ただいま、マルコによる福音書9章2節から13節までをご一緒にお聞きしました。2節に「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり」とあります。主イエスが高い山に登られ、その姿が変わったことから、今日の記事は「山上の変貌、山上の変容」と言われます。これは主イエスがなさった奇跡、不思議な業の一つなのでしょうか。
今日の箇所では、注目させられることがあります。それは、「姿が変わる」ということについて、主イエス御自身からは何もしておられないということです。「ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて行った」ということと、「高い山に登られた」という二つについては、使われている動詞は能動形ですので、確かに行動しておられます。ところが肝心の「姿が変わった」と訳される動詞は受動形で書かれており、そう意識して訳すならば、「イエスの姿が彼らの目の前で変えられた」ということになります。主イエスが御自身で姿を変えたのではなく「変えられた」のですから、これは父なる神がなさったことで、つかの間主イエスの本来のお姿が3人の弟子だけに示された、そういう啓示の出来事であると言ってよさそうです。
しかし啓示だと言われても、それでこの記事の内容がよく分かったり、不思議でなくなくなるわけではないと思います。この日起こったことは、一体どういうことなのでしょうか。
まず、主イエスは3人の弟子だけを連れて高い山に登っておられますが、その理由は何も記されていません。そして2節後半から4節に「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」とあります。
この同じ記事がルカによる福音書9章28節では、この時主イエスは「祈りを捧げるために山に登られた」、そして29節には「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記されています。それからその場にモーセとエリヤが現れるのですが、30節には「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあり、ルカによる福音書では、これから起こる主イエスの十字架の出来事について話し合っていたと、いくらか立ち入ったことが書かれています。あるいは、このルカによる福音書に記されている通りだったのかもしれません。
けれども、今日読んでいるマルコによる福音書に注目するならば、ここに語られていることは、「山の上で主イエスの姿が変えられた」ということ、そして「モーセとエリヤが現れて主イエスと語り合っていた」という二つのことです。
ところで、ここに現れる二人の人物のうち、「モーセ」は、エジプトで奴隷暮らしをしていたイスラエルの人たちを導き出し、シナイ山で神から与えられた「十戒」を中心とした律法をイスラエルの人たちに示した人物として知られています。もう一人の「エリヤ」は、旧約聖書に登場する多くの預言者のうちの一番最初の人物で、「預言者の中の預言者」と呼ばれ、預言者を代表する人物です。そういう二人と、主イエスは語り合っていたと言われています。
当時はまだ新約聖書はありませんから、今日私たちが旧約聖書と呼ぶものは、単純に「聖書」あるいは「律法と預言者」と呼ばれました。主イエスがモーセやエリヤと語り合っておられたということは、言うなれば「律法と預言者と語り合っておられた」、つまり「旧約聖書の御言葉と対話しておられた」ということなのです。主イエスは「神さまの御心は一体どこにあるのだろうか」ということを旧約聖書の御言葉の内に求めながら、御自身が救い主としてこれからどのように歩んでいくことになるのか、その働きがどうなっていくのかを祈りのうちに思い巡らしておられました。そしてその時に、主イエスの顔は喜びに輝いて、弟子たちからするとそれまで見たこともないほど異常な輝きの姿になったということが語られているのです。
ルカによる福音書が記しているように、主イエスがこれからエルサレムで遂げようとしている最期について思い巡らしていたのだとすれば、私たちであれば、「今から厳しい十字架が待っている。そこで敵による嘲りや辱めもたくさん受けなければならない」と、悲壮な面持ちにならざるを得ないと考えるでしょう。ところが主イエスはそうではありませんでした。たとえどれほどの苦しみを耐え忍ばなくてはならないとしても、そのことによって、「主を信じる者たちには、やがて地上から御許へと召されていく時にもなお、希望と慰めが生まれる」ことを信じて、喜んでおられたのです。主イエスの御顔に見られた輝きとは、真に喜んでおられた輝きです。どこまでも父なる神の御心に忠実に歩んで、「是非この御業を果たしていこう」とする、そういう神の御子としての喜びの輝きでした。
そのように深く喜びながら聖書の御言葉と対話しておられる主イエスの御姿を、ペトロとヤコブとヨハネの3人の弟子は目の当たりにしました。この時の主イエスの喜びは、御自身の顔が輝くだけにとどまらず、「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と言われています。
「白い服を着た人」は、マルコによる福音書では「天に由来する存在」という意味を持っていますから、「服が白く輝いている」というのは、「主イエスの本来のお姿が天の輝きに包まれている」ということを表しています。この先にも、主イエスの御復活によってもぬけの空になっている墓に出向いた3人の婦人の弟子たちが、白い服を着た若者から主イエスの復活を知らされるという場面が出てきますが、その若者も天に由来する存在であり、神からの使者であることを表しています。このように、主イエスが御自身本来の天におられる時の姿をお取りになるほどに喜んでおられるお姿を、3人の弟子たちは目の当たりにしたのでした。
ところで3人の弟子たちは、主イエスが深く喜んでおられることは分かったのですが、しかしなぜそれほど喜んでおられるのかということまでは分かりませんでした。3人の弟子たちにはまだ、主イエスが救い主として果たして行かれる使命も、またそこに向かって行こうとする主イエスのお気持ちも分からないのです。
つい先日、主イエスが「わたしは祭司長や律法学者たち、長老たちから排斥をされて殺されるが、3日目に復活することになっている」と弟子たちに教えられた時、弟子たちは「決してそんなことがあってはならない」と考えました。弟子たちの思いは、その時の心持ちとさほど違っていないのです。ですから、主イエスがエリヤやモーセと語り合いながら御自身が救い主としての使命を果たしていくことを確認して喜んでいる姿を目にしても、その喜びの理由が分かりませんでした。
分からないためにペトロは、ここでとんちんかんなことを言い出します。5節に「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです』」とあります。ペトロもヤコブもヨハネも、今自分たちが目にしている出来事が何であるかを理解しません。ペトロたちは今いる山の上に、仮小屋、つまり祠のようなもの建てることを思いついています。それは、この場所に来てその仮小屋に詣でれば、いつでもこの日のことを思い出せると思ったからです。ペトロたちは、今ここで主イエスがモーセとエリヤと語り合ったということが偉大なことだと思っているのです。
弟子たちは、主イエスの思いが将来に向かっていることを理解しません。主イエスは今からエルサレムの十字架に向かって進んで行こうとしておられますが、この日、御自身の働きが真に神に用いられる働きであることを確認させられ、大いに喜び、御言葉から力を受けながら御自身が果たすべき十字架の御業に向かって行こうとしておられるのです。
ですから、主イエスはいつまでもこの場所に留まってはおられません。後から誰かがこの場所に来ても、そこで主イエスに出会えるわけではないのでないのです。そもそも3人のために祠を作るということは、ペトロたちが主イエスを、モーセやエリヤという人間と同列に置いていることになるでしょう。主イエスはもちろん、エリヤやモーセと同列の方ではありません。救い主として、メシアとして、御自身の御業を果たそうと進んで行かれるお方です。そして、「主の十字架と復活の御業を信じ、その主に伴っていただきたいと願う人たちといつも一緒に歩んでくださる」のです。ですから仮小屋とか祠に詣でることではなく、私たちに必要なのは、「甦りの主イエスがいつもわたしと一緒にいてくださる」という信仰です。主イエス・キリストはいつも私たちと一緒に歩んでくださるのです。
ペトロたちが見当違いなことを言っていると、そこに「雲が現れた」と7節に言われています。「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』」とあります。
以前、出エジプトの出来事が起こったとき、神が「雲の柱」のうちにあってイスラエルの民に伴ってくださるということがありました。「雲の柱」というのは、神のお姿をイスラエルの民に見せないように隠す役割を果たしていました。神が隠したいと思われたのではなく、神を見ると人間は死んでしまうからです。神の清らかさの前に、人間は立ち続けることができません。神はイスラエルの人たちを保護するために、雲の内に現れてくださったのです。
今日の箇所に現れた雲も、はるか昔のその「雲の柱」と繋がるような雲で、神の姿を人間から隠します。けれども、その雲は同時に、「肉眼には見えなくても神御自身がいつも共にいてくださる」ことを知らせ、「信じる人を勇気づけ励ましてくださる」、そういう雲です。そういう雲が現れ、3人の弟子たちの前で主イエスとモーセとエリヤを覆い包みました。
そして、雲の外にいた3人の弟子たちは、雲の中からの声を耳にしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」という言葉です。雲の中には神御自身がおられ、そこから聞こえてきたのは神御自身の宣言する御言葉です。この声を聞いているのはペトロとヤコブとヨハネですから、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と呼びかけられているのは3人の弟子です。3人の弟子に向かって神が、「主イエスは何者であるか」を宣言しておられるのです。つまりこの日、弟子たちは、「主イエスは、神が愛しておられる独り子である」と、神御自身から聞かされました。
私たちも日頃、主イエスのことを「神の御子、独り子」と言ったり思ったりします。実は聖書の中で、主イエス御自身が「わたしは神の独り子である」と名乗っておられる箇所はないのです。それなのに私たちが「主イエスは神の独り子」と思うのは、今日の箇所のように、神がそうおっしゃっておられるからです。
思い返しますと、マルコによる福音書の中で、主イエスが神の独り子と宣言されるのは今日の箇所が初めてではありません。1章10節11節に「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。この主イエスの洗礼の場面では、神が主イエスに向かって、「あなたはわたしの愛する子なのだ」と宣言しておられます。この時、主イエスはヨハネから洗礼を受けましたから、当然ヨハネもこの場所にいたに違いないのです。しかし大変不思議ですけれども、同じ場所にいたのに、この御言葉は主イエスお一人だけに語りかけられ、聞かれています。
そしてここには、雲は現れません。神と主イエス・キリストお二人だけの交わりですから、清らかな主イエスの前では、神は身を隠す必要はないのです。天の底が開かれ、神が直接主イエスに向かって「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に敵う者なのだ」と宣言をなさっています。
けれども、そのような聖書の言葉を聞きますと、少し腑に落ちないと思う方がいらっしゃるかもしれません。主イエスは一体いつから神の独り子だったのでしょうか。洗礼に際して「あなたはわたしの愛する子」と、どうして聞かされなければならなかったのでしょうか。生まれた時はただの人間で、まだ神の独り子ではなかったのでしょうか。そうではありません。主イエスは地上にお生まれになった時、既に神の独り子でした。しかしそれは、生まれた時からということではなく、それ以前からです。考えれば分かりますが、父と子の間柄は、どちらか一方だけが存在するのではなくて、必ず両方が一緒に存在するのです。父がいない子供はなく、同時に子供がいないのに父であることも有り得ません。
ですから父なる神と主イエスとの関係も、天地創造の永遠の昔から「父と子」であり、神は元々御自身の中に人格的な交わりを持っておられるのです。
しかし永遠の昔から主イエスが神の独り子であるのならば、どうして洗礼の画面で殊更に「あなたはわたしの愛する子」と呼びかけられなくてはならなかったのでしょうか。それは、人間の父と子の間柄を考えれば何となく分かるような気がします。子供がそこにいるということは、間違いなく父がいるのです。しかし赤ん坊で生まれてきた子供は、最初から父親をよく知っているわけではありません。場合によっては、自分の父が誰かを知らないで育っていくことも有り得ます。まして主イエスの真の天の父は、この地上のどの父よりも遠い場所におられます。従って主イエスは、洗礼の時に神から「あなたがわたしの愛する独り子なのだ」ということを伝えられなくてはなりませんでした。洗礼の時から主イエスは、「わたしは神に愛されている、神の独り子である」ということをはっきり意識する形で、その生涯を歩み始められました。
しかし弟子たちは、そのことを初めから理解できたわけではありません。それどころか今日の場面でさえ、3人の弟子たちも他の弟子たちも、「主イエスは神の独り子だ」と言っていないのです。フィリポ・カイサリア地方で、主イエスが弟子たちに向かって「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」とお尋ねになった時に、弟子たちは「あなたはメシアです」と答えました。弟子たちは、「主イエスはメシア、救い主である。他の人間と同列に置かれる方ではない」と薄々気づき始めているのですが、しかしまだ「神の独り子である」とは言い表していないのです。
ですから今日の時点の弟子たちは、少し前に聞いた譬えで言いますと、主イエスと出会って視力を回復し始めた人が、「何が見えるか」と聞かれて「人間が見えます。木のようだけれど歩いているのが分かります」と答えていたのによく似ています。主イエスがさらにその人に近づいて癒しを与えてくださると、よく見えるようになったと話は続いていきます。同じように、主イエスに尋ねられ「あなたはメシアです」と返事をした弟子たちに向かって、さらには神が「これはわたしの愛する子なのだ。これに聞け」と、弟子たちの前におられる主イエスがどういうお方かを悟るようにと、語りかけてくださったのです。
マルコによる福音書ではこの先でもう一度、「主イエスが神の子である」と、人間が告白する場面が出てきます。それは、主イエスが十字架上で息を引き取られた直後のことです。15章39節に「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」とあります。主イエスに向かって「この方は神の子です」と初めて言った人間は、主イエスの死を見ていたローマの百人隊長でした。
マルコによる福音書は、「主イエスはどういう方なのだろうか」ということを巡って書かれていくようなところがあります。一番最初は、主イエスが洗礼をお受けになった時です。神が主イエスに向かって「あなたはわたしの愛する子」と呼びかけてくださったところで、主イエスは神の子としての自覚を持って歩み始めるのです。けれども弟子たちはそのことをずっと分からないまま主イエスと一緒に旅を続けて行きました。今日の箇所で弟子であるペトロたちは、はっきりと「これはわたしの愛する子」という神の御声を聞きますが、彼らはそれでも理解しません。そして一番最後に、主イエスが十字架の御業を成し遂げられたところで、その場にいたローマの百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」と告白するのです。このように「主イエスはどういうお方か」ということが少しずつ分かっていくような仕方で、マルコによる福音書は書かれています。
けれども、主イエスが神の子だと最初に告白するのは、どうして弟子たちではなかったのでしょうか。それは、はっきりしています。主イエスが逮捕された時に弟子たちは逃げてしまい、十字架の場面にはいなかったからです。主イエスが神の独り子であり、神の御心に従って救いの御業をなさる方だと告白するためには、「主イエスの十字架の御業が確かに行われた」ことが確認されなくてはなりませんでした。「父なる神の御心に従って十字架の御業を果たしてくださった」ことを確認する人だけが、「この方は神さまの独り子である」と告白することができるのです。
今日の箇所で弟子たちは、主イエスを救い主、メシアだと思ってはいました。ところが、弟子たちが思い描く救い主のイメージは、この先実際に主イエスが辿っていかれる救い主としての歩みとかなりズレがあると言わざるを得ないのです。弟子たちは主イエスがどのように救いを実現する救い主なのか分かっていません。それどころか弟子たちは、自分たちに都合の良い救い主を思い描いています。ですから、主イエスが十字架に向かわれる後に付き従いながらも、弟子たちの間では「誰が一番偉いか」という話が交わされたり、あるいは抜け駆けして、主イエスが栄光をお受けになる時には、自分を主の右左の席に座らせて欲しいと願いました。御業を果たして栄光を受ける時とはいつでしょうか。十字架に架かる時であれば、その右左の席とは主イエスの十字架の左右の十字架に架けられるということですが、弟子たちはそう思わず、主イエスがこの世の王になり、自分たちは大臣にしてもらえると思っていました。
しかし神は、そんな弟子たちに、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と呼びかけてくださいました。
雲が晴れて弟子たちが我に返ったとき、そこにはもはやモーセやエリヤの姿はなく、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」と言われています。弟子たちは、主イエスの言葉だけに聞いて生きるのだと教えられています。そしてそれは、私たちも同じだろうと思います。
聖書の中にはたくさんの物語や教えがあり、そこに登場してくる人たちも大勢いますが、しかし聖書のどの登場人物も、最後には「ただお一人の主イエス・キリスト」を指し示すのです。主イエス・キリストは、私たちのために十字架に架かってくださり、それによって私たちは罪を赦され、神の慈しみを受ける者とされています。「私たちがたとえどんなに困難な状況の下にあっても、なお神がそこでわたしを受け止め、愛してくださっている」、そのことを神は、主イエス・キリストの十字架と復活を通して私たちに知らせてくださいます。そして聖書全体は、そういうただお一人の主イエス・キリストを指し示しているのです。
神が主イエス・キリストを弟子たちに指し示してくださり、「これに聞け」とおっしゃっておられる言葉を、私たちもまた、心して聞くものとされたいと願います。
どんな時にも、たとえ時が良くても悪くても、主イエスが信じる者たちと共にいてくださり、神と私たちを結びつけ、神の慈しみと憐れみのもとに私たちを立たせてくださることを信じたいと思います。
そして、神の慈しみのもとに置かれている者として、私たちはここから歩む者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |