ただ今、旧約聖書のゼファニヤ書3章14節から17節までをご一緒にお聞きしました。
ゼファニヤはヨシヤ王の時代に預言者として活躍した人物として知られています。ヨシヤ王は、3代前のヒゼキヤ王と並んで、神を畏れつつ国を統治しようとした王として知られる人物です。ヨシヤ王とヒゼキヤ王の間にアモンとマナセという二人の王が治めた時代がありますが、この二人が治めた時代には、ユダの国中に偶像を礼拝する習慣が広まりました。
そのためにゼファニヤは、まずその偶像礼拝について、「神さまは決して黙しておられず、必ず裁きが下されるのだ」と警告をすることから預言を始めています。例えば1章12節には「そのときが来れば わたしはともし火をかざしてエルサレムを捜し 酒のおりの上に凝り固まり、心の中で『主は幸いをも、災いをもくだされない』と言っている者を罰する」とあります。上辺は神に従い神を礼拝して生活しているようでありながら、心の内では神のことを無力だと決め込んでいた人たちがいたというのです。ゼファニヤは「思い違いをしてはいけない。神さまは決して侮られるような方ではない」と言って警告しました。
しかし、このような警告の言葉が聖書から聞こえてくる時に、私たちはそれを聞いて不安になるのではないでしょうか。私たち自身は決して天使のような者ではありません。傷もシミもシワもない、無垢な真っ新な思いでひたすら神を信じ続けて生きているというような人は、恐らくどこにもいないでしょう。日々の暮らしの中で思いがけないことに出会ったり、思いを超えるようなことを経験させられると、私たちはつい不安になったり悩んだり恐れたりするような時があります。神に信頼して生活しているつもりでも、ふと信頼を忘れて悲しみと嘆きの虜になり、恐れや不安から、手近なところに助けを求めてしまったりします。そういう日常を過ごしている者にとって、ゼファニヤが語る「神さまは幸いをも災いをも下されないと思っている人を必ず探し当てる」という審判の言葉は、一層不安と恐れを掻き立てるような言葉に感じられるのではないかと思うのです。
キリスト者は天使ではありません。信仰を持つと、不安や恐れや疑いや悲しみや嘆き悩みが無くなるかといえば、そんなことはありません。キリスト者にも、日常生活の中で不安や恐れを感じ、また嘆いたり戸惑ったり悩むような時があります。ただキリスト者が他の人たちと違うのは、そういうことがありながらも、それでもなお、主イエス・キリストが自分と共にいてくださることを知らされ、神に期待したり願ったりできるようにされているという点です。それは、神が裁く一方の方ではないことを知らされているからです。
昨年の最後の祈祷会の折に、旧約聖書の詩編65編をお聞きしました。その詩編の中で、神が恐ろしい裁きをもって人間の罪を滅ぼしにかかる時にも、御自身がお選びになった人々のためには、拠り所となる山々が固く据えられ、そして、全てを飲み込もうとする大海のどよめきは神によって鎮められるのだということが語られていました。ゼファニヤは、「神を侮り神抜きでも平気で暮らせる、もはや神に信頼を置かずに過ごそうと思っている人間の在り方には、厳しい裁きが臨むに違いないけれども、そういう中にあって、この世の大波に翻弄されそうになりながらも、固い山の上に立てられ救われる者たちがいる」ということを、3章11節以下のところで語ります。今日はその箇所の言葉をお聞きしています。
2023年の初頭に、私たちは多くの不安や嘆きや恐れの中に置かれながら、この時を過ごさざるを得ないのではないかと思います。疫病や戦争や飢饉や貧困といった様々な問題が私たちを取り巻いていますけれども、このような中にあって、神が備えてくださる確かな足場のあることを、もう一度、御言葉から聞かされ確かにされたいのです。
14節に「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ」とあります。ここには「喜び叫べ。歓呼の声をあげよ。心の底から喜び踊れ」と勧められています。このように呼びかけられて、私たちは果たしてこれに両手を挙げて賛成できるでしょうか。「心の底から喜び踊れ」とゼファニヤが言うのは、不幸な時が既に過ぎ去っているからです。「たとえ神さまがあなたを裁いておられるように見えるとしても、今もう既に、その裁きは過ぎ去っている。神さまは誰もあなたに手出しができないように固く守っていてくださる」とゼファニヤは告げます。15節に「主はお前に対する裁きを退け お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」とあります。「裁きは過ぎ去り退けられた。だからもう恐れなくて良い」とゼファニヤは語りかけるのです。
