聖書のみことば
2021年8月
  8月1日 8月8日 8月15日 8月22日 8月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

8月29日主日礼拝音声

 新たな信仰
2021年8月第5主日礼拝 8月29日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第2章18〜22節

<18節>ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」<19節>イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。<20節>しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。<21節>だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。<22節>また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

(録音には一部雑音と途切れがあります。ご了承ください)

 ただいま、マルコによる福音書2章18節から22節までをご一緒にお聞きいたしました。18節に「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』」とあります。ここで「断食」ということが問われています。
 最初に「断食」について説明しますと、もともとユダヤ教では、ユダヤの暦の7月10日を「断食の日」と定めて、その日の日中は食事をとらないことになっていました。1年に一度そういう日があったのですが、時代が下がるにつれて「断食の日」は次第に増えていきます。年1回だったものが年4回になり、さらにその回数が増え続け、主イエスが生きておられた頃には週2回の断食が勧められていました。神の前に敬虔な人はそうするものだと言われていたのですが、さすがに毎週2回の断食というのは、すべてのユダヤ人が実行できたわけではありませんでした。しかし律法を行うことに情熱を傾けるファリサイ派と呼ばれるグループの人たちは、この週2回の断食を熱心に守っていました。
 また、ここに名前が出てくるもう一つのグループ、ヨハネの弟子たち(洗礼者ヨハネの弟子たち)も定期的に断食を行っていました。彼らの場合は、先生である洗礼者ヨハネが「もうじき神さまの裁きの時が訪れる。その時には、正しくない人はすべて裁かれ、木が切り倒されるみたいに滅ぼされる」と教えましたので、「自分の心身の弱さ、神になかなか従うことができない弱さを感じる中で、断食をして、神さまだけに依り頼む思いを新たにする」という意味で、繰り返し行っていたのでした。

 世間ではそのように断食を行っている人たちが多くいましたが、主イエスの弟子たちは断食をすることがありませんでした。これは、先生である主イエスご自身が断食をなさらなかったということに由来します。それで人々は主イエスのところに来て「どうして断食しないのか」と尋ねました。それが18節の言葉です。これに対して主イエスは、19節「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」とお答えになりました。
 「どうして断食しないのか」という問いに対して、主イエスは婚礼の喜びの席の話を持ち出されました。「婚礼」というのは一生に一度のことですが、当時のユダヤでは大変重んじられていました。それはただ単に心の中で結婚のことが重んじられたというだけではなく、実際に結婚式の時にはお祝いの宴が一週間続いたそうです。一週間の間、皆で喜びを共にしました。一週間ですから、そのうち必ず1日は安息日にぶつかります。安息日には何もしてはいけないのが定めですが、婚礼のときには例外が設けられていたそうです。普段は、安息日には皆でシナゴーグに集まり、律法が読み上げられ祈りが捧げられるという礼拝が行われていましたが、婚礼が行われている時には礼拝は休止され、共同体が皆その結婚式に集い、喜びを共にするという習慣になっていました。主イエスがここで持ち出しておられる話は、そういう当時の風習です。当時の結婚式は、花婿が花嫁の家に行って行われますから、「花婿が来ていて婚礼が行われている最中には、律法の朗読も説き明かしも断食もしないでしょう。今がまさにその時なのだ」というのが、19節の主イエスの返事なのです。

 主イエスがこう返事をなさった時に、尋ねた人がどう思ったかについては語られていませんが、おそらくは大変驚いたのではないかと思います。「弟子たちにとって、主イエスが共にいてくださることは、それほどまでに嬉しい喜びの出来事なのだ」と、このように聖書から聞かされますと、私たちもまた大変驚かされるのではないでしょうか。
 私たちは毎週会堂に集まって礼拝を捧げ、聖書の朗読を聞き、その説き明かしである説教を耳にします。私たちは、「礼拝を捧げることは大切なことだ」と思っていますが、しかし、「どのようなことにも勝る喜びの席に、今、私たちは招かれ集まっている」とは、もしかするとあまり気がついていないかもしれないと思います。けれども、今日の聖書箇所が教えていることは、私たちはまさに婚礼に招かれ喜びを共にする者たちのように、この礼拝の場に招かれているということです。礼拝の場においては、「主イエスがこの礼拝に臨んでいてくださり、聖霊の働きによって、信仰によって、私たちは、聖書を通して親しく主イエスの言葉を聞き、主と共にある交わりの中に置かれる」、そういうことが実際に起こっているのです。
 ですから、日曜日の礼拝は「守らなければいけないもの」である以上に、「他の何ものをもってしても代えがたい、本当に大きな喜びの場」です。私たちの礼拝が一週間続くことはありませんが、その代わり毎週持たれます。そして礼拝のたびに、中心におられるのは花婿である主イエスであり、私たちは教会の群れとして花嫁のように、主イエスに結びあわされ一つとされていくのです。
 結婚式は一生に一度だと申し上げました。私たちが暮らす日常生活では、必ずしもそうとは言えないかもしれません。不運にも伴侶と死別したり、その他の事情によって結婚式が何度か行われるということもあるかもしれません。けれども、「主イエスと私たちが結び合わされて一つとされる」という意味での婚礼というのは、一度限りです。それは、主イエスが「永遠に、どのような時にも」私たちと共にいるとおっしゃってくださるからです。ですから、私たちが受ける洗礼も一度限りのものであり、洗礼を受けてからは、私たちは教会の枝に加えられ、その後は群れの大切な一員として覚え続けられていくことになります。私たちはそのようにして「主イエスに結ばれている一人一人」であるわけです。
 先週の礼拝では、徴税人のレビが主イエスから招かれ弟子になり、そのレビの家で喜ばしく嬉しい宴が開かれたという記事を聞きました。私たちは、花婿である主イエスが共にいてくださり、その御声を聞くことで心から慰められ勇気づけられ、そしてどんな困難や困った状態に陥る時にも「主がわたしと共に歩んでくださるから大丈夫」というほっとした思いを与えられます。そして私たち自身も「主イエスにどこまでも従って行こう」という思いを新たにされて、賛美を捧げながら日々を過ごしていくのです。

