聖書のみことば
2022年7月
  7月3日 7月10日 7月17日 7月24日 7月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月24日主日礼拝音声

 信じる者には
2022年7月第4主日礼拝 7月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第9章14〜29節

9章<14節>一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。<15節>群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。<16節>イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、<17節>群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。<18節>霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」<19節>イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」<20節>人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。<21節>イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。<22節>霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」<23節>イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」<24節>その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」<25節>イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」<26節>すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。<27節>しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。<28節>イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。<29節>イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 ただいまマルコによる福音書9章14節から29節までをご一緒にお聞きしました。14節に「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」とあります。
 今日の箇所の直前の記事には、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れた主イエスが高い山に登られ、その場所でモーセとエリヤという旧約聖書を代表する人たちと語り合っておられるうちに、喜びに顔が輝き着ている服までもが真っ白になったという不思議なことが語られていました。モーセとエリヤと語らいながら、主イエスは、「この山から下りた後、エルサレムへ向かって歩み、そこで十字架にかけられ苦しみ死ぬけれど、しかし三日目に復活するのだ」という御自身の御業についての確信を与えられ、そして山を下りて行かれます。すると山の麓では大混乱が起こっていました。それが今日の記事です。山の上での主イエスの喜びに満ちた輝きと、麓の弟子たちの混乱した闇の場面が対比されるように語られています。
 バチカン美術館に収蔵されているラファエロが描いた「キリストの変容」というタイトルの絵には、この対照が劇的に描かれています。縦長の絵の画面上部には、明るい光を放つキリストが、やはり白い衣を纏ったモーセとエリヤを従えて宙に浮かび、手を広げて祝福する仕草をしておられます。そのキリストの足元の山の上では、明るい輝きに圧倒されてひれ伏している3人の弟子たちが、さらに画面下部では、暗い背景の中に子供を癒せず責め立てられ途方に暮れている弟子たちの姿が描かれています。絵画にしてしまうとそのように、画面上部の明るい輝きと画面下部の暗さが対照的に描き分けられています。
 けれども実際の主イエス・キリストは、ラファエロの絵のようにいつまでも山の上に留まり続けておられるのではありません。山を下り、麓の混乱した状況の中に歩み入って行かれます。それどころか主イエスは、その山の麓にすら留まらず、エルサレムを目指して進んで行かれ、そして十字架に架かってくださいます。

 さて、主イエスが山を下って来られた時、麓では弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれ、責め立てられていました。一人の子供を癒すことができなかったためです。そこに主イエスが現れます。15節に「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した」とあります。「驚き、駆け寄って来た」と言われる人たちは、一体何に驚いたのでしょうか。この驚きにはいろいろな可能性が考えられると思います。ある説教者は、「この群衆の驚きは、主イエスの権威ある様子に接して畏敬の念を禁じ得ず、驚きながらも必死に駆け寄って挨拶申し上げたのだ」と説明しています。そのように解釈する可能性もあるだろうと思います。「山上の説教」などを読んでいますと、その最後に「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」という言葉がありますから、主イエスと接した人であれば、主イエスの権威ある様子に触れて「非常に驚く」ということはあったかもしれません。
 けれども、あるいは、「『主イエスは姿をくらました』と思い込んでいた群衆の目の前に、突然、主イエスが姿を現したので、驚いた」と受け取ることができるのではないでしょうか。群衆は、弟子たちが子供を癒すことができなかったことから、その先生である主イエスも癒すことができないために、どこかに姿をくらまし雲隠れしていると思っていました。ところがそこに、主イエスが悪びれもせず現れたので、人々は大変驚いたのです。

 驚き、駆け寄ってきた人々に、主イエスはお尋ねになりました。16節から18節に「イエスが、『何を議論しているのか』とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。『先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした』」とあります。主イエスに答えた人物は、霊に取りつかれた息子の父親ですが、その口ぶりからしますと、我が子の病を癒していただきたいと弟子たちに頼んだ時に、弟子たちはどうも簡単に癒しができると思って安請け合いをしたようです。けれども実際には、子供に巣食っている悪霊の方が弟子たちよりも力が強く、弟子たちはこの霊を追い出すことができませんでした。

 人々が揉めている状況を理解した主イエスは、深く嘆かれます。19節に「イエスはお答えになった。『なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい』」とあります。この主イエスが嘆いておられる言葉に注目したいのです。主イエスは一体何を、また誰のことを嘆いておられるのでしょうか。
 何を嘆いておられるのかは、「なんと信仰のない時代なのか」という言葉から、人々の間に信仰がないことを嘆いておられるのです。けれども問題は、誰の信仰がないのかということです。子供の父親でしょうか。それとも弟子たちを取り巻き非難している人々でしょうか。それとも、弟子たちを含めてすべての人間の信仰のなさを嘆いておられるのでしょうか。
 主イエスの言葉を少し丁寧に聞きますと、「なんと信仰のない時代なのか」の、「時代」と訳されている言葉は、「今この時を共にしている世代全体」を指している言葉です。ですから「なんと信仰のない時代なのか」と訳されていますが、「なんと信仰のない世代なのだろう」と訳することもできます。「一つの時代、一つの世代」というのであれば、それは律法学者もユダヤ人も弟子たちも、それぞれ立場は違っていても皆同じ時代を生きている一つの世代に属する人々です。主イエスは、父親や弟子たちを非難している人たちだけではなく、弟子たちを含めて、この時代の人たち全体の中に信仰が見られないと言って嘆かれたのでした。
 そして、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」と続けて言われます。主イエスは気にしておられます。まもなく御自身は十字架に架かられるのです。その時には「今まで親しく接した弟子たちを支えることはできなくなる。それなのに、他の人たちはともかく、弟子たちの間にすら信仰が見られない」と言って嘆いておられるのです。ですから、本当に深く嘆いているのは、「弟子たちに信仰がない」ということです。

