2022年4月 |
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4月3日 | 4月10日 | 4月17日 | 4月24日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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娘の癒し | 2022年4月第1主日礼拝 4月3日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第7章24〜30節 |
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<24節>イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。<25節>汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。<26節>女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。<27節>イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」<28節>ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」<29節>そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」<30節>女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。 |
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ただいま、マルコによる福音書7章24節から30節までをご一緒にお聞きしました。29節に「そこで、イエスは言われた。『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった』」とあります。「それほど言うなら」と、主イエスはおっしゃっています。主イエスはこの女性の言葉に驚いておられるのです。それもただ驚いたという程度ではありません。「驚愕した、心底びっくり仰天した」と言ってもよいほどに驚かれたのでした。この驚きというのは、ティルスという外国の地で主イエスが予想もしておられなかった信仰に出会った驚きです。一体何が起こったのでしょうか。 まずは24節に「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」とあります。ティルスは地中海に向かって開けた港町で、フェニキア人が住んでいる町です。主イエスはユダヤを飛び出し、外国にまで行かれました。主イエスのご生涯の中で、この時が一番の遠出でした。どうしてこんなに遠くまで、弟子たちを伴って行かれたのでしょうか。世界に伝道するためでしょうか。どうもそうではないようです。 ところが実際のところ、主イエスが宣べ伝えようとした救いは、この時に至ってもほとんど理解されていませんでした。弟子たちにも理解されていなかったのです。この時、主イエスのことを喜んで迎えているつもりの人たちは大勢いました。6章終わりには、ガリラヤでは主イエスがどこの町や村に行かれても、すぐに人だかりができたと言われています。大勢の人が病人を連れて主イエスのもとを訪れたのですが、それだけ多くの人々が主イエスの教えに心を打たれ、また主イエスの力ある業に魅了されていたということが分かります。どこへ行っても、主イエスはまるで人気者のように歓迎されました。しかしそうでありながら、そこに一つの限界がありました。その限界とは、確かに人々は主イエスを大いに頼り歓迎しましたが、それは、病気が治るとか、僅かなパンで大勢の人が養われるというような、自分たちにとって限定的な利益をもたらしてくださる、その限りにおいて主イエスを喜び迎えているという限界です。 ごく普通の人が考えるように、自分の思いや願いが実現されることが人生で最善のことだと思って生きるとすれば、そういう人生はどなたの人生であっても決して幸いなものにはなって行きません。日本では、本当に多くの人が自己実現がとても良いことだと思って暮らしているのですが、しかし実際には、それは人間を不幸にします。どうしてかというと、どこを探しても自分の思った通りに生きられる人生など、どこにもないからです。私たちは決して、神ではない。すべてを見通すことも、すべてを思いのままにすることもできません。時には自分の思いや願いを押し通そうとして、力づくで無理やり何かを行おうとする場合がありますが、そのために結果的には酷いしっぺ返しを受けるということが起こります。私たちは何が最善で何が本当に正しいか、いつでも分かっているかというと、そうではないのです。実際には判断でも誤りを犯しがちな、そういう者にすぎません。私たちの人生には誤りが含まれますし、また自分の思い通りにはならないのです。それでも思い通りに生きるのが最善で、自分の願いや思いが実現されるのが良いことだと思い続けているのであれば、結局は思い通りに生きられない、良い人生を生きていないというところに行か着かざるを得ません。私たちが与えられている命と人生を幸いなものとして喜んで生きるためには、自己実現という価値観は誤った価値観なのです。 神は人間を深く憐れんでくださいます。私たちが様々な過ちを犯しがちであり、また人生は思い通りにならないのだとしても、それでも、私たちが幸いな人生を生きられるようにと、神は救い主を送ってくださいました。「悔い改めなさい。生き方の向きを変えなさい」とおっしゃる主イエス・キリストの言葉は、別に言えば、「あなたは自分中心の物差しを捨ててしまいなさい」ということです。「自分の気に入るか入らないかで人生の良し悪しを測ろうとするのではなく、別の物差しに従って人生を生きなさい」と主イエスは勧められるのです。それは、どういう物差しでしょうか。「福音を信じて生きる」という物差しです。「神さまの慈しみが常にわたしに注がれていることを覚えて生きていく」、そういう生き方です。「神さまの慈しみと愛は、どんな場合にもあなたの上に注がれている。