けれども、このことは果たして本当なのでしょうか。実際に南ユダ王国がどのような歩みを辿ったか、その歴史の歩みに照らして考えるならば、ここに語られている預言の言葉は、この言葉自体は美しく慰めに満ちているとしても、実際には国が滅んでしまったということがあります。このような言い分というのは、あまりにも無邪気で素朴なものではないでしょうか。当時の事情は決して、裁きが過ぎ去ったと言えるようなものではありませんでした。ゼファニヤが語る言葉は、歴史的事情に照らし合わせて考えるならば、正しくはありません。ゼファニヤが「喜び叫べ。歓呼の声をあげよ。喜び踊れ」と語っているその時に、まさに東の方では古い暴君であったシリアに代わって新しい強大な国バビロニアが勃興して、着々と戦の準備を整えていました。そして実際、この時から何年か経った時にバビロニアの大軍が南ユダに攻めかかってきます。エルサレムは陥落させられ、ユダ王国の王や貴族たち、官僚たち、そして技術を持った人たちが皆、捕虜としてバビロンに連れ去られる、世界史の中で「バビロン捕囚」と言われる出来事が起こります。当時の状況はとても、喜んだり踊ったりできるようなものではありませんでした。むしろ滅びの気配が刻一刻と近づきつつあったのです。ゼファニヤが生きたのは、まさにそういう時代です。
ヨシヤ王の時代には、イザヤやミカといった預言者たちも活動しています。そして彼らの預言から聞こえてくることは、その時代が決して安穏としていられない時代であったということです。もちろんゼファニヤもイザヤやミカと同じく、そのことをよく知っていたはずです。何よりもこのゼファニヤ書は、今日聞いている3章の僅かな部分を別にすれば、この書物自体が厳しい裁きを告げる言葉で満ちています。
しかしそれならば、どうしてゼファニヤはここで喜びを告げ、歓呼の声をあげ、喜び踊るようにと勧めているのでしょうか。「現実の厳しさ、険しさを僅か一時でも忘れて楽しく過ごしましょう」とでも言っているのでしょうか。あるいは「楽しく騒いでいられるのは今のうちだけだから、今のうちに目一杯楽しんでおくように」と言っているのでしょうか。考えますと、ゼファニヤが生きていた時代というのは今からおよそ2650年前で、社会の装いとしては今日と随分違いますが、しかしまさに現在私たちが経験をしている世界の状況と、とてもよく似ているのではないでしょうか。
この教会堂の壁の外では、今は恐らく晴れやかなお正月の時が流れていると思います。世の中の人にとっては、もしかするとクリスマスもお正月も大差がないと言えるかもしれません。日頃の不安やウサを晴らして楽しい気持ちで一時を過ごす、年中行事や一大イベントとでも言ったら良いような、そういう時がクリスマスやお正月であったりします。別にそれは、大方の人にとっては何でも良いのです。何かにつけ世の人は、自分が楽しめる時を見つけて楽しい気持ちで過ごそうとします。
けれどもそれは、本当に世の中が明るく希望に満ちているからではありません。文明の繁栄は必ず、その底に無数の亀裂を宿します。繁栄すればするほど、社会の矛盾や亀裂は増えて深まっていきます。豊かさを謳歌する人と、その豊かさを与えられずに辛い思いで過ごさなければならない人たちが分裂をしていきます。極限まで発展して爛熟しきった世界は、やがて終わりを迎え過ぎ去っていくことになります。そして、そういう「時代が終わる」という不安を恐れるように、諸々の社会の装いはいよいよ華美になっていきます。もしかすると今の時代というのは、そういう一つの時代の終わりを迎えつつある時なのかもしれません。
ところでそういう時に、そういう世界の中にあって、教会は何を語るのでしょうか。
もともと旧約の預言者たちは楽観主義者ではありません。ゼファニヤにしても、あるいはイザヤやミカにしてもそうです。いたずらに喜びを宣伝して回るような人たちではありません。「この世界や人生は、いつも喜ばしいものに満ちている」などと言って、ありもしないことを触れて回るようなことはしません。
むしろ多くの場合、預言者たちが語るのは「悔い改めるように」という勧めです。旧約の預言者の言葉について、これを未来予知のようなものだと考えて興味本位で語ろうとする人たちがいますが、聖書をきちんと読んで預言者たちの言うことに耳を傾けるならば、そこに語られている言葉は、「もしあなたが本当に生きようとするならば、あなたは立ち帰らなければならない」ということです。「あなたは本来の自分自身に、そしてまた神さまに生かされ、神さまの前に置かれている者として立ち帰らなくてはならない。もし真っ当な人間でありたいのならば、いたずらに他の人たちや社会を非難するのではなくて、まず自分自身の非を認め、それを改めるところから始めなければならない」ということを預言として語ります。そういう預言者たちの警告は、本当の目的が人間を真の喜びに導こうとするのでないならば、何の意味があるでしょうか。ただ単に、時代や社会の抱える矛盾や亀裂に対して、あれもこれも駄目だと言って溜飲を下げるということだけであれば、それは何の役にも立ちません。そのようなことが預言者の目的ではありません。