 けれども、この日主イエスが見て取った弟子たちの不信仰とは、何だろうかと思います。弟子たちは主イエスを、「あなたはメシア、救い主」と言い表したのではなかったでしょうか。弟子たち自身は、「主イエスをメシアだと信じている」と思っていただろうと思います。主イエスは、そのような弟子たちのどこを御覧になって「信仰がない」とおっしゃっているのでしょうか。この場面で起こっていることをもう一度よく考えてみたいのです。

 弟子たちは、群衆に取り囲まれ責められています。それは一人の子供を癒せなかったからです。けれども弟子たちは、この子供や父親に悪意を抱いて、わざと癒そうとしなかったのかというと、もちろんそんなはずはないのです。弟子たちは、子供が病んで発作を起こすことで、父親が深く悩んでいる苦しみに寄り添い、手助けをしたい、癒してあげようと思っていたに違いありません。そう考えると、弟子たちは善意で行動していることになります。良かれと思ってのことでしたが、しかし、子供を癒すことはできませんでした。
 どうしてできなかったのでしょうか。28節には「イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、『なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか』と尋ねた」とあります。「なぜ、追い出せなかったか」と尋ねていますから、弟子たちは、「当然この霊を追い出すことができる」と思っていたことになります。それなのに癒せなかったということは、弟子たちにとっても意外なことが起こったのです。

 そう思いながらこの記事を読みますと、「どうして弟子たちは、自分たちの力で悪霊を追い出せると思い込んでしまったか」と不思議に思います。
 普通私たちは、何かとても困難な状況にある人に向かって、自分がその人の状況を劇的に改善したり悪霊を追い出すことができるなどとは思わないだろうと思います。それなのに、どうして弟子たちはできると思ったのでしょうか。そこには理由があるのです。
 それは、以前12人弟子たちが主イエスから遣わされ出かけて行った時に、汚れた霊に対する権能を授けられて、実際に多くの悪霊を追い出すことができたという成功体験があったからです。マルコによる福音書6章7節と13節にそのことが語られています。7節「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け」、13節「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とあります。弟子たちは過去に、主イエスの御命令により悪霊を追い出す権能を授けられ、実際に悪霊を追い出すことに成功したことがあったのです。その経験があったので、今回も以前と同じようにすれば悪霊を追い出せるだろうと簡単に考えました。
 けれども、以前と今回では状況が違いました。以前は主イエスの御命令があり、主イエスは御自身の業の延長として御自身の権威を与えておられました。それで弟子たちは、主イエスの御命令があり御言葉があったので、それに従って悪霊を追い出し癒すことができたのでした。
 しかし今回はどうでしょうか。今回は主イエスの御命令があるわけではないのです。主イエスは山の上におられて留守でしたから、弟子たちは自分たちだけでこれができると思いました。あくまでも弟子たちは、辛い思いをしている親子に同情して、癒しの力を及ぼしてあげようとしたのです。
 ところが主イエスを離れて、主イエスを抜きにして、自分たちの都合や思いによって癒しの真似事をしようとしても、上手くいきませんでした。主イエスから離れていても癒せると思っている弟子たちは思い違いをしているのですが、主イエスはそういう弟子たちを御覧になって「なんと不信仰な時代なのだ」と嘆いておられるのです。
 しかし主イエスは、ただ嘆かれるだけではありません。主イエスはその後、進んでこの親子に関わってくださいます。悪霊は、主イエスの姿を見た途端に子供を激しく引きつけさせたと20節に語られています。悪霊は人間よりもはるかに敏感に、神の子である主イエス・キリストに反応するのです。町の中で最も速く私服刑事の存在に気がつくのは犯罪者だという諺があるそうですが、悪霊も、神の独り子が近づいてくるとすぐそれに反応します。そして子供を引きつけさせ、人質に取って、「それ以上近づくとこの子を死なせてしまうぞ」と威嚇するのです。

