2022年2月 |
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2月6日 | 2月13日 | 2月20日 | 2月27日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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洗礼者の死 | 2022年2月第3主日礼拝 2月20日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第6章14〜29節 |
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<14節>イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」<15節>そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。<16節>ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。<17節>実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。<18節>ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。<19節>そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。<20節>なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。<21節>ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、<22節>ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、<23節>更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。<24節>少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。<25節>早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。<26節>王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。<27節>そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、<28節>盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。<29節>ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。 |
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ただいま、マルコによる福音書6章14節から29節までをご一緒にお聞きしました。14節に「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。『洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている』」とあります。主イエスについて、「彼は一体何者なのか」という問いが生じ、議論されていたことが分かります。 主イエスが12人の弟子たちを2人ずつ組にしてお遣わしになり、各地に送られた弟子たちの目覚ましい働きによって、主イエスの名前が広く知られるようになりました。それで、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスの耳にもその名が入ったと述べられています。 この時、洗礼者ヨハネはもう地上にはいませんでした。主イエスはヨハネが亡くなった後に活動を始めたのですが、「ヨハネの後に現れたイエスという人物」についての噂が多くの人々の間で囁かれていました。その噂の多くは興味本位のものだったようですが、人によっては、「彼は一体何者なのか」という問いを真剣に考えた人もいたはずです。というのも、弟子たちを通して宣べ伝えられた「神の御国、神の慈しみの御支配が来ている」という事柄は、ただこれを知識として知っておけばよいというものではなく、「信じて生きるように、信じて生活するように」と勧める言葉だったからです。「神さまの慈しみ、恵みが、いつもあなたの上にある。あなたは今この時にも、神さまから覚えられ愛されている。その神さまの愛を信じて生きていきなさい。どんなに大変な時も、どんなに辛いことが起こる時にも、神さまがあなたを愛してくださる。またあなたの周りの人たちのことも、神さまは愛しておられる。そのことを知って、神さまに愛されている者として、あなたも神さまの愛に仕えるように生き始めなさい」、そういう招きは、これを聞く人に、単なる知識ではなく「悔い改め」を求めるメッセージでしたから、それまで当たり前のように自分の願いや思いを追求して神抜きで生きてきた人たちにとっては、非常に新鮮なものに聞こえたのです。 けれども、他の噂もあったと記されています。15節に「そのほかにも、『彼はエリヤだ』と言う人もいれば、『昔の預言者のような預言者だ』と言う人もいた」とあります。 また、「昔の預言者のような預言者」と言われているのは、イスラエルの民をエジプトの奴隷暮らしから救い出し脱出させた、モーセのことが考えられています。モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出し、長い旅がそこから始まったのですが、その旅の最中にネボ山に登ったところで亡くなりました。しかしモーセは亡くなる直前に、イスラエルの同胞たちに一つの約束を語っていました。旧約聖書、申命記18章15節にその言葉が出てきます。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」。これが、モーセが亡くなる直前にイスラエルの兄妹姉妹に告げた言葉です。「昔の預言者のような預言者」というのは、モーセが言い残した「預言者」ということを言っています。モーセがエジプトのファラオの支配からイスラエルの民を導き出したように、最近名前が知れるようになったイエスという人物も、自分たちをローマ帝国の支配から救い出してくれる、そういう指導者ではないかという期待があったことが分かります。 主イエスのことを、ある人は洗礼者ヨハネの再来だと言い、他の人はエリヤ、また別の人はモーセのように自分たちを指導してくれる預言者だと言いました。言葉の上では大変肯定的、好意的に聞こえますが、しかしこれは、人々が自分勝手に主イエスを評価し決めつけている言葉です。自分が心の中に抱いている期待を主イエスに託して語ったのです。けれどもそういう言葉は、実は容易く否定的な評価に変わるものでもありました。「主イエスは敵である」と判断した途端に、「十字架につけろ」という言葉に変わってしまった、そういう言葉でもあったのです。 「主イエスはどういう人物か。主イエスのことをどう思うか、どのように主イエスを受け止めるのか」、こういうことはもしかすると、私たちも考えることがあるかもしれません。しかしそういう議論は、どんなに真剣な議論であっても、あるいはどんなに主イエスを尊敬しその教えを大事にしていたとしても、結局は「自分はどう思うのか」と、自分の心の中にある主イエスに問うているだけです。そして人間の心の事柄は不動ではないので、私たちは、自分としては「こうだ」と固く思ったとしても、心はいつも彷徨っていて動いてしまいます。 今日のところで噂話として出てくる「イエスは何者なのか」という議論は、この福音書をもう少し読み進めていった8章28節のところで、もう1度、出てきます。人々は思い思いにイエスのことを噂し合っていて、それでいて一向に答えが出ませんでした。8章では、主イエスが弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と、人々の噂についてお尋ねになり、その後、今度は弟子たちに向かってお尋ねになりました。8章29節に「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』」とあります。 ところで、ヘロデの耳に主イエスの噂が入った時に、ヘロデはどう思ったのでしょうか。16節には、「ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った」とあります。ヘロデは、ヨハネを死に追いやった後でも、なお洗礼者ヨハネを恐れています。どうしてかというと、ヨハネに対して非常に悪いことをしたと本心では分かっているからです。ヨハネに対して悪い行いをしたという思いがあればこそ、ヘロデは、人々が主イエスのことをヨハネの再来だと言っていることが非常に気になったのでした。 そういう不安を覚えながら、しかしヘロデには、もう一つの側面もあるのです。それは、自分がガリラヤの領主であり権力者なのだという自負心です。それが、「わたしが首をはねたあのヨハネ」という言葉に現れています。「正義には真実も大切だ。自分はその点では過ちがあった。しかし現実の世の中では、権力の方がはるかに力がある。ヨハネを殺してしまったのは失敗だったし過ちだけれど、しかし生き返ったというのなら、またその首をはねればよい」という自負が、ヘロデにはありました。 「わたしが首をはねたあのヨハネが、死者の中から生き返ったのだ」、そういうヘロデの言葉をきっかけにして、ここでは洗礼者ヨハネの死の出来事が語り出されます。この出来事は、この世の権力と、御言葉を伝える者との関係を表しているようにも感じられます。そして、神の御言葉、福音を宣べ伝える宣教の業は、いつでも神に守られ順調に進むとは限らないということが聞こえてくるように思います。どうしてかというと、キリストの福音は、聞く人に悔い改めを求めるからです。 そして、これと全く同じことが、後に主イエスを裁いたローマ総督ピラトにも見られました。ピラトもまた、主イエスのことを「この人には何も悪いところがないと思う」と言いながら、実際には主イエスを十字架に磔にしていくのです。 洗礼者ヨハネの死をめぐる出来事は、いろいろなことを私たちに考えさせます。 |
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