 ところで主イエスは、断食について問われた時に、そういう輝かしい婚礼の喜びをおっしゃりながら、その後で一言気がかりとも思えるような言葉を付け加えられました。20節に「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」とあります。この日主イエスは、花婿であるご自身が取り去られる時が来るとはっきり言われました。そしてそういうことが起こると、「今、喜びの食事を共にしている弟子たちは断食することになる」と言われました。
 「主イエスが奪い取られる時が来る」と言われています。この主イエスの言葉は、マルコによる福音書の中で、主イエスが最初にご自身の十字架の出来事について言及しておられる言葉です。「花婿が奪い取られる」というのは「主イエスの十字架」のことを言い表しています。そして「その時が来たら、弟子たちは皆断食するようになる」と言われました。主イエスがそのご生涯において、弟子たちを招いて共に交わりを持ってくださっていた「地上での繋がり」というものは、十字架によって失われていくことになります。弟子たちが今、主イエスと地上の生活において直接に交わり、喜びを共にしているような宴は、十字架によって中断をさせられるのです。

 そして「弟子たちは、その時には断食することになる」というのですが、この言葉には、ただ喜びの婚宴が中断されるということ以上の意味も含まれていると思います。それは、弟子たちにとって主の十字架という出来事が、弟子たち自身の弱さと不甲斐なさ、あるいは罪の破れの結果として起こることだからです。
 弟子たちは、一番弟子のペトロを筆頭にして、彼ら自身の思いとしては「どこまでも主イエスに従って行く」という決心を固めていました。主イエスは花婿であり、召された弟子たちは皆花嫁のように、ずっと主イエスに添い遂げ、ついて行くのだと思っていたのです。主イエスが逮捕される直前に、ペトロが主イエスに語った言葉がマルコによる福音書14章29節以下に記されています。29節から31節に「するとペトロが、『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』皆の者も同じように言った」とあります。このように、弟子たちは皆それぞれに「自分はたとえどんなことがあっても、主イエスについて行く」という決心を固めているつもりでいました。
 ところが、それからわずか数時間ほどのうちに、主イエスが逮捕されるということが起こりますと、弟子たちは全員逃げ散ってしまいました。婚宴の幸せな宴の席で「たとえ他の人が皆つまずいたとしても、わたしだけは主イエスにどこまでも従っていく」と決心していたはずの思いは、 主イエスの逮捕と十字架の死という現実の前に、あえなく崩れ去り滅んでしまいます。弟子たちは、自分自身について幻滅を感じざるを得ませんでした。

 今日のところで主イエスは、弟子たちが感じる幻滅のことを思いやりながら、おっしゃっておられます。「花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」。この断食というのは、ただ花婿が取り去られるので宴が悲しみに包まれ中断されるということ以上に、招かれている弟子たち(花嫁)にとっては、自分自身の弱さや甘さ不甲斐なさということを見つめさせられ、しみじみと思い知らされる中で、「自分は貧しい者だ」ということを表す、そういう断食であるわけです。
 けれども、弟子たちのそういう辛い断食は永久に続くのではありません。断食が「花婿の不在」ということによって生じるのならば、奪い去られた花婿が復活して花嫁の元に戻ってくる時には、もはやその断食は必要なくなります。復活の出来事が起こって、主イエスが弟子たちの元に戻ってくる時には、再び輝くような交わりの喜びが戻って来ることになります。しかも、十字架の死の出来事によってもう決して会うことはできないと思っていた花婿との再会では 、ひとしお喜びが大きくなるのです。(中断)

