2023年3月 |
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3月5日 | 3月12日 | 3月19日 | 3月26日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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過ぎ越しの食事 | 2023年3月第1主日礼拝 3月5日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第14章12〜21節 |
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<12節>除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。<13節>そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。<14節>その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』<15節>すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」<16節>弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。<17節>夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。<18節>一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」<19節>弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。<20節>イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。<21節>人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 |
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ただ今、マルコによる福音書14章12節から21節までをご一緒にお聞きしました。 ところが主イエスは、弟子たちとはまるで違うことを考えておられました。一体何が違っていたのでしょうか。弟子たちは、毎年くり返して祝われる、いつもの年と同じような過越の食事を食べ、例年と同じように祭りの時を過ごすのだと思っていました。しかし主イエスは違いました。この年の過越において屠られるのは、他ならない主イエス御自身です。弟子たちはこの時、まだ知りませんが、実はこの日が主イエスと弟子たちが一緒に地上の生活を過ごせる最後の日であり、これからとろうとしている過越の食事が、主イエスと共にとることのできる最後の食事でした。そのことを、主イエスだけが承知しておられました。 そのことを思いながら今日の記事を聞きますと、弟子たちが何気ない気持ちで主イエスに尋ねた言葉が、実は深い響きを持つ問いであることに気づかされることになるでしょう。もちろん、この問いを口に出して尋ねている弟子たち自身は、自分たちの言葉に深みがあることなど、気づいていなかったでしょう。問うている弟子たち自身が気づいていないのですから、取り立ててこの言葉を深い響きがあると受け取らない方が良いのではないかと思われる方もおられるかもしれません。確かに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と尋ねている弟子たちは、自分たちの問いの意味や深みや、その鋭さに気がついていません。問いを口にした弟子たちのこの時の思いからすれば、「肉の糧をどこで食べたら良いだろうか」という以上の問いではなかったに違いないのです。 弟子たちは、食事のための準備をすべて自分たちの手で行わなくてはならないと思っていました。主イエスの意向を確かめて、その上で、主の意向に沿うような食事の会場を自分たちで見つけ出し、そしてそこに食卓の準備をしようと考えていました。ところが今日の記事では、主イエスと弟子たちが語り合っていく中で、この過越の食事については、既に主イエスの側で場所の手配がすべて済んでいることが分かってきます。13節から15節に「そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています。」すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい』」とあります。この主イエスの答えは、聞きようによっては大変不思議に感じられる記事です。主イエスは食事の準備をさせるために2人の弟子を遣わされますが、エルサレムの都に入ったところで、どうして2人が「水がめを運んでいる男に出会うことになる」と分かっていたのでしょうか。更に、その男について行って、その先で出会うことになる家の主人は、どうして主イエスと弟子たちのために2階の広間に席の準備をして待っていたのだろうかと思うと、大変不思議な印象を受けることになります。まるで主イエスが千里眼の持ち主で、遠い場所の様子や未来に起こる出来事をすべて見通せているかのような印象を受けてしまうのです。 弟子たちが過越の食事をとるために会場の用意をしようと思ったということは、例年の過越の時には、弟子たちが会場を当たって食事の準備をしていたということになるでしょう。ところが、この日の過越の食事に限っては、主イエスの方がその準備をしてくださっていました。このことは、この時の過越、即ち「主イエスが自ら過越の小羊となって屠られ、人間の罪への裁きが過ぎ越されてゆくようになる」この年の過越については、たとえ主イエスの弟子であっても、何の準備もできないことを表しています。主イエスが自ら小羊となり、御自身を人間の罪を贖うための犠牲としてささげてくださる真の過越においては、人間は、そのために何の準備をすることもできません。ただ主イエスが準備してくださり、弟子たちを、私たちを招いてくださる食卓に感謝して与る以外に、真の過越を経験することはできないのです。 「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と弟子たちは尋ねました。真の過越に与るために、真の食事に与って養われるために、弟子たちは「主イエスの十字架の許」にやって来なくてはなりません。主イエスの十字架の犠牲によって、自分の罪を清算して頂いた人間だけが、本当の意味で神の過ぎ越しに与り、罪を赦されて、真に明るく、大らかで命の力に満ちた人生を生きる者とされてゆきます。 しかし果たして、主イエスがこの時、弟子たちに伝えようとなさった事柄は、そういうことなのでしょうか。即ち、「あなたがたの中に一人の裏切り者が紛れ込んでいる。あなたがたは、その裏切り者に気をつけるように」と、主イエスは弟子たちに注意を促すためにこう言われたのでしょうか。 この箇所の主イエスの言葉遣いにも注目して考えたいのです。18節の始めのところで、主イエスは「はっきり言っておくが」という前置きをつけておられます。これは、主イエスが弟子たちに大事なこと、心に留めてほしい大切なことを教える際に前置きとしておっしゃる主イエスの言い方です。ということは、ここに述べられていることは、弟子の誰にも関わる極めて大切な事柄だということになるでしょう。 実際に起こる出来事の中で、主イエスを裏切るのはイスカリオテのユダです。けれども、もしユダが裏切らなかったら、他の弟子がユダの役割を果たしたかもしれません。もっと言うならば、ユダが裏切って主イエスが捕われた後、結局弟子たちは皆、主イエスを裏切って逃げてしまうのです。ユダのような形で裏切らなかったとしても、他の弟子たちも皆、主イエスを見捨て、我が身可愛さで自分中心に生きてしまう、そういう点では五十歩百歩なのです。それぐらい、人間は自分中心に生きるのが当たり前で、神を信頼し主イエスに従うという点ではあやふやなところがあり、誰もが自分中心の罪を抱えているということを、主イエスはこの日、この食卓の席で教えられたのでした。 主イエスは、そういう人間の罪の代価を支払う身代わりとなって十字架にかけられ、「木に掛けて殺される呪われた者」として、地上の御生涯を終えられます。まさに旧約聖書に記されている通り、神に呪われ神から見捨てられた者として亡くなっていきます。そしてまた同時に、主イエスはそれを承知しながら十字架に向かって歩んでいくということを通して、神の僕として、御自身のあるべき務めに忠実に仕えていくという仕方で亡くなっていかれるのです。 このような成り行きは、神の御計画の内にあることではあります。けれども、神の御計画がそのように実現していくからと言って、主イエスを裏切ってしまうユダの罪は、罪でなくなるわけではないのです。ユダはそれを嫌々行なっているのではないからです。罪のあり方、自分中心のあり方にすっかりはまってしまい、主イエスを裏切ってしまう、その惨めさを主イエスは悲しまれます。「こういう生き方をしてしまうことは本当に不幸だ。神さまの憐れみがあり、神さまの慈しみを信じて生きて良いのに、そのことに背を向けて自分一人で生きてしまう、そういう道を辿る、そういう裏切りの中を生きてしまう人は、せっかく与えられた命を棒に振ってしまう。生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われるほどに、主イエスは罪を悲しまれました。 私たちは、どこへ行けば罪を過ぎ越して頂けるのでしょうか。真の過越に与って生きるために、私たちは、「私たちのために十字架にかかってくださり、私たちの罪と命がけで格闘し、遂に御自身を罪が赦されるしるしとしてささげ、贖いの小羊となってくださった主イエス・キリストの許に身を寄せる他はない」のではないでしょうか。主イエス・キリストの十字架の許にたたずんで、私たちのために主が戦ってくださる御業を讃える者とされたいと願います。 |
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