聖書のみことば
2023年1月
  1月1日 1月8日 1月15日 1月22日 1月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月15日主日礼拝音声

 貧しいやもめの献身
2023年1月第3主日礼拝 1月15日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第12章41〜44節

<41節>イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 <42節>ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 <43節>イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 <44節>皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 ただ今、マルコによる福音書12章41節から44節までを、ご一緒にお聞きしました。
 41節に「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた」とあります。主イエスはこの時、エルサレム神殿の境内におられたのですが、話をしてはおられませんでした。神殿の賽銭箱に人々が献金をささげる様子を御覧になっていたと言われています。傍目からは、神殿の境内で人々を教えておられた説教の合間に、一息入れて休んでおられるようにも見えたかもしれません。
 しかし主イエスはこの時、休んでおられたのではありません。御自身がこれまで人々に呼びかけ語ってこられた事柄の前で、人々がどのようであるかを、じっと見つめておられたのでした。

 ある説教者は、この時の主イエスが「最終的な審判を下す方として、座について、人々のありようをじっと御覧になっていた」と語ります。「賽銭箱の向かいに座っておられた」のですが、それは「最後の日に裁きを下す審判者として、群衆の様子を静かに見守り、見つめておられたのだ」と説明します。
 そう言われてみると、確かにそうかも知れません。この箇所の言葉をよく聞きますと、普通なら見えるはずのない事柄を主イエスが見ておられた、見えないはずの事柄を見抜いておられたことが分かるからです。
 たとえば主イエスはこの時、賽銭箱に向かって座っておられたのですから、賽銭箱の向こう側から見ていた訳ではないのです。ここでの賽銭箱の形は、日本の神社にある四角い賽銭箱のように上方向が開いているのではなくて、四角い閉じられた箱の所々に水仙の花のようなラッパ型の口がつけられていて、献金をする人はその花の中に手を入れるようにして持ってきた献げ物のお金を入れて離しますと、そこから箱の内部に、ささげられたお金が落ちてゆくという仕組みになっていました。
 ですから、主イエスが賽銭箱に向かって座っていたということは、実際には献げ物をする人々の肩越しに賽銭箱を眺めるという形になりますから、一人一人が幾らささげたかということは、普通は見える筈がないのです。しかも、その献げ物が、その人の生活費のごく一部なのか全部なのか、あり余る中からお付き合いのようにしてささげているだけなのかということは、なおさらのこと、分かるはずのないことです。
 ところが主イエスは、44節で「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」とおっしゃっています。どうして主イエスは、この「貧しいやもめ」と言われる人のささげた献げ物が、この人の生活費の全部であると分かったのでしょうか。考えてみると不思議なのです。
 つまり主イエスはここでは、「すべてを見抜き、一切のことを御存知である方」として、一人ひとりが神の前にささげる献げ物を御覧になっておられるのです。それが、今日の箇所に語られていることです。

 このような聖書の記事に出会わされますと、私たちは自分自身のことも思わされ、背筋の伸びるような思いにさせられるのではないでしょうか。主イエスは、このやもめや大勢の群衆を御覧になっているのと同じように、私たち一人ひとりのありようにも背後から目を注いでおられるかもしれないのです。
 今日も私たちはここで礼拝をささげ、献金をささげ、そして、それぞれに与えられている生活へと遣わされて行きます。私たち自身が「神にささげられている者」としての生活を始めることになるのですが、そういう私たちの生活の一コマ一コマを、主イエスは背後から御覧になっておられ、私たちのありようも見抜いておられるのです。このことに気づかされると、私たちはふと、自分が神の御前に覚えられ、知られているということに畏れを憶え、また、背筋をまっすぐに伸ばさせられるような思いになるのではないでしょうか。今日の箇所から聞こえてくる最初の事柄は、エルサレム神殿で献げ物をささげていた一人のやもめや大勢の人々と同じように、私たちもまた、背後から主イエスによって見つめられているということなのです。
 私たちは、そのような主イエスの前で、どのような者なのでしょうか。ここに出て来る大勢の金持ちのようなあり方をしているのでしょうか。それとも、特に主イエスが目を留めてくださって、そして弟子たちに教えられたやもめのようなあり方をしているのでしょうか。弟子たちにも私たちにも、このやもめを模範として示しておられるのでしょうか。