 今日私たちに与えられている礼拝の場での主イエスとの交わりは、十二弟子たちが地上のご生涯を過ごしておられた主イエスと持っていた交わりと同じものではありません。
 主イエスは復活なさった後に、自分の不甲斐なさを嘆いて惨めな気持ちで断食していた弟子たちのもとを一人一人訪れてくださって、再び真実に「主がいつも伴っていてくださる」ということを示して下さり、交わりの中に招いてくださいました。そして、私たちが今日、教会に招かれて、主イエス・キリストと共にこの時を過ごしながら御言葉に触れ、主との交わりの中に置かれているこの交わりは、まさしく「復活なさった主イエス・キリストとの交わり」なのです。
 主の愛は、主イエスを裏切り逃げてしまったような人間の弱さを乗り越えて、なお主イエスが共に生きてくださろうとする、そのことを知らせてくださる交わりです。
 私たちは自分自身を振り返る時に、もしかすると自分の弱さということに気づかずに、自分の思いで主イエスに従っていくのだと思う時があるかもしれません。けれども、実際にはそうはなりません。その証拠に私たちは、気がつけばいつも主イエスのことを忘れ、神抜きで生活をしてしまいます。それが私たちの姿です。そしてそのことを重く受け止め、そのことばかりに思いが向くと、私たちはやはりとても自分の弱さということが気になってしまいます。しかし、主イエスはそういう私たち人間の弱さを乗り越えて、私たちのもとを訪れてくださいます。「あなたは自分の弱さに目を落として嘆くのではなくて、わたしを信じるように。わたしが必ずあなたと一緒に生きてあげるから、わたしと共に生きる生活に入るように」と招いてくださいます。
 そしてその招きこそが、今日ここに集められている私たちが、礼拝のたびに聖書を通して主イエスから聞かされる招きであり、喜びと感謝の源なのです。

 主イエスはそういう喜びを、この日二つの例えを用いて教えてくださいました。古い服に継ぎ布を当てる例えと、古い革袋にぶどう酒を入れる例えです。この二つ例えはどちらも、当時の人たちにとっては日常生活の中で経験することであって、よく分かる例えでした。
 織りたての、水にまだ晒していない新しい布地を、古い服の継ぎ布として当てたらどうなるでしょうか。新しい布はまだ繊維が硬く、水につけて乾かすとそのたびに水を含んで膨張したり、反対に乾くと収縮したりします。一方古い布は、長年水を含んだり乾燥したりを繰り返していますから、新しい布ほどには激しく伸び縮みしません。しかし古い布は繊維が柔らかくなっていますから、新しい布を合わせてしまうと、結局、新しい布の勢いに古い布が負けてしまって、いっとき継ぎを当てたようでも、その継ぎ目が新たな破れの原因になっていくのです。
 もう一つの皮袋とぶどう酒の例えも同じです。ぶどう酒は発酵してアルコールになっていきますから、新しいぶどう酒は発酵して膨らむ力があります。そのために、強い袋に入れなければなりません。古い皮袋は、今までの発酵によって皮が伸びきっていますから、その中に新しいぶどう酒を注げば袋が弾けて破れてしまいます。
 そういうことは、当時の生活の中でよく知られていることでした。主イエスは、そのような日々の生活の知恵を用いながら、ここで教えてくださいました。それは、「主に伴われて生きる喜びに満ちた輝かしい新しい生活」というのは、ただ律法を守るというような、枠に収まらないということです。「主に伴われ、御言葉を聞いて喜びながら生きる生活」は、自分の頭の中で律法を覚え、生活信条のようにそれを守って生きる生活よりも、はるかに活力に満ち喜びも大きいのです。

 ですから、主にある信仰生活は喜びと感謝の生活という色合いを強く帯びていくようになります。初代教会の頃から、教会ではそのような「主と共に生きる喜びに満ちた生活」を表す言葉が多く語られてきました。例えば、テサロニケの信徒への手紙一5章16節以下に語られている言葉がまさにそうです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。こういう言葉は、キリスト者が守るべき生活規範とか律法の言葉というものではありません。確かに「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と勧めの形を取っていますが、しかしこれは「主イエスがいつも弱い私たちと共に歩んでくださる」ところから出てくる喜びの言葉であり感謝の言葉であり、そして「キリスト・イエスによって神さまが私たちの上に行ってくださる御業を賛美する」、そういう信仰を言い表している言葉です。

 私たちの生活のただ中に、主イエス・キリストがおいでくださっています。そして、礼拝の中で時を共にし、御言葉を私たちに聞かせてくださいます。「いつもあなたと共に歩んであげよう。そしてあなたを支えよう」と言ってくださり、私たちの命と人生の後ろ盾となってくださっていることを覚えたいのです。
 主イエスがいつも確かに私たちに伴ってくださることを覚えながら、今週もここから歩み出したいと願います。

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