 主イエスはしかし、そういう脅しには屈しません。そして父親にお尋ねになりました。21節「イエスは父親に、『このようになったのは、いつごろからか』とお尋ねになった。父親は言った。『幼い時からです』」。主イエスの問いかけは、まるで医師が問診をしているようで「あまり主イエスらしくない」と考える人がいます。どうしてそう思うのかというと、主イエスは人間の心を御覧になることができるからです。主イエスは尋ねなくても最初から分かっているはずなのに、どうしてここでお尋ねになるのでしょうか。
 ここで主イエスが父親に尋ねていることは、子供の病気や悪霊についての情報が欲しかったからではありません。そうではなくて、長い間息子の病に苦しみ悩んできた父親の心の内を語らせてあげるために、主イエスはお尋ねになっているのです。
 実際ここで父親は、主イエスの問いかけに導かれるように、心の中に鬱積していた事柄が口から出てきて、尋ねられていない事柄まで語ります。22節「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」。子供がどんなに危ない目に遭ってきたか、そしてその度に父親がどんなに不安な思いを感じていたか、父親は心の思いを語っています。
 そして最後に「どうかお助けください」と願うのですが、この時点で父親は、最も気になっていたことを口にしてしまいました。「おできになるなら」という言葉です。
 この父親にしてみれば、そういう言葉を口に出してしまうのはやむを得ないことです。息子の発作は幼い頃からずっと続いていて、病は慢性化しているのですから、そのような病気が簡単に治るはずがないと思っています。しかもそれに加えて、つい先ほどは主イエスの弟子たちが「悪霊を追い出してあげよう」と言いながら、追い出せなかったという辛い出来事も経験しています。「我が子を癒していただけるなら癒していただきたいけれど、無理ではないだろうか」、そういう絶望が父親を捕らえていました。

 しかし実はまさに、主イエスはこの言葉を待っておられました。この父親がどんなに深い絶望に捕らえられているかということを語らせようとして、主イエスはお尋ねになったのでした。
 主イエスは父親が語った言葉を捕え、おおむ返しにおっしゃいます。23節「イエスは言われた。『「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる』」。父親が息子を連れて主イエスを訪ねて来たということは、主イエスになら我が子を癒してもらえるかもしれないという希望があったことを表しています。しかしそういう希望を持っていても、病気の期間が長いことや弟子たちが癒しに失敗したことを受けて、父親の希望は萎みかけていました。
 主イエスは、そのように今にも失われそうになっている父親の信仰を呼び覚ますために、挑発的なことをおっしゃったのです。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。父親はその言葉を聞いて、はっと我に返ります。信仰の無さを指摘され、それに気づきながら、しかしもう一度主イエスに信頼しようとする姿勢を与えられるのです。24節「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」。このようにして、子供は癒されていきました。

 よく言われることですが、ここで主イエスは子供に巣食っている悪霊を追い出しただけではなく、父親も主を信じる者として見出してくださり救いの中に入れてくださっています。この父親の信仰というのは、自分から身につけようと努力をして得たものではありません。自分自身はむしろ、主イエスの前にまで行っていながら、主に信頼して希望を持ち続ける代わりに、息子の病は治らないに違いないという絶望の中に今にも沈みそうになっていたのです。
 しかし主イエスの語りかけがこの父親を絶望の中から引き上げます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」、「あなたは疑って諦めてしまいそうになりかかっているけれど、別の道もある。あなたはもう一度ここで主、わたしに信頼して生きる、そういう道もある」。父親は主イエスの呼びかけに、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と応え、そして主イエスの御言葉によって、子供の癒しも行われていくのです。
 25節「イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。『ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな』」。子供の中に巣食っている悪霊に向かって主イエスが、「わたしの命令だ」と言われます。これは弟子たちと対照しています。悪霊は、弟子たちの命令によっては出て行きませんでした。それは、主イエスの命令ではなかったためです。弟子たちが人間の都合で、人間の良かれと思う気持ちで悪霊を追い出そうとしても、追い出せませんでした。けれども主イエスが、「わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」と、悪霊に「出て行け」と「入るな」と二重に命令され、そして子供は癒されていきました。

 今日の記事は、信仰生活の中で主イエスの御言葉というものがどんなに頼もしく力強いかということを教えてくれているのではないでしょうか。私たちは、主イエスを信じていると思っています。そして、主イエスを信じ、主イエスの名を通して祈りを捧げます。
 しかし本当に私たちが力を与えられるのは、主イエス・キリストが私たちに語りかけてくださる御言葉があるということです。「あなたはわたしのものだ。わたしのものとして生きて良いのだ」と主イエスが御言葉を語りかけてくださる、その時に私たちは、「本当にあなたこそがメシア、救い主です」という信仰告白へと導かれます。

 弟子たちは、「信仰がない」と主イエスに嘆かれましたけれども、その弟子たちも、なお主イエスの御言葉を聞き続ける生活の中で、「あなたはメシア、救い主です」との信仰告白へと、主の弟子となって歩んでいく生活へと導き入れられて行きました。
 私たちもまた、主の御言葉によって信仰を生き返らされ、慰めと力と勇気を与えられ、主の弟子とされ、持ち運ばれていくのです。

 私たちは、主イエス・キリストの御言葉を繰り返し聞かされ、慰めと勇気を与えられて、この地上の生活を歩んでいきます。私たちがこの世を去る時にも、主イエス・キリストがその場に共にいてくださって、「あなたはわたしのものだ」とおっしゃってくださる中で、終わりへの道を歩むことを思います。
 御言葉から力をいただく幸いな歩みを続けていく者とされたいと願います。

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