あなたは神さまの恵みによって支えられ、今日を持ち運ばれて生かされている。そういう福音を信じて生きるように」と主イエスは教えられました。 ところで、当時主イエスの周りに生きていた人たちは、そういう主イエスの御業さえも、自分にとって都合よく事が運ぶためのものだと誤解して受け止めました。自分たちにとって都合の良いこと、癒しや食卓の問題に解決がもたらされる、その限りにおいて人々は、主イエスを喜んで迎えました。そして、主イエスにとって最も身近であるはずの弟子たちですら、そういう群衆の歓迎や期待を誇らしいもののように感じてしまっていたことを、主イエスは大変深刻に受け止められたのです。それで、群衆の歓呼の声が聞こえない静かな場所で、もう一度弟子たちを訓練しようとお考えになり、ガリラヤを遠く離れてフェニキアのティルスにまでおいでになったのでした。 そういう中で、一人の幼い娘を持つ母親が主イエスのもとにまっすぐ来て、主イエスの足元にひれ伏しました。25節26節に「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ」とあります。またしても「悪霊を追い出してください」と願う人が現れました。この母親はギリシア人だったと言われていますが、これはユダヤ人ではない異邦人だったということを言っています。 従って主イエスは、この時、この女性に対して大変厳しい返事をなさいました。27節に「イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない』」とあります。主イエスはここで、同胞であるイスラエル、ユダヤの人たちのことを「子供たち」と呼びます。そしてこの女性のような異邦人を「小犬」と呼んでいます。小犬というのは幾分遠慮した柔らかな訳ですが、原文ではそのまま訳してしまうと「犬ころ、犬畜生」とでもいうような酷い言葉が使われています。そういう言い方で、この時主イエスは、このフェニキア人の女性の望みが全くお門違いであるということを分からせようとなさったのでした。「わたしには是非とも養わなければならない子供たちが大勢いる。その子供たち、イスラエル、ユダヤの人たちは、来るべき救い主からいただくはずの命のパンを必要としているのだ。今ユダヤ人たちは救いから迷い出て失われた羊のようになっていて、すっかりお腹を空かせているのだから、一刻も早くパンを子供たちに届けなくてはならない。それに比べると、女よ、お前は部外者にすぎない。食卓の周りを物欲しげにうろついている野良犬のようなものであって、家に入って食卓に着く資格などないのだ」と、主イエスは非常に厳しいことをおっしゃったのですが、しかしその後、この言葉に続いて起こったことが今日の記事の中心となることです。 28節「ところが、女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます』」。この哀れな、そして娘のことが不安でならない女性が主イエスに対して申し上げました。こういう主イエスと女性のやり取りに抵抗を感じるという方は当然おられることと思います。「どうしてユダヤ人だけが選ばれた民なのか。主イエスの断り方はあまりに酷くはないか。すべての人間が神さまに造られ、神さまから命をいただいているのであれば、すべての人が神さまの前に平等に扱われるべきではないか」と思われることでしょう。確かに、ある人は神の民に選ばれるけれど他の人は選ばれないというのは、人間的には納得がいかないことのように思えます。特に優れているわけでもないのに、なんでこちらが選ばれているのかと思ったりもします。 この時この女性は、主イエスに向かって「主よ」と呼びかけました。この呼びかけは、マルコによる福音書の中ではただ1度、ここだけにしか出てこない言葉です。意外に思われるかもしれませんが、マルコによる福音書では、他の誰も主イエスに向かって「主よ」と呼びかけません。弟子たちなら当然言いそうなものですが、弟子たちも言わないのです。その意味で、本当に予想外の言葉がこの女性の口から、しかも異邦人であるティルスの女性の口から聞かれているのです。 このフェニキアの女性の姿というのは、私たちにとっては勇気を与えてくれるものではないでしょうか。私たち自身は、いったい神の前にあって自分自身をどういうものだと思いながら生活しているでしょうか。「わたしは神さまの民の一員に間違いない」と思っているでしょうか。けれども、神の民であればそれに相応しい生活を送っているだろうかと、常にそのことが問題にならざるを得ないと思います。「わたしは果たして神の民に相応しいか」、そのことに思いが向くときには、私たちは考え込み迷ってしまうのではないでしょうか。 しかしそれでも私たちは、やはり神を忘れ去り、主イエスを抜きにした生活を送ってしまいます。実際の私たちがそうであれば、私たちはその生活を指さされて、「お前は神さまと無縁の者だ」と言われてしまっても仕方ありません。残念なことですが、私たちが日々暮らしている姿には、そういうところがあるのです。 フェニキアで主イエスがお聞きになったこの女性の言葉は、確かに特別です。ガリラヤでもユダヤでも他のどこでも聞くことができなかった言葉を、主イエスは耳になさいました。十字架にお架かりになる時に至っても、遂に弟子からも聞くことのなかった言葉を、主イエスはこの日、耳になさいました。 今日の記事で、私たちは一体どこに心惹かれるでしょうか。主イエスの憐れみにどこまでも取り縋ろうとする母親の熱心さに心惹かれるでしょうか。あるいは「お前は小犬だ」という言い方で主イエスから否定されても、「その通りです」と完全にへりくだっている、そういうところに心惹かれるでしょうか。 そして、その同じ主イエス・キリストは、私たちの前にも来てくださっているのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。あなたの思いが実現するかどうかによって物事を決めるのではなくて、神さまの恵み、慈しみがあなたの上にいつも注がれている、神さまに深く愛されていることを覚えて、ここから歩んで行きなさい。神さまの恵みの御支配のもとに生きる者になりなさい」と、主イエスは今、私たちに呼びかけてくださっています。 |
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