聖書のみことば
2022年5月
  5月1日 5月8日 5月15日 5月22日 5月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月29日主日礼拝音声

 しるしを求める
2022年5月第5主日礼拝 5月29日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第8章11〜13節

<11節>ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。<12節>イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」<13節>そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

 ただいま、マルコによる福音書8章11節から13節までをご一緒にお聞きしました。わずか3節だけの短い箇所ですが、ここには、深くため息をついて嘆いておられる主イエスの言葉が記録されています。12節に「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。『どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない』」とあります。
 一体全体、主イエスは何に嘆いておられるのでしょうか。主イエスは「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう」と言われますが、では、「しるしを求めること」は、いけないことなのでしょうか。聖書のこの記事だけを読んで早とちりをしてしまいますと、「キリスト教信仰にはしるしは要らない」と思ってしまう方がおられるかもしれません。確かに主イエスは今日の箇所で、「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と言われますから、この言葉を強く印象づけられてしまうと、「しるしを求めたり、しるしを見て信じる信仰は間違いなのか」と受け取る方がおられるかもしれません。

 けれども、マルコによる福音書を読み進めた一番最後の16章17節と20節には、しるしということについて、肯定されているのではないかと思える記事があります。16章17節に「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」、20節に「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」とあります。ここでは、甦られた主イエス・キリストが弟子たちに向かって、もし本当に信じるなら、そこでは主イエスが伴うようになると約束してくださっています。心から信じて主イエス・キリストの御業を宣べ伝えるならば、「あなたは新しい言葉を語るようになる。悪霊たちもそれに抵抗することはできない」とおっしゃいます。そしてまた実際に弟子たちが出かけて行って、「十字架にお架かりになった主イエスは復活しておられる。そして私たちといつも共に歩んでくださる」と主イエスの復活を語ったところでは、その言葉が本当であることが様々なしるしによって示されるようになったとも言われています。
 こういう聖書の言葉を一体どう受け取ったらよいのでしょうか。マルコによる福音書の一番最後に語られていることを考え合わせるならば、「キリスト者はしるしを求めてはならない。しるしとは無縁だ」とは、簡単に言えないのではないかと思うのです。

 今日は少しだけ横道に逸れて、私たち自身の教会生活の経験のことを少し思い出して考えてみたいと思います。私は愛宕町教会に赴任する前に日下部教会でお仕えしていました。日下部教会の最初の牧師は結城無二三という人ですが、この人が入信した経緯を聞くと、それはまさに「しるし」を通してキリストを信じるようになったという証しの言葉が綴られています。無二三は、元々は幕末の新撰組の隊士の一人でした。幕府軍が負けたため、無二三はお尋ね者になります。それで、勝沼の山の上にあった御代咲村に妻と作男と牛を連れて隠遁をしました。夫婦には長男が生まれます。無二三の家は元々医者でしたので、育ちの上では教養がありました。家には漢籍の書物があり、その中にあった聖書を漢文で読んでいたそうです。明治11年の暮れに、作男が里帰りしている間に妻が高熱を出して一時昏睡状態に陥り、無二三自身も熱が高くなって起き上がれない、生まれたばかりの赤ん坊はその横で泣き叫んでいるという、大変悲惨な状況になりました。そういう苦しい状況の中で無二三は、聖書の中にあったエホバの神を思い出したというのです。聖書の中には「祈れば聞かれる」と書いてあったのを思い出し、どう祈ってよいのか分からないのですけれども、「神よ、親子を助け給へ」と夢中で祈ったそうです。すると不思議なことに、意識を失っていた妻の意識が戻り、そして無二三自身の熱も下がり始め、赤ん坊は泣き止んでくれたそうです。おまけに作男も予定より早く帰って来て、医者も呼び、いろいろな手当をしてもらえることになりました。無二三はすっかり驚いて、漢籍の聖書を仏壇に供えてエホバの神にお礼を言い、自分は献身することにしました。まるで作り話みたいですけれども、こういう話が日下部教会の教会誌を開くと載っています。