 今日の箇所は、実は注意深く聞かなければならないと思います。主イエスは確かに貧しいやもめの献げ物を、他の誰よりも沢山入れたのだとおっしゃっています。けれどもその一方で、その他の人々の献げ物を、「額が少ない」とか「足りない」とは非難しておられないのです。その点を注意して聞くべきでしょう。
 献金ということについては、あまり礼拝の中で聞かないかもしれません。私が学生時代にお世話になった教会の牧師は、「献金は会費ではない。献金は志によってささげるものだから、周りを見て同じ額を出すというのではなくて、自分でささげる額を決める。旧約聖書の中には『収入の十分の一をささげる』と書いてあるけれど、そのように機械的に考えなくても良い。ただし、ささげるところに志があるのだから、痛みを感じる程度にささげなさい」と言われました。
 「ささげることに痛みを感じる」ということから考えると、生活の全てをささげたやもめは、最大の痛みを感じたに違いないと思われるかもしれません。仮に主イエスが、そのようにささげることを求めておられるのなら、「わたしは、とてもこのやもめのようにささげることはできない」と思う方もいらっしゃるだろうと思います。
 しかし果たして今日の箇所は、「無理やり、すべてをささげよ」ということを教えているのでしょうか。「この貧しいやもめは誰よりも痛みを感じている。それが偉いのだ」と主イエスはおっしゃるのでしょうか。
 そもそも主イエスは、誰かを痛めつけるために、この世においでになったのでしょうか。私たちを背後から見守り、応援しようとしてくださる主イエスは、私たちの至らないところを見つけて、「お前の献身はまだ足りない」と言って私たちを責めるために、背後から御覧になっているのでしょうか。
 今日の箇所について、日頃私たちが受け取っている受け取り方は、もしかすると、主イエスが弟子たちを招いて教えようとなさった事柄とまるで違っていて、すっかり思い違いをしているかも知れません。

 この箇所を読みながら、私たちが、主イエスの教えを思い違えてしまう第一の理由は何でしょうか。それはおそらく、私たちが、「献げ物をする際には、痛まなくてはならない」と思っていることでしょう。
 もし仮に、今日の記事に登場するやもめが「誰よりも痛みを感じたから、偉いのだ」と言われているとすると、このやもめは献げ物をささげるに当たって痛みを感じていたことになります。けれどもよく考えてみますと、もし痛みをもってささげているのであれば、とても「2枚のレプトン銅貨」をささげることはできなかったのではないでしょうか。この金額は、周囲から見れば僅かな額かも知れませんが、この人にとっては、大切な最後に残されている財産です。痛みを憶えるということであれば、2枚のうち1枚のレプトン銅貨をささげることでも、充分に痛かったに違いありません。そういう意味で、もしこの人が痛みを感じたのであれば、とても2枚ともささげることはできなかったに違いないのです。
 主イエスがこのやもめを、弟子たちを集めて紹介しておられるのは、彼女が誰よりも痛みを感じていたからではなく、逆に、「一切をささげているのに、痛むよりも感謝し、喜んでいたから」ではないでしょうか。

 わたしの前任の牧師がこの箇所を説教された時には、「この人が貧しいやもめであることに注意するように」と勧めておられました。この人は貧しいのですから、お金を頼りとすることはできません。またやもめは即ち未亡人で、当時、いわゆる人権は男性にしかなく、女性や子どもたちは所有物という扱いでしたから、やもめは一人前の人間として見てもらえませんでした。ですから未亡人になった人は、実家に戻って親に庇護してもらうか、あるいは新しい夫に嫁いで養ってもらうというのが普通の姿でした。ところがこの女性は何らかの事情で実家にも戻らず、新しい夫の許に身を寄せることもせず、まさしく、やもめの身の上で生活を送っていて、そういう意味で、人に頼ることを期待できない境遇にありました。お金に頼れない、人にも頼れないなら、普通は「自分は何と寂しい身の上なのか。寄る辺ない者として生きるしかない」と、途方に暮れて絶望する他ないのです。
 「ところがこの人は、『自分は本当に小さい貧しい者に過ぎないけれど、それでも神さまに顧みられ、神さまの保護と慈しみの下に生きて良い』と知らされて、心から喜び、持てる財産をすべてささげて神に感謝しているのだ」と、前任者は語っておられました。
 主イエスが御覧になったのは、まさしく、そのような一人の女性の姿でした。おそらく主イエスは、驚きを持ってこの女性を御覧になったのではないかと思います。献げ物の金額の大きさとか、生活に占める割合の高さということではなく、この女性が、頼るものの何もない生活の中から、なお、「神に信頼を寄せ、感謝し喜んでささげている」、その姿を弟子たちに示そうとなさったのではないでしょうか。

