得ます。私たちが親しく感じてきた天地は、確かに失われるものなのです。
 しかしその時にも、主イエスの言葉は滅びません。「わたしは確かにあなたを覚えて十字架に架かっている。あなたの罪を、この十字架によって清算している。だから、あなたはここからもう一度生きて良いのだ」と言ってくださる主イエスの言葉は、滅びることがありません。主イエスは、いちじくの芽吹きを見て、そこに命を与えようとされる神の働きを見て取るようにと、弟子たちに教えられます。悲惨な滅びを経験し打ちのめされる時にも、主イエスは、「わたしの言葉は決して滅びない。あなたはどんな困難の中に置かれる時にも、どんな苦しみ悲しみ痛みを覚える時にも、わたしが十字架に架かっているからには、あなたはそこで生きてよいのだ」とおっしゃるのです。
 「これらのこと」と、主イエスはおっしゃいます。それは、神の力が枯れ果てたように見える木を生かし、罪によって滅んでも仕方のない者たちにも命を与え生かして下さる、そういう神の御業です。「神の力ある御業によって、滅んでも仕方のなかった者が生きるようにされる。そのことが起こるまで、今のこの時代は決して滅びない」と、主イエスは言われます。

 この30節で言っておられるのと同じことを、主イエスは既に別の言い方で弟子たちに伝えておられました。9章でも主イエスは、「はっきり言っておく」という前置きをなさった上で、1節「また、イエスは言われた。『はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる』」と言われました。大変不思議な言葉に聞こえます。これは、私たちが不死になるということではありません。そうではなくて、「主イエスがわたしのために十字架にお架かりになり、わたしの罪を清算してくださった」と本気で信じる時には、私たちは、どんな悲しみや寂しさや、苦難の痛みの内に置かれていても、なおそこで力を与えられて立ち上がることができるようにされます。「主イエスの十字架によってわたしの罪を清算してくださっている。だからわたしは立ち上がることができる」、そういう経験は、私たちが今生きているこの人生の中で、この時代の内に起こることなのです。「天地が滅び、私たち自身の存在が失われてしまいそうになる」そういう時にも、主イエスの約束が私たちを滅びから救います。どんなに弱っていても、そこからもう一度、生きるようにしてくださいます。たとえ私たちが死の床に横たわっていて、この地上からまさに取り去られようとしている時ですら、主イエスの言葉は、私たちに慰めと勇気と力を与えてくださいます。私たちの上には、そのような本当に頼もしい約束が与えられているということを、いちじくの芽吹きを見る度に思い起こすようにと、主イエスは教えられるのです。

 ところで、私たち銘々の上には、そのようにまことに頼もしく慰めに満ちた約束が語りかけられているのですが、しかし、今実際に悲しみや痛みに心が塞がれてしまっている人たちには、そういう神の約束と御国がいつ自分の上に力を持って臨むのかが分からないということもあるのです。今、実際に愛する者を失う、あるいは生活が土台からすっかり崩れてしまったように感じる時には、私たちは、直面している痛みから思いを上げることができなくなります。そういう時には、「主イエスがあなたのために十字架に架かって下さっている。それによってあなたには新しい命が与えられ、新しい生活が訪れようとしているのだ」と聞かされても、それはどこか遠くで自分とは関わりのない言葉が響いているだけのように感じられてしまうこともあるのです。子どもに先立たれた母親が放心状態になってしまう時、そこでいくら周りの人たちが、「主イエスが十字架に架かって下さり、死んだ者も救って下さる」と理屈を並べたところで、すぐには合点がいかない、そういうことがあります。自分が失ってしまったものに思いが向いていて気を取られている間は、そういう自分を支えてくれているものがあることになかなか気づけないものなのです。それは、私たちが自分の思いを中心に生きてしまうためでもあります。

 しかし神は、深い嘆きの内にある者も、放心状態に陥っている人も、決してお見捨てにはなりません。いつ神の御国の御支配が力を持って人間に臨むようになるかは、神が御心のうちに深く秘めておられることで、私たちには分かりません。けれども、神は私たちを覚えていてくださっている限り、必ず、その人に本当に相応しい時、最も良い仕方で、神の御国を私たちのもとに来たらせ、私たちを覆い支えてくださいます。ですから主イエスは32節のように教えられます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」。いつ神の御国の御支配が私たちに対して力をもって臨むようになるのか、いつ、そのことを伝える主イエスの言葉が私たちの中で権威ある言葉として響くようになるのかだれも知りません。主イエス御自身ですら、その時と場合の事柄は、父なる神に委ねておられるのです。
 主イエスですら御存知でないことを、私たちが分からないのは当然です。しかし主イエスは、いつ、どんな仕方で辛い思いをしている者たちが救われることになるかは御存知でなくても、神が最後には必ず、御自身の子らを抱き起こして立ち上がらせて下さることは、よく承知しておられるのです。

 ですから、約束を忘れて眠ってしまわないように、目覚めているべきことを教えられました。33節34節に「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」とあります。
 主イエスは、御自身が戸口に立って扉を叩くということを弟子たちが忘れないように、「目を覚ましていなさい」と教えられました。「目を覚ましているように」などと言われますと、私たちは緊張してしまうと思います。気を緩めず眠り込まないように、ずっと起きているということかと思うかもしれません。しかし人間は、絶えず緊張しっぱなしでいることはできません。もし私たちが、自分一人だけで緊張しずっと目覚めていなければならないとしても、そんなことは出来ませんから、極限まで頑張り抜いた末に遂に全員が眠り込んでしまうということになりかねません。
 主イエスはここで、非常に面白い言い方をなさいます。即ち、目を覚ましているために、様々な人々にそれぞれの役目を割り合てて、その人に相応しい責任を果たすようにされているのだとおっしゃいます。34節に「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」と言われています。
 私たちは、眠くなるのをどこまでも我慢して起きているようにと求められているのではありません。一人一人に与えられている務めがあり、それを果たしながら生きるようにと言われています。ローマの信徒への手紙13章11節12節に「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」と勧められています。これは、「主イエス・キリストが共にいてくださる」ことを覚えて、「主が共にいてくださる生活を生きるように」という勧めの言葉です。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」というのは、自分の力で緊張しながら信仰を持ち続けるということではなく、「主イエスが共に歩んでくださっている、だからあなたは主イエスを纏うようにして、守られ生活することが許されている。その中であなたは、与えられた務めを精一杯果たすように」と教えられています。
 「主イエスの御言葉がわたしの内で力を持って響きますように。神さまの御支配が力をもってわたしの上に臨んでくださいますように」と願う人たちは、この世の生活の中で、主が共にいて下さることを覚え、信仰に支えられて、それぞれに与えられている今日の務めに仕えて生きるようにされるのです。

 主イエスが今日もあなたと共に歩んで下さいます。その下で生活し、主をほめたたえて生きる生活を励むことこそが、目を覚まして主を待ち望む生活であることを覚えたいのです。
 私たちは神によって支えられているので、死んだ木ではありません。私たちは時に、葉を落とし力を失って、死んだ者のようになってしまったと自分自身のことを感じることがあるかもしれません。けれども、私たちは決して滅ぼされてはいないのです。主イエスが私たちの身代わりに十字架に架かってくださり、それによって私たちの滅びと死を清算してくださり、私たちには神の慈しみと愛と、今日の命が与えられます。
 主イエスが私たちの戸口を叩いて下さり、私たちの中に入って来て下さり、私たちの主となってくださる、そのような生活を楽しみに待ち望む者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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