 もちろん私たちは、無二三が経験したのと同じような経験をするわけではありません。けれども、私たちの生活を振り返ってみますと、似たような証しが日本中の教会の至る所に溢れているのではないかと思います。例えば、医師からあと数日の余命宣告を受けたキリスト者が、共にいてくださる主イエスを思い、その日から、「どうかイエスさま、わたしを生かせる間だけ生かしてください」と祈りながら生活したら、その後5年間も生きて医師が驚いたというような話も耳にすることがあるのではないでしょうか。そのように、信仰者には確かに何か上よりの力のようなものが働いて、困難な状況下にあっても好ましく持ち運ばれるという不思議な経験をさせられることがあると思います。
 そして、そういう神の力を示された経験が入り口になって、主イエスを信じ神への信仰を告白するようになるということも、ないとは言い切れないと思います。

 そこでもう一度、今日の聖書の箇所に戻って考えたいのです。主イエスはここで深い嘆きをもって「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」とおっしゃいます。主イエスは一体何を嘆いておられるのでしょうか。それは、主イエスのことを信じようとは思わないで、むしろ主イエス以外の所に何かの不思議なしるしを見たいとする、そういう人たちのあり方を嘆いておられるのではないでしょうか。
 11節に「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」とあります。ファリサイ派の人々が「新たなしるしを示してほしい」と主イエスに言ったというのです。
 実は、「主イエスはどういう方か」ということを表すようなしるしは、既に今まで幾度となく行われてきています。マルコによる福音書の前の方を読んでも、主イエスは、汚れた霊を追い出してペトロの姑の熱病をはじめとして本当に多くの病人の病気を癒し、重い皮膚病や中風の人を癒し、湖の上を歩き、そしてまた多くの人々を僅かな食べ物で養うということをなさっておられます。
 ところが今日の箇所に登場するファリサイ派の人々は、そのようにして主イエスが今まで行なってこられたのとは違う、天からのしるしを見せて欲しいと言って、議論をしかけています。この人たちは、主イエスが何かしるしとなるような不思議な出来事を新たになさるのを見た上で、それが天からのものであるか、言い換えれば、それが神に由来することなのかどうかを論じ合おうとしているのです。

 しかし、そもそもどうしてこういうことが議論になるのでしょうか。それはファリサイ派の人たちが、「主イエスは神のもとからおいでになった方だ」ということをどうしても認めたくないと思っている、その思いが根底にあるからではないでしょうか。彼らは、「イエスが神の子であるはずがない。そもそも神の独り子が自分たち人間の世界に現れるはずがない」と思っていて、主イエスのなさる不思議な御業は天からのものではないと、くさそうとしているのではないでしょうか。
 そしてそういう在り方に留まろうとする人は、確かにこの世にいるように思います。このファリサイ派の人たち以外にも似たような人はいて、例えばマルコによる福音書に登場する人で言えば、3章22節に出てくる律法学者です。3章22節を見ますと、エルサレムからカファルナウムに下って来た律法学者たちが主イエスのことを、「あれは悪霊の頭ベルゼブルに取り憑かれているのだ。悪霊の頭の力に物を言わせて悪霊を追い出したり病気を癒したりしているのだ」と悪く言っている場面が出てきます。今日の箇所のファリサイ派の人々もこの律法学者と同じような考え方をしていて、「もし本当に主イエスが神の子、あるいは神から遣わされた者だというのならば、これまでたくさん行ったものとは違う、もっと別の、誰もがこれは神御自身か神の子でなければ決して行うことはできないと驚くような奇跡を見せて欲しい」と言って、しるしを求めているのです。
 けれども、では具体的には、どんなしるしを見たら「確かにこれは神さまの力だ」と言えると思っていたのでしょうか。例えば出エジプトの際のモーセのように、主イエスの前に海が二つに分かれて乾いた道ができるとか、あるいは預言者エリヤが行ったように天から火を降らせて様々なものを燃やしてしまうというようなことを見たかったのかもしれません。
 いずれにしても、ファリサイ派の人々が願ったようなしるしは与えられませんでした。主イエスは彼らの求めに応じることなく、「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と言い置いて、舟に乗って去って行かれました。