 今日の記事は、実はマルコによる福音書の全体の中で、大きな区切りの、結びとなっている箇所に当たります。ここは12章の最後ですが、次の13章では、主イエスが終わりの事柄について預言をなさり、そして14章から16章では、いよいよ十字架の御業と復活の出来事が起こるのです。そう考えますと、12章は、1章からずっと続いてきた、「主イエスが弟たちを招き、弟子たちと群衆たちを教えながらエルサレムまで共に歩んで来られた」長い道のりの結びに当たっている箇所なのです。
 主イエスが出会った人々に何を教えておられたかということは、1章15節で「『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と記されていました。これは、主イエスが人々に教えられた根本の事柄です。
 「時がまさに今やって来ている」、それが「時は満ちた」ということですが、主イエスがやって来て出会ってくださる、そのことで私たちは、「完全に神さまの御支配のもとに生きておられるお方にお会いする」ことになるのです。私たち自身は、いつも神を信頼して生きているかどうか分からないのですが、主イエスは完全に神の御支配のもとに生きておられ、主イエスを通して神の国が私たちの前に示されているのです。そして主イエスは、「あなたは悔い改めて、福音の良い知らせを信じなさい」と言われます。
 ここで「悔い改めて」というのは、反省しなさいという意味ではありません。「神さまの慈しみをあなたの土台として生きるようになりなさい。神さまがいつも共にいて顧みて下さり、守り導いて下さる。あなたの人生の裏打ちとなってくださり、あなたの人生を支える方となってくださるのだから、そのように生きなさい」と主イエスは教え、招かれました。

 そして今日の箇所で、主イエスは一人の女性を御覧になり、強い印象を憶えられるのです。「この女性は貧しいやもめであり、お金にも人にも頼れない。人間的に言えば希望をどこにも見出せそうにないと思えるけれど、そのような女性が、神さまの慈しみと恵みを信じて、神さまの御支配の下に自分が置かれていることを知って、心から喜び、自分の持ち物をすべてささげている」。これは神への信仰に生きる人の人生に起こる一つの奇跡であって、その姿を主イエスは弟子たちにお見せになっているのです。
 もちろん、この貧しいやもめだけではなく、他の人たちも、神の慈しみが自分の上に臨んでいることを知って感謝し、盛んに献げ物をささげています。その献げ物について、主イエスは額が不足しているとか、ささげる度合いが足りないとはおっしゃっていません。感謝してささげているのであれば、誰の献げ物も清められた真心の献げ物です。けれどもその中で、この女性は特に抜きん出て、「神さまの慈しみと保護を確信し、本当に信頼に満ち、喜んで献げ物をしている」、その様子を主イエスは御覧になり、喜んでおられるのです。
 これは一つの信仰の奇跡ですから、皆がこのようにならなければいけないというようなことではありません。しかし、主イエスが教えてくださった、「時が満ちて、神さまの恵みの御支配、神の国がやって来ている。神さまの恵みの御支配を信じて、その下で生きるようになりなさい」という招きを、もし本当のことだと信じるならば、この世にあって何も持たないようであっても、なお平安であり、感謝して喜んでいるという人間の姿があり得るのであり、今日の箇所はそのことを語っているのではないでしょうか。

 こういう聖書の記事に照らして考えますと、私たちが献げ物をささげる際の姿は、もしかすると、物惜しみしているかなと思わされるかもしれません。例えば、私たちは献金をする際に「ここにささげるものは、頂いているもののごく一部です」というようなお祈りをする場合があります。それはもちろん、本当に多くの恵みをいただいていながら、僅かなものしかささげていないという思いの表れかも知れません。けれども、私たちの献げ物をする際の思いは、そこにささげられる物の分量ではなくて、「神さまが真実に恵みの下に私たちを持ち運び、そして神に仕えて生きる志を与えてくださっている」ことへの、神への感謝と賛美に向かうことこそが望ましいと言えるでしょう。
 ささげられる物は僅かかもしれません。けれども、「こんなわたしでも、ここから神さまにお仕えして生きるという新しい思いが与えられている。こんなわたしでも生きて良い」ことを知り、そして神が、「あなたをわたしは守る。だからわたしの保護と導きの下に生きなさい」と言ってくださる、そのことを私たちが感謝してささげることが出来るのであれば、それは本当に嬉しい望ましい献げ物になるのではないでしょうか。

 私たちが「神さまに自分自身をささげる。そして、お仕えして歩んでいくことが出来る」ということは、誰もがそうなるというものではないと思います。もともと私たちは、神と関係のないところで生きて来た者ですから、神の方から私たちに出会ってくださり、「あなたはわたしのものだ。わたしの下で生きて良いのだ」とおっしゃってくださるのでなければ、私たちは、自分から神に仕えて生きることはできないはずなのです。
 私たちは、神が私たちを御存知でいてくださり、「あなたはここで生きるように」と言ってくださる中を生きる者とされています。私たちはその神に喜んで仕え、生きる者たちとされますようにと、そのように祈りをささげながら歩む者とされたいと願います。お祈りを献げましょう。

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