預言者たちはむしろ、今、自分たちが生きている時代の矛盾や亀裂が癒され、乗り越えられて行くことを願いました。別に言えば、今ある苦しみが喜びに変えられ、今ある悲しみが慰めによって新しい力に変えられて行くということを願いました。厳しい裁きを告げているゼファニヤ書の言葉の中に、今日聞いているような思いがけない言葉が見出されるのも、今申し上げていることと無関係ではありません。預言者ゼファニヤは、今現に存在しているこの世の罪、また人間の罪を鋭く指摘しても、しかし最終的には、それに対する神の救いが備えられているということを、なお信じています。「この世界がすっかり破れていて次々と色々な勢力が攻防を繰り返す、その果てに、神の正しい正義があり、そして導きがある」ことを信じています。「神さまが救いを必ず備えてくださっている。あなたたちは、その救いの喜びを先取りするような形で喜びなさい。歓呼の声をあげなさい。喜び踊りなさい」と勧めているのです。
しかし、そういう真の喜び、真の救いというのは、一体どのようにしてもたらされるのでしょうか。ゼファニヤがここで語っている言葉をもう少し聞いてみたいと思います。16節17節に「その日、人々はエルサレムに向かって言う。『シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる』」とあります。先に語られていた喜びへの招きは、「喜び叫べ。歓呼の声をあげよ。喜び踊れ。お前はもはや災いを恐れなくてよい」という、非常に自信に満ちた言葉でした。しかし16節17節は、それに比べると少し調子が抑えられています。ゼファニヤは努めて冷静になって、ここで事情を説明しようとしています。ここに語られている言葉は、今から先の事柄について語られているのです。神が与えようとしてくださる将来が語られます。そして、その最初に語られる言葉は、「恐れるな」という言葉なのです。「シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れるな」と呼びかけられます。
「恐れるな」という言葉は、クリスマスの記事の中でも何度も繰り返して私たち人間に呼びかけられていた言葉でした。「あなたのために救い主がお生まれになったのだから、あなたは恐れるな。恐れなくてよい。尻込みしてはならない。たじろがないで、あなたの進むべき道を進んで行きなさい」と、ここに言われます。しかしなぜそう言われるのでしょうか。まさにクリスマスの出来事がここに語られるのです。「お前の主なる神は、お前のただ中におられる」。神が私たちの間に救い主を与えてくださり、配慮を持って粘り強く戦う「戦さ人」として、私たちのただ中を共に歩んでくださり、そして勝利を与えられると言うのです。これは、よりはっきり言えば、「主イエス・キリストが、あなたがたのただ中にいてくださる」ということです。「あなたが今ここに生き、あなたが今日ここで生活しているのは、主イエス・キリストがあなたの中にいてくださるからだ」と言っています。
そして、私たちのただ中におられる主について、実は最初に勧められていたのと同じことが最後の17節のところで語られています。「主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」。「あなたのただ中にいる主は、喜び楽しまれる。あなたゆえに神さまが喜び歌われる」と言われています。ここで特に聞き逃してならないのは、「お前のゆえに」ということです。「お前のゆえに」喜び楽しみ、「お前のゆえに」喜びの歌をもって楽しまれる。そしてその間に、「神が愛によってお前を新たになさる」と言われています。神が御自身の愛によって私たちを新しいものへと造り変えてくださるのです。
新年を迎えた今、私たちは自分で希望や喜びを見出し、自分で自分を奮い立たせ、前に進んで行くのではありません。年中行事の中で憂さ晴らしを時々に見つけながら、自分の力で何とか自分を励ましながら行くというのではありません。一人一人に命を与え、私たちのただ中にやって来てくださり、私たちを愛してくださっている方が、私たちを新たにしてくださるのです。私たちが与えられている命を、新しいものとしてもう一度与えられ、そして神によって持ち運ばれているこの道をそれぞれに進んでいくことを応援してくださる、その神が御自身の愛を注いで私たちを新しくしてくださいます。
ここに語られている言葉は、「どうぞ気持ちを楽にして、悲しまないで楽しい思いで過ごしましょう」というような中身のない口先だけの慰めではありません。過ぎた日々に、私たちがどれほど辛く大変な道を辿り、疲れ果て、また深い傷を負ったとしても、そのような私たちを御存知である神が、深い配慮をもって、この時、私たちを背負っていてくださいます。
私たちのただ中に主イエス・キリストがやって来てくださり、「あなたと共に、この年を生きよう」とおっしゃってくださいます。
「あなたと一緒に、この道を、この人生をわたしが生きてあげよう。あなたを常に御言葉をもって支え、持ち運び、支えよう。あなたが生きることをわたしは喜ぶ。あなたと共に喜びを歌いながら、この道を進むのだ」とおっしゃってくださる方が、この年の初めに、私たち一人一人を受け止め、愛によって新たにし、歩ませてくださいます。この方の愛が本気の愛であり、私たちを愛し支えるために御自身としては独り子を失う悲しみさえ厭われなかったのだということを、私たちは知らされています。
この方に伴われ、この方が愛によって私たちを新しくしてくださる、そのような中で、この一巡りの新しい時を与えられたいと願います。お祈りを捧げましょう。 |