 ファリサイ派の人々のことを考えますと、これは残念なことだったと言わなくてはならないと思います。というのも、彼らは主イエスに向かってしるしを見せて欲しいと願いましたが、実際には、しるし以上のものに相対していたからです。つまり彼らは、主イエス・キリストその方にお目にかかっていました。しるしどころではなくて、諸々のしるしが指し示すその方と直に向き合っていたのです。それなのに彼らは、今自分がどなたと会っているのかということが分かりませんでした。そして一時出会った後で、すれ違っていきます。このことは、本当に残念なことだと言うべきだろうと思うのです。

 けれども私たちは、今日の箇所を聞きながら、ただファリサイ派の人々のことを残念がっていればよいのでしょうか。今日の記事は、翻ってここで聖書を開いている私たちにも問いかけてくる言葉ではないでしょうか。
 すなわち、ファリサイ派の人々が主イエスに直にお会いしていながらその事に気が付かないですれ違ってしまったのだとすれば、今日ここにいて聖書の話を聞いている私たち自身はどうなのかということにならないでしょうか。ファリサイ派の人々はしるし以上の方、すなわち神の独り子であり救い主である主イエスその方にお目にかかっていたのに、そのことを悟らないで、ただ自分に分かるようなしるしを見せて欲しいと願ったのです。私たちはどうでしょうか。
 私たちは教会の礼拝の中で、主イエスにお会いしているのではないでしょうか。ところがそれでいて、私たちもまた、なかなか自分がここで主イエスにお会いしているのだということに気が付くことのできない鈍さを持っているのではないかと思うのです。
 主イエス・キリストは、この礼拝の中で私たちの間に立って下さり、私たちと出会い、親しく御言葉をかけて慰め、励まし、支えようとしてくださいます。私たちを勇気づけて、「与えられた命の中に留まって、人生を生きていくように。命を感謝して歩んで行くように」と招いてくださいます。
 ところが、そういう主イエスが実際に私たちの前におられるのだということに気が付かないのだとしたら、それはファリサイ派の人たちだけでなく、私たち自身もまた、大変残念だということになってしまうのではないでしょうか。本当はこの礼拝の中で主の御言葉を確かに聞くことができ、「主イエスが共にいてくださる」ということがよく分かって、慰められ励まされ、勇気と力を与えられて、ここから一週間の生活に向かっていけるならば、どんなによいだろうかと思います。そして現に、そのようにして勇気と力を与えられ一週間の生活に向かっていくという方は大勢いらっしゃるのです。

 ところが、そういう方々の中で、もし「自分はまだ確かには分からない」という時には、私たちは一体どうしたらよいのでしょうか。それは辛いことだろうと思うのです。周りの人が「わたしは主イエスにお会いして力を与えられ、ここから歩んで行ける」と喜んでいる時に、自分だけは一緒になって喜べないで、「同じ礼拝の時を過ごしたはずなのに、どうしてわたしには分からないのだろうか」と思う時に、私たちは、「何かのしるしによって、主が共におられることを知ることができますように」と願ったり望んだりしてはいけないのでしょうか。
 主イエスはファリサイ派の人々に対しては、「しるしは決して与えられない」とはっきりおっしゃって立ち去られました。それは、彼らがあらかじめ自分の中に、神の子や救い主についてのはっきりしたイメージを持っていて、それに合うか合わないかによって主イエスの正体を知るために議論しかけようとしていたためです。
 けれども、まことの救い主であり神の独り子である主イエスは、常に私たち人間の思いを超えるお方です。私たち人間の描くイメージの中には、主イエスは収まらないのです。

 主イエスは今日の箇所では、「しるしは決して与えられない」と言われましたが、別の機会、別の人たちに対しては、よく似てはいますが少し違うことをおっしゃっています。ルカによる福音書11章29節に「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。『今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない』」とあります。
 ここでも主イエスは、「しるしは与えられない」と言われます。この時代の多くの人々が望むような、人の目に良さそうに見える、人目を惹きつけるようなしるしは与えられないのです。けれども、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」ともおっしゃっています。
 「ヨナのしるし」というのは一体何のことでしょうか。これは旧約聖書のヨナ書に語られている出来事です。ヨナ書は全体が僅か4ページだけの短い書物ですので、是非お読みいただきたいと思います。
 ここでは、預言者ヨナが荒れ狂う海の中に投げ込まれるという場面が出てきます。すると神がヨナのために大きな魚を備えてくださるのです。ヨナは三日三晩、魚のお腹の中に置かれた後、また陸地に吐き戻されます。そういう仕方でヨナは死の海から帰還する、そういうことが記されています。
 主イエスがここでおっしゃっている「ヨナのしるし」というのは、「主イエスが十字架上で死なれ、三日間お墓の中におられ、そして三日目に復活する」ということを指しています。キリスト者にとって、「神が分からなくなる。神がどうしてもよそよそしい方のように感じられて、主イエスが自分と共にいてくださることも分からなくなってしまう」ことは、大変辛く寂しいことですが、そのような気持ちの時に、そこになお一つのしるしが与えられるのだと、主イエスはおっしゃるのです。それは「主イエスの十字架と三日目の復活」というしるしです。
 主イエスはルカ福音書のこの箇所で、本当は、「十字架と復活こそが唯一のしるしなのだ」と人々に教えたかったのです。けれども主イエスは地上の御生涯を歩んでおられ、まだ十字架の出来事は起こっていませんから、そう教えることはできず、それでヨナの出来事に例えて、「あなたがたには、ヨナのしるししか与えられない」と言われたのでした。
 まさしくヨナの出来事はしるしであって、ヨナの出来事自体が人々を救うのではありません。ヨナはしるしとして何を指し示すのかというと、キリストの十字架と復活を指し示すのです。主イエスは地上に来てくださり、私たちのために十字架にかかり、復活して、救い主としての御業を果たしてくださいました。これはもはやしるしではなくて、実際になされた私たちのための救いの出来事です。主イエスの十字架と復活は単なるしるしではなくて、私たちのために行われた出来事です。

 ですから、もし私たちが、「主イエスがどこにおられるのか分からない。主が共にいてくださることが分からない」と思って辛く寂しい気持ちになる時には、まさに主イエス御自身が十字架の上で人々から見捨てられ全くの孤独の中で苦しみ死んでいかれた、そういうお方として、私たちのすぐ傍にいてくださるのです。私たちは、「十字架と復活の主イエスがどのような時にも共にいてくださる」ことを信じるならば、どのように辛い状況にあっても、どのように寂しい状況のもとに置かれても、なおそこに神の慈しみが注がれているということを知るようになります。なぜかというと、主イエス御自身が神の慈しみを信じて、またそれに支えられて歩んでおられたからです。
 私たちが、神の真の愛と慈しみを信じることができないとしても、そういう私たちの辛く寂しい歩みに伴ってくださる主イエスが私たちの傍にいてくださり、神の慈しみを私たちのもとに運んでくださっているのです。

 私たちは、そういう主イエスが共にいてくださるのだということを知らされる時、そして信じる時に、新しい勇気を与えられ、そして、愛を行って生きる信仰者らしい歩みを続けていくことができるのだろうと思います。
 その時、信仰というのは、私たち自身の思い込みとか、自分の思いの強さではなくて、「確かに主イエスがわたしと共に歩んでくださっている。神さまがわたしを慈しんで、わたしを顧みてくださっている」という、御手のうちにある平安が事実になるだろうと思います。人間の思いの強さや力や頑張りではなくて、神の慈しみに支えられて、私たちは生きていくのです。

 私たちに力を与えてくださる神のしるし、神の御業、それが「主イエス・キリストの十字架と復活の出来事」です。主の十字架と復活を仰ぎ見ながら、共に生かされている隣の人たちに仕え、平らに愛を行って生きる、そういう